15.「藍色の答え」
『源氏物語』の第3巻を手に入れた。
ただし謎の源氏の少女から拝借出来たのは僅かに30分。
というかあの子の持つスマホのカウントダウンはすでに30分を切っている。
だが今の俺ならきっと探し出せる。
ついさっきまで第1巻と第2巻に目を通して、『紫の上』探索力は大幅にアップしている。
今の俺なら僅かな時間で、この第3巻にあるはずの解答を発見できるはず。
残り20分。
まだまだいける。
そしてまだ設問と一致する文章が見つからない。
早く見つかれ俺の未来。
残り10分。
いよいよマズい。
まだ設問と一致する文章が見つからない。
なんだよこの設問発見タイムリミット。
あの女の子のせいで焦って読み飛ばしている可能性すらある。
そんな事無いよな?なあ?俺読み飛ばしたりしてないよな?
残り5分。
もうヤバい。
俺の『紫の上』はどこへ行った?
もう俺はお前に会いたくて会いたくて、1000年の時を越えてこの平安高校でお前をサーチし続けている。
頼むからあと5分以内に俺に発見されてくれ。
……
………
…………タイムリミットの時間がきた。
本当はあんな意地悪女子の言う事なんか無視してゆっくり調べても良かった。
でも俺の野生の勘がそれを許さなかった。
あの手の女の子は約束を破ると絶対あとでものすご~~~く面倒くさい事になるに決まっている。
俺の経験がそれを裏付ける。
そう、あの時だって。
……俺は小学校の時、成瀬にイタズラして泣かせた事がある。
泣き虫の成瀬が悪い。
今でも本当にそう思っている。
成瀬を泣かせたのがバレて、職員室に呼ばれて学校で謝罪文まで書かされた。
そのうえ成瀬の家まで行って、成瀬と成瀬の母さんがいる前で謝るハメになった。
成瀬の母さんに、俺の母さんが頭を下げて謝っていた。
俺が悪い事をしたのに、俺は俺の母さんに謝らせてしまった。
違う違う、今はそんな事はどうでもいい。
あの源氏の少女がタイマー片手に俺の帰りを待っている。
どの道、最初から無理だったんだよ。
たった30分で『源氏物語』1巻読み終わるのなんて。
何十万文字あるんだこの小説?
無理無理、もう無理。
すぐに自習席を立ちあがり、古典コーナーへと向かう。
小走り。
ちょっとダッシュ。
――図書館の中では走らないで下さい――
張り紙。
この図書館2冊までルールとか、ルール多すぎ。
ルールが多すぎる図書館。
でもちょっと小走り。
本当に広い図書館だな。
本当疲れる。
やっと到着。
……いた。
あの意地悪の、源氏の少女。
古典コーナーにずっといたのかこの子?
俺が戻ってくるのを見つけると、また無表情だった顔がイッキにニヤける。
「はぁはぁ、ほらよ。約束通り戻ってきたぞ」
「遅刻」
「はぁはぁ、はい?」
「3分遅刻」
「はぁはぁ、ご、誤差だろ?」
「面白かったそれ?」
「ああ面白かったよ。俺の『紫の上』は超絶最高だったよ」
俺は源氏の少女に第3巻を差し出す。
この子、満面の笑みで受け取りやがって。
5時間かけた第1巻と第2巻はともかく、正直第3巻は模範解答探しで30分間『紫の上』をサーチするだけの作業だったから何の内容も頭に入ってきてないよ。
「ねえ」
「なんだよ、もういいだろ返したんだから」
「ねえねえ」
「うるさいな。俺もお前も用済みだろ?」
「一緒に読む?」
「は?読まないよ。俺忙しいから、じゃあな」
あんな美人で意味不明な事する女の子がいるんだなこの高校。
これ以上あの子に構っている暇は無い。
古文の10点はもうあきらめる。
もう5時間以上もこれに費やして、収穫ゼロかよ。
なにやってんだよ俺。
今日は始業式があったばかりの入学初日。
本当なにやってんだ俺。
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日が暮れ、図書館の大きなサッシの外はもうすっかり暗闇に包まれている。
