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階段を駆け上った時、潮の匂いがした。
「おお、すご……」
振り向けば、沖に浮かぶ緑の島と、その中央に聳える巨大な世界樹が見える。
「さっすが〝森の国〟……」
世界中の魔動機関を動かす燃料、〝魔石〟を大陸で最も大量に生産する海辺の半島王国は、その魔石の産出地である沖合の島、世界樹の森をもって〝森の国〟と呼びならわされていた。
一つの街とその周辺のいくらかの土地から形成される〝森の国〟は、海岸部から王城を擁する内陸部に向け、徐々に徐々に土地が高くなる。
港近くの倉庫街から荷物を引き取って来たルシャは、街の大通りへと繋がる階段を駆け上ったところで、足を止めていた。
振り向いた先、眼下に見える夕焼けの港。
魔石を仕入れに、あるいは魔石貿易で豊かな森の国に世界中の珍奇な商品を売り付けに来た数多の商船が、逆光の中、黒々と浮かんでいた。
普段は青く碧く蒼い海原も、今は燃えるような紅。
それだけでも十分に非日常的に美しい光景の中、沖に目を移せば、さらにこの世のものとは思えない光景が広がっている。
「大世界樹って、本当に〝大〟なんだな……」
魔石を産する沖の島は、全体を木々に覆われていた。夕焼けを背に黒々と影になっているそれらの木々は、ただでさえ巨木と言って差し支えない高さのものばかり。
けれどとりわけて、その中央に立つ一本、世界の始まりからそこにあると伝説に語られる大世界樹は、およそ、本当に伝説通り〝天を支える〟と見えるほどに抜きん出て巨影であった。
「こんな大きな木、実在するのか……」
大陸の東、一面を緑の原に囲まれた名前通りの〝平原の国〟出身のルシャにとっては、巨木の森だけでも珍しい。
その中でも環を掛けて巨大な大世界樹は、目の前にあってなお現実と思えないくらいには奇妙に見えた。
思わずボーッと巨大な木の影を見詰めていると、背後の街の方から、夕刻を告げる鐘の音が聞こえる。
「あ、まずい」
ハッと。急いでいたことを思い出し、慌ててルシャは踵を返した。片手に抱えた紙袋をしっかり掴み直すと、夕飯時にごった返す大通りへと速足で入って行く。
(いそげ、いそげ)
そうして人込みの中、器用に衝突を避けてしばらく進んでいると、ふと、大きな酒場の前で奇妙な光景に出くわした。
「もー!ジスカさぁん!今日は公演観に行くから、お酒はナシって言ってるじゃないスかぁー!?」
「こればっかりはゾルタンの言う通りですよ、ジスカさん。毎日毎日、飽きもせず浴びるほど飲んで、まったく……。今日くらいは諦めて、酒樽から離れるってのも良いと思いますけどね」
二人の男が、一人の女を囲んで懇願していた。
しかも二人そろって、酒場の前に立つその女の手を掴み、全力で引っ張っているようなのだ。
「興味ないって言ってるじゃないか。お上品にお芝居なんか見るより、酔っ払いの小汚い喚き声聞きながら酒樽抱えてる方が私らしいだろ」
男物のような黒と紅の装束で、性別なりには長身の部類に入るだろうが、しかし間違いなくすらりと細身の女だった。
ルシャと同じくらいの年頃に、肩まである癖のない黒髪。瞳は赤みの強い紫色だった。被った頭巾から覗く気だるげな目元や、皮肉っぽく口角を上げた口元は、やや性格に難がありそうに見えなくもないが、まず美人と形容できる。
そんな女が、自分より背も高く、そこそこガタイも良い成人男性二人に全力で引っ張られてなお、微動だにせず立っていた。
それどころか、取り付く二人をジワジワと引き摺って、酒場へと踏み込もうとすらしている。
(あれどうなってるんだ?魔法?)
キョトンと、通り過ぎざま視線だけそちらに向けてしまったルシャは、ふと、眉を顰めた。
「ちょっと、そこの人」
奇妙な男女三人組の前ですれ違った男を振り向き、数歩追い掛けると同時に、空いていた片手でその腕を掴む。
「なんだよ?」
不愉快そうに振り向くその男から、ルシャは奇妙な三人組に視線を移した。
「そこのお兄さん、〝スられて〟ますよ、チケット」
