73.第9章<男の誠意>「月夜の試練」
(ガチャ)
「ただいま~って、誰もいないか」
無人の自宅アパートに帰ってくる高木守道。
陽は沈み、夜を迎える。
部屋に入るとカバンを置く。
蓮見詩織姉さんから最近毎日いただいているサンドイッチ。
簡易な包装で包まれたお弁当、容器を新居の実家に帰す必要がない。
詩織姉さんの温かい配慮。
カバンの中から紫色の風呂敷を取り出す。
机の上には朝早く起きて聞いた英会話レッスンを聴くための紫色のスマホが置かれたまま。
そしてもう1つ。
紫色のCDプレイヤー。
ラジオ英会話を聴き始めて1週間。
英語が少しは身についてきただろうか?
カバンの中から明日、担任の藤原宣孝先生に提出する課題を取り出す。
現代文の宿題。
課題の設問はすべて埋められていた。
神宮司楓と一緒に課題をこなした。
宿題まで手伝ってもらえて、学校一の美人の先輩に、俺は自分が恥ずかしくて仕方がない。
太陽悪い、俺、楓先輩に宿題手伝わせちゃったよ。
本当情けない。
そしてもう1枚のプリント。
漢字技能検定4級の申込用紙の控え。
もうサインして楓先輩に提出してしまった。
絶対にサインしてはいけなかった契約書。
下手したら小学生と並んで受験するかも知れない。
なんだって神宮司葵まで俺と一緒に試験受けるんだよ。
本当意味分かんない。
漢字技能検定試験は6月末。
俺は来月の中間テストで赤点取ったら終わる未来。
未来。
そうだ、未来ノート。
カバンから未来ノートを取り出す。
1ページ目を開く。
何も書かれていない。
白紙のページをパラパラとめくる。
俺はやはり未来ノートに見放されてしまったのだろうか。
あれ?
カバンにまだ本が残ってる。
何だっけこの本。
『こころは必ず強くなる』
1冊の本。
神宮司楓先輩から渡された、あからさまなタイトルの本。
少しばかり時間が出来た。
未来ノートで未来の問題を予習できない。
英会話ダブルレッスン、今日のノルマは終わっている。
現代文の課題も神宮司家で済ませてきた。
楓先輩から渡された本のタイトルに目を通す。
タイトルからして、楓先輩からあからさまに頑張れと言われている気がする。
『高木ちゃん――あなたの背中には、入学したくても入学出来なかった1000人の受験生たちがいた事を忘れないで』
御所水流先生の声が脳裏に浮かぶ。
勉強って、自分1人だけでするものだと思ってたけど。
勉強の結果だって、自分1人が背負うものだと思ってたけど。
俺がやった事で、未来ノートを使った事で、知らない誰かの人生が変わってる。
そういう事ですよね、御所水先生。
楓先輩から渡された本の1ページ目を開く。
大怪我をして手術をした野球選手の話。
それを乗り越えて、ふたたびマウンドに立つピッチャーの話だった。
――――――――――――――――
試合に出られる。
試合で投げられるのは、その時、その一瞬だけ。
一度マウンドを降ろされたら、どんなに自分が後悔しても、2度とそのステージには戻れない。
だから死ぬほど練習する。
たった1度の試合に備えて。
死ぬほどの努力をする。
自分自身を追いつめて。
そして試合で投げられる時は、精いっぱいの力を尽くす。
今自分が持てる、最高のパフォーマンスを出し切る。
後でそのステージを降りた時、自分自身が後悔しないために。
――――――――――――――――
野球部のマネージャーを長年続けている神宮司楓先輩。
中学生時代からそうだったと、楓先輩を見続けてきた太陽は話していた。
野球が好きな先輩らしい、俺に渡してくれた1冊の本。
俺は今、平安高校の特別進学部という、1000人の受験生が人生をかけて臨んだ夢の舞台に立っている。
その灯が、あと1か月で消えようとしている。
そう自分で、勝手に思い込んでいた。
本を読み終わり、カバンにしまう。
明日楓先輩に、読み終わった本を返すことにする。
机の上に置かれていた、蓮見詩織姉さんから渡された紫色のスマホを手に取る。
ラジオ英会話のテキストを取り出す。
今日は成瀬からもらった2年前のテキストも使って、もう1レッスンずつ追加で勉強を頑張る事にする。
そうでもしないと。
この心のモヤモヤがどうにも収まりそうにない。
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「おはようさん守道君」
「おはようさん数馬」
木曜日、朝。
S2クラスで結城数馬と挨拶する。
太陽のライバルを自称していた数馬。
挨拶が太陽になってる。
今ではすっかり太陽の色に染まりつつある結城数馬。
こいつは凄い良いやつだって、俺は勝手にそう思ってる。
「守道君、今日の1限目と2限目は要注意だね」
「えっ?なんで?英語が2限連続で授業とか、確かにおかしいなって思ってたけど」
「テストの予感しないかい?」
「マジか」
昨日の夜。
未来ノートには何も問題は映し出されていなかった。
壊れてしまった未来ノート。
テストの事前情報は、友人から得るしか無くなってしまった。
ある意味、普通の話。
凡人の俺にとって、この平安高校の特別進学部で生き残るには致命的な状態。
クラスの窓側の席に目を向ける。
今日も変わらず、バイト先が同じ岬れなは、俺よりも先にS2クラスの窓側の席に座っている。
今日も変わらず、結城数馬が岬の席にわざわざ寄り、いつもの儀式を行う。
「おはよう岬さん」
「うっーす」
可愛い女の子は何を言っても可愛い。
このうっーす、野球部の真似事か?
太陽もそうだが、野球部の球児たちがよく口癖のように言っている。
野球部の知り合いでもいるのかな岬?
今日の夜は岬と一緒にバイトのシフトを入れていた。
本当に中間テストを赤点無しで乗り切れるなら、そろそろ俺もスマホが欲しいところ。
詩織姉さんから渡された紫色のスマホ。
シムカードが入ってないとか何とか。
通話やネット検索には利用できない、ただのラジオ英会話再生専用プレイヤーに過ぎない。
自宅に辞書が無いのが致命的過ぎる。
辞書買う金があったら、思い切ってスマホを買ってしまいたい。
今はロッカーの中にある詩織姉さんのスマホ、シムカード入れたら使えるのかな?
今度駅前の携帯ショップにでも行って調べてみるか。
(キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン)
1限目の授業が始まる。
教科は英語。
今日の英語は、2限目までの2限連続で実施される長丁場。
S1クラス担任、英語担当教師、叶月夜先生が教壇に立つ。
「それではこれより特別進学部3クラス合同でTOEICを実施します」
「え~」
TOEIC!?
なんだよそれ!?
「なお本試験はTOEIC Bridgeを利用した一斉テストです。リスニングが50問、リーディングが50問、合計100問に答えてもらいます。S1クラスとSAクラスでも同様の試験を予定しており――」
未来ノートにはそんな問題1問も映し出されていなかった。
嘘だろ嘘だろ。
ラジオ英会話1週間程度やっただけの俺じゃあ、TOEICなんてとても太刀打ちできない。
太陽や成瀬からも事前に情報は流れてこなかった。
数馬だって、さっきなにかあると話していた程度の認識。
クラスメイトの驚く姿を見る限り、これは明らかに抜き打ちで実施されてるテストである事は間違いない。
「それではこれより全員にタブレットを配布致します。放送で問題が流れますので、指示に従ってタブレットを操作して下さい」
クラス全員に叶月夜先生から1台ずつタブレットが配布される。
ペーパーテストじゃない、マークシート方式の電子テスト。
どうする俺?
もう完全にパニックだよ。