未来ノートにせっかく表示されていた古文の問題を調べるのに長い時間を費やした。
図書館閉館の7時まではもう2時間を切っている。
結局『源氏物語』の該当箇所、問題の設問部位を発見することはできなかった。
俺の努力は完全に無駄だった。
本当に俺、なんてドジなやつなんだよ。
今は英語の問題集を見つけ、最後の長文問題に挑戦していた。
問題集は図書館から持出禁止。
家に帰れば、もう英単語を暗記する程度しか対策はできない。
最新の英語の問題集。
文法問題も分かりやすく解説されていた。
「あの~宜しいですか君?」
「えっ?はい」
「もう閉館の時間なんですよ」
「ええ!?ちょ、ちょっと待って下さい」
しまった。
ボっーっとしてたら、いつの間にか夜7時の閉館時間が来てしまった。
借りられない。
図書館から持出できない英語の問題集。
あと1問だけ。
どうしてもあと1問調べたい問題があった。
「君、決まりなんだから守ってもらわないと困るよ」
「そこを何とかお願いします。あと10分、いや、5分で構いません。どうしても調べたい問題があるんです」
「どうしました?」
「これはこれは神宮司様」
神宮司?
ちょっと珍しい名前だな……。
「君、どんな問題を調べているのかね?」
「英語です」
「家でも調べられるだろうに」
「持って帰れなくて、ここでしか調べられなくて」
「ふむ……先に閉館準備を。この子は後で裏口から私が出そう」
「神宮司様」
「本当ですかおじさん?ありがとうございます」
「これ君、このお方は」
「はははは。私がおじさんか、これは愉快愉快。さあ早く調べて帰りなさい、時間は待ってはくれんぞ」
「はい、ありがとうございます」
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夜。
成瀬家。
仲の良さそうな姉妹の声が、浴室から聞こえてくる。
「ゆいちゃん、それでどうだったの?」
「それいま聞く?」
「良い事だったの?悪い事だったの?」
「知らないよ~」
成瀬結衣。
高木守道、朝日太陽と同じ平安高校に通うS1クラスの1年生。
「今日の太陽君凄くカッコ良かったね」
「それは、そうだけど」
「監督も褒めてたし。あれなら1年からレギュラーいけるかも」
「それ本当?」
「なんだ~結局気になるんでしょ?」
「そんな事知りません」
「も~素直に白状しろ」
「ちょっとお姉ちゃん触らないでよエッチ」
姉、成瀬真弓。
平安高校3年生にして野球部のマネージャー。
仲の良い姉妹。
自宅の2階。
妹の部屋に無理矢理入る姉、真弓の姿があった。
「それでゆいちゃん。さっきの続き」
「続きなんてありません」
「太陽君の方はもう十分分かったから」
「何よそれ」
「太陽君が入部テスト受ける時のゆいちゃんの姿、お姉ちゃんしっかり観察させてもらいました」
「そんなところ観察しなくて良いから」
妹の背中の後ろに座る姉。
妹の風呂上がりの髪をブラシでとく。
「どう野球部のマネージャー?」
「う~ん……美術部も入りたいし、もうちょっと考える」
「高木君で忙しいもんね、ゆいちゃんは」
「うるさい」
「ふふふ。でも本当野球部悪くないわよ。今は楓と2人だけだし、あなたが入ってくれたらお姉ちゃん助かるな」
「楓先輩か~ちょっとそこ憧れるな」
「私の事は?」
「憧れてますお姉ちゃんには」
「本当かな~」
夜が深まる。
妹の布団に潜り込む姉。
「ちょっとお姉ちゃん。いい加減自分の部屋に戻って」
「もう、反抗期なんだから」
「それとっくに終わってる」
「今日は白状するまで帰りません」
「帰ってよ~」
妹を背中から抱きしめる姉。
身動き出来なくなった妹を抱きしめたまま、姉は妹に優しく話しかける。
「本当ゆいちゃんが元気になって良かった」
「……うん」
「あの時はごめんね」
「もうそれ言わないでいいって言った」
