手が洗いたい
薄毛の原因が、実はシャンプーにあるのかもしれないという話がある。シャンプーを当たり前の習慣だと思っている人には信じられないかもしれないけど、実際にシャンプーをやめてみたら毛が生えて来たとか、薄毛の進行が止まったとかって人はたくさんいて、僕の知り合いもその一人だ。
シャンプーをやめて薄毛が治る理屈は比較的シンプルだ。
頭皮には脂質があって、これは頭皮にとって必要だからあるのだけど、シャンプーはこの脂質を洗い流してしまう。すると、頭皮は脂質を補充しようとして頭の栄養を使って脂質を分泌する。その所為で、頭の栄養が不足して髪が生えにくくなってしまうんだ。
シャンプーを販売している企業にとっては不都合な話かもしれない(正しいシャンプーの使い方のレクチャー動画を見た事があるのだけど、もしかしたら、それはその対策なのかもしれない)。
ただ、僕は“一応は筋は通っているけど、果たしてこの理屈だけで充分な説明なのだろうか?”と疑問に思っている。
何故僕がこんな疑問を抱くのかと言えば、人間の皮膚には無数の表皮常在菌がいて、人間の役に立ってくれているケースも多いという話を知っているからだ。
シャンプーは、表皮常在菌も洗い流してしまう。シャンプーをやめると薄毛が解消する場合があるのは、表皮常在菌のお陰ってのもあるのかもしれない……
その友人は別に普通の奴だった。特に神経質って訳でもないし、潔癖症って訳でもない。なんなら、少し不潔なくらいだ。
なんでか知らないけど、口の中に手を入れる癖があるんだよ。本人曰く、「歯がうずうずする」のだそうだ。
狼男かなんかか? って感じだ。
ところがだ。
その彼がある時から、頻繁に手洗いを繰り返すようになってしまったのだった。理由は本人にも分からないらしくて、しかもどんどん酷くなっていく。
いわゆる強迫症ってやつだ。
医者に行くと薬をくれたらしいけど、それは対症療法薬であって治療薬ではない。原因すら分からないままだった。彼はカウンセリングに頼ったりもして、子供の頃に母親からきつく叱られた事が原因かもしれないなどと言われたらしいが、彼自身はピンと来なかったようだった。もちろん、治りもしなかった。
そもそも叱られたトラウマが原因だと言われても、どうやって治療すれば良いのかも分からない。
「へえ、それは面白いね」
その話をすると、薬剤師をやっている菊池さんという女性の知り合いはそんな事を言った。
何が面白いのやら。
彼女は何かを思い付いたらしく、「少し試してみたい事があるのだけど、私にその彼の治療を手伝わせてもらって良いかな?」などと提案して来た。
医者から薬を貰っても治らないのに、薬剤師に何かができるのかと僕は思ったのだけど、彼女は「いや、薬は使わないよ」なんて言うのだった。
「じゃ、何を使うのさ?」と、僕が尋ねると、「化粧品かなぁ? まあ、分類上はね」なんて答える。
化粧品? どうして化粧品で強迫症が治療できるんだ?
ますます訳が分からない。
ただ、彼にその話をすると、彼としては藁にも縋る思いだったらしく、「少しでも可能性があるのなら、是非お願いしたい」と二つ返事で了承してくれた。
菊池さんは彼の自宅を訪ねると、まずは彼の手をアルコールで消毒した。洗い過ぎの所為で手が荒れていた彼は、少しばかり痛そうにしていた。
充分に消毒が終わると、彼女はそれから本当に化粧品を取り出した。化粧水だ。そして、それを彼の手に塗り始めたのだった。それが終わると今度は黒ニンニクを取り出す。
黒ニンニクって言うのは、ニンニクを醗酵させた健康食品なのだけど、何故か彼女はそれを彼に食べろと言う。
「さて」と、彼が食べ終えると彼女は言う。
「どうだろう? まだ手を洗いたいかな?」
彼はそれに「分からない」と答えた。
医者から貰った薬を飲んでいるから、その薬の効果で手を洗いたいと思わないだけかもしれない、という事らしい。
彼女はそれに「そうか」と返すと、
「では、この化粧水と黒ニンニクを置いていくから、化粧水は手を洗った後に塗り、黒ニンニクは一日一欠けらほど食べるようにしてくれ。それでしばらく様子を見よう」
などと彼に指示するのだった。
彼は奇妙な物でも見るような目つきで彼女を見ていた。
無理もない。
何しろ、僕にだってまったく訳が分からないのだから。
ところがだ。
それから数日が経った後、彼は僕に「どうも強迫症が治ったようなんだ」と報告して来たのだった。
彼自身にもどうしてなのか分からないらしいのだが、菊池さんから言われた通りに貰った化粧水を塗り、黒ニンニクを食べ続けただけで本当に強迫症は治ってしまったのだとか。
「本当に謎なのだけどさ」
彼はそう言っていた。
同意見だ。
本当に謎だ。これはもう菊池さんに訊いてみるしかない。
「……そうか、そうか。取り敢えずは、実験は成功だな。もっとも、本当に私の考えが正しかったのかどうかは分からないが」
僕が彼が治ったことを菊池さんに伝えると、彼女はそんな事を言った。
僕がどういう事なのかと尋ねると、彼女は
「マイクロバイオータって知っているかな? まぁ、ある環境中に生息する微生物の事なんだが、人間の身体にも当然生息している」
などと説明して来た。
これだけじゃ意味が分からない。
僕の表情を読み取ったのか、彼女は更に説明を続けた。
「このマイクロバイオータは、人間の精神にも影響を与えている事が知られていてね。統合失調症やうつ病、自閉症なんかにも関係していると言われている」
それでなんとく僕は察した。
「なるほど。だから彼の強迫症もそれが原因かもしれないって思ったんだな」
「まぁ、そうだね。
手を洗うと、細菌も洗い流されるんだが、手洗いに対する耐性が高い細菌もそこからの回復力が高い細菌もいる。つまり、そういった細菌にとっては、人間が頻繁に手を洗ってくれた方が有利なんだよ。例えば、ブドウ球菌や連鎖球菌のグループがこれに当たる」
「まさか、その細菌が彼を強迫症にしていたって言うの?」
“信じられない”と思って僕はそう尋ねた。
「さぁ? それは正直に言うと、私にも分からないな。ただその可能性はあると思っているし、そのような可能性を疑っている学者もいるね。
あの彼は、手を口に入れる癖があるって言っていただろう? だから或いは…… と思ってさ。
まぁ、確実性はないが、それでも試してみる価値はあるだろう? 何しろ、リスクはほとんどないんだから」
「あの化粧水は?」
「あれは、マイクロバイオータ入りの化粧水だよ。君は知らないかもしれないが、近年は増えているんだよ。彼を神経症に追い込んでいる細菌が何かは分からないが、増殖する前に他の細菌に表皮を占拠させてしまえば、もう何もできないはずだからね。
因みに黒ニンニクは発酵食品で、植物性の乳酸菌入りだ、腸内環境の改善効果がある。嘘か本当かは知らないが、殺菌効果もあると謳っている人もいたから、今回採用してみたんだよ。
それが本当なら、腹の中の悪玉細菌を殺した上で、善玉菌を繁殖させる効果が期待できるって事になるからね」
彼女の説明に僕は感心した。
「へー」
そんな僕の様子に不安になったのか、彼女はフォローをして来た。
「一応断っておくけど、効果があったのが細菌のお陰とは限らないよ。プラシーボ効果かもしれないしね」
まぁ、何にせよ、これだけ科学が発達していても、まだまだ未知の領域はたくさんあって、まだまだ世の中が良くなる可能性や余地があると考えると気分が良かった。未来に希望が持てるから。