3.「壊れた関係」
月曜日の朝。
昨日は日付を跨ぐまで勉強した。
これだけ勉強したのは俺の人生で初めての事。
制服に着替えて家を出る。
中学までの道のりは徒歩。
地元の公立高校に進学すればこのアパートからは出なければいけない。
それが親との約束。
それもあと2か月で決着する。
もう先の未来は決まっていた。
父は再婚し、俺は新しい家族が待つ家に引っ越す事になる。
公立高校への入学がそのトリガー。
3月に行われる公立高校の受験。
フタを開けてみて、受験希望者が殺到して受験に失敗すれば目も当てられない事態になる。
太陽が言っていた事は的を得ている。
今からでも高い目標を立てて勉強しないと、取り返しのつかない事になる。
受験。
やるしかないよな、やっぱり。
どこにも逃げる事はできない。
中学までの道のり。
1つの歩道橋が目に留まる。
小学6年の時。
学校からの帰り道、通りをまたぐ歩道橋を渡って集団下校していた。
集団下校では6年生がリーダーになり、下級生を引率。
事件は成瀬がリーダーをする班で起こった。
下校中、下級生がふざけて給食袋を歩道橋の上で投げ合っていた。
成瀬が注意したのも束の間、あらぬ方向へ飛んで行った給食袋。
通りの中央分離帯にある茂みに落ちて行った。
歩道橋の上で泣き出す下級生。
成瀬の班が歩道橋で止まっている所を、俺と太陽の班が出くわした。
泣きそうな成瀬を落ち着かせて事情を2人で聞いた。
俺は歩道橋の上から下を見て、茂みの中にある給食袋を見つけ太陽に伝えた。
それを聞いた太陽はすぐに歩道橋を降り、横断歩道が青になっている僅かな時間で給食袋を中央分離帯の茂みの中から回収して戻ってきた。
下級生にもう2度と投げるなと注意して成瀬の班も下校を再開した。
次の日に俺と太陽の2人分、成瀬がクッキーを焼いて持って来てくれた。
あれから3年経つ。
成瀬はあの時も俺じゃなくて、きっと太陽に感謝していたのかも知れない。
どんどんと思考がマイナスになっていく。
彼女の事を考えていると億劫になってくる。
「ようシュドウ、おはようさん」
「おはようさん」
今日も元気な太陽の声。
おはようさんのさんは、太陽のサンを掛けた京都弁。
野球部で鍛えられた男らしい響き。
いつもは朝練で先に学校へ行っている時間の太陽。
太陽と朝通学するのは珍しい。
「どうだシュドウ、勉強やってるか?」
「やったよやった。夜まで頑張ったよ」
「おっ、偉いぞシュドウ」
中学に到着し教室へ向かう。
登校中お互い口にすらしなかった。
正確には出来なかった。
同じクラスには……彼女がいる。
クラスに入ると無言で座る彼女の姿があった。
目を合わせる事は無い。
普段なら笑顔で毎朝挨拶をする。
さすがに今日は太陽も声をかけない。
いつもと違いそのままスルーした事で、クラスの女子が彼女に近づき小声で何やらやりとりをしている。
俺の席は窓側の一番後ろから1つ前の席。
俺の後ろの席には太陽が座る。
いつもなら笑顔で俺たちに近づいてくる彼女の姿は、今日は見られない。
「良いのかシュドウ?」
「何だよ太陽」
「何だよじゃないだろ?成瀬に声かけなくて良いのかって聞いてんだよ」
「お前はどうなんだよ太陽」
「俺が今日どのツラ下げて挨拶すんだよ」
小声で言い合っている間にチャイムが鳴る。
ホームルームが終了し、1限目の社会の時間が始まる。
受験を控える入試組がクラス全体の7・8割はいる。
春先には話し声が聞こえていた授業ですら、今はシンと静まりかえり受験モード。
推薦入学で進学先が決まっている成瀬や太陽たちはクラスでは少数派。
俺に限らず、誰だって気が張っているに違いない。
「今日は事前に言った通りテストをします」
小テストの用紙が前の席から配られる。
今日テストがあるのを覚えていたのは、俺以外全員かも知れない。
幸いな事に太陽がそのテストがある事を思い出させてくれた。
だがテストがあるからと分かったところで、突然点数が取れるわけも無く。
俺がまともな点数を取れるはずが……あれ……。
「それでは始めて下さい」
先生が開始の合図をする。
おかしい。
おかしいぞ。
なんだよこれ?