「本当ごめんね」
姉の方に振り向き、布団の中で顔を合わせる姉妹。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「今日悪い事と、良い事が両方あったの」
「そう、悪い事って?」
春先の夜。
まだ肌寒い風が吹き抜ける。
その冷たい風の中で、どこからか小さな桜の花びらが運ばれてくる。
「あらあら」
「ちょ、ちょっとお姉ちゃん苦しいよ~」
妹を抱きしめる姉。
街の桜はもう散りかかり、残り少ない桜の花びらが街の路上に舞い落ちる。
「ふふふ、あははは」
「ちょっと!もう~やっぱり話すんじゃなかった~」
「ふふふっ、ごめんなさい。もうおかしくって」
「お姉ちゃんの馬鹿」
「本当、それもう、どうしましょうね」
「どうして良いか分かんないから相談してるの。真面目に考えてよ~」
散りかかる桜の木の枝に。
芽生えの時を待つ新緑のつぼみが芽をのぞかせる。
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「ただいま~」
誰もいない部屋。
俺の自宅アパート。
最近。
母がいなくなった事実を。
段々と受け入れられるようになってきた。
『守道さん、お帰りなさい』
『その呼び方、いい加減やめてよ母さん』
『ふふふ』
俺が大きくなってから母さんはいつもふざけて、俺を守道さんと家の中ではさん付けで呼ぶようになっていた。
『守道さん』
蓮見詩織姉さん。
あの人はなんで、いなくなった母さんと同じように俺の名前を呼んでくれるんだろう。
おっとそうだ、カバンカバン。
夜寝るまでせめて英単語、もう少し覚えておこうと思ってたんだった。
カバンを開く。
カバンの中に、白い1冊のノートが際立って見える。
黒い髪、その黒い色に際立つ白い肌。
『源氏物語』持ってた、昼間のあの女の子と同じだな。
本当不思議な子だったな、あの子。
俺はおもむろに未来ノートのページを開く。
中央のページを適当に見開く。
続いてパラパラとページをめくっていく。
ない、どこにも。
ちょっとだけ期待した。
明日の学力テストの問題が載っている事に。
白いノートには何も書かれていなかった。
1ページ目を開くことにする。
ここには当然。
……
………
…………嘘だろ。
未来ノートの1ページ目。
昼間から見ていた古文の問題。
5か所だけ、空欄になっていたはずの設問部分。
なにも書かれてなかったはず。
空欄の箇所を調べるために、昼間、必死になって5時間半もかけて『源氏物語』を読んだ。
ただ真っ白な空欄だった。
黒く印字された、ただの問題が書かれていただけだったはず。
『光源氏』と『紫の上』の間にあったはずの、四角い空欄が5つ。
その中に。
色がついていた。
青でもない、紫でもない色。
部屋の机。
いま、俺が未来ノートを開いている机。
透明な保護シートが1枚。
机と保護シートの間。
写真や、カレンダーや、色んなものを挟んでいた。
美術部の成瀬。
中学生の時に、文化祭で美術部の成瀬が配ってたカラーコードの一覧を捨てられずに挟んでいた。
ふいにそのカラーコードに目が行く。
青でもない、紫でもない色。
――藍色――
ちょっと待てよ。
なんだよこれ。
俺の持ってる未来ノート。
平安高校の入試に合格して。
壊れちゃったのかこれ?
なんだよ、ノートが壊れるってことあるのか?
そしてその、問題の空欄箇所に。
昼間にはなかった。
図書館にいる時には表示されていなかった。
おかしな現象が起こっていた。
――答えが藍色の文字で浮かび上がっている――
語群選択の選択肢にある。
この中から適切な語句を選べというたくさんの選択肢たちの中にも確かにある。
藍色の答えが。
空欄だった設問の枠の中に。
まるで私が答えだと言っているように。
しっかりとした色で。
藍色に浮かび上がっていた。