この問題。
昨日やったばかりの問題にそっくり。
そっくりどころの話じゃない。
まったく一緒。
うりふたつの問題。
昨日あの白い大学ノートに印字されていた問題とまったく同じ。
どうなってる?
一体どういう事なんだ?
考えているうちに小テストの時間が過ぎる。
とりあえず目の前に書かれている問題が今日の小テストで間違いない。
答えなければ0点。
問題が一緒なのはまったくの偶然という事だってありえる。
これはラッキー。
昨日たまたま予習していた問題と同じ問題が出た。
冷静に問題文を読んで、第1問目を解く。
――『墾田永年私財法』――
この問題。
普段の俺では答えられない。
ただ俺は昨日夜確かに勉強した。
社会の小テストの予習をしていた。
第2問……分かる。
やっぱり昨日やった問題と全く同じ。
全部……全部分かる。
「はいそこまで。後ろから解答用紙を裏にして前に回して下さい」
「どうだシュドウ?」
「バッチリ」
「マジか?やったな」
後ろの席にいる太陽と小声で交わす。
解答に自信がある。
全問正解しているに違いない。
これが昨日勉強した成果。
あの白いノートの問題、やってて超ラッキー。
今までまともに勉強してこなかった俺だけど、勉強すればこれだけ自信を持ってテストに臨める。
いつもは自信無くテストに臨んでいたけど、これが本当に勉強した人間の心境なのかも知れない。
それをここに至って初めて感じる事が出来た。
(キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン)
授業終了を知らせる合図。
3年生は午前中で授業が終了する。
クラスのみんなもお互い挨拶を交わし、少しずつ下校を始める。
「行くかシュドウ」
「うん。どうした太……陽」
「あの……その……ちょっと……いいかな」
太陽が視線を向けるその先を振り向くと、そこには成瀬が立っていた。
今にも泣きだしそう。
というよりも、もうすでに半べそかき始めていた。
普段クラスで笑顔を振りまく成瀬が泣いている。
この事態にクラスが騒然となる。
戸惑っていた俺をよそに、太陽は冷静に成瀬に話しかける。
「屋上行くか」
「……うん」
「シュドウ、お前も来い」
「……分かった」
太陽は成瀬の手を引いてクラスを飛び出す。
太陽が手を引く成瀬の後を、俺も黙って付いて行く。
屋上に上がるとそこに他の生徒の姿はなかった。
すでにボロ泣きの成瀬を立たせる太陽。
太陽が成瀬に話しかける。
「結衣。話があるんだろ?」
「ううっ」
成瀬は泣き続けていた。
落ち着くまでしばらくの間、俺と太陽は黙って待つ。
これは太陽と成瀬の問題だと言い切れないもどかしさがある。
本当かどうか分からないが、太陽が成瀬の告白にオッケーを出さなかったのは俺のせいかも知れない。
成瀬がようやく落ち着く。
次に成瀬は突然、俺と太陽に向かって頭を下げてきた。
「私のせいで……ごめんなさい」
成瀬が深く頭を下げてくる。
その光景を見て動けなくなる。
今の俺は、成瀬にかけてやる言葉が何1つ見当たらない。
成瀬がこんなに泣いているのに、何て酷い男なんだ俺は……。
「結衣、もう良いから頭を上げてくれ」
「でも……でも……」
何も言えない俺の隣で、太陽は成瀬に話を続ける。
「俺の方こそ悪いと思ってる。でもお前の気持ちには応えられない」
「……うん」
やはり太陽は、成瀬の告白を受ける気は本当に無いようだ。
だとしたら、やっぱり太陽がオッケーしないのは俺のせいじゃないのか……。
「結衣、何で俺が怒ってるのか分かるか?」
「……うん」
えっ?
怒ってる?
何言い始めてるんだこの2人?
「お前……俺を呼び出す勇気が無くて、シュドウを使っただろ」
「……ごめんなさい」
「……分かってるならもう良い」
太陽は俺のために怒ってくれていた。
考えても分からない。
俺はあまりにも鈍感過ぎる。
それでも、成瀬にも事情があったはずだ。
きっと自分から言い出せなかったに違いない。
だからお願いできる人が俺しかいなかった。
ただそれだけの話。
そう、ただそれだけの話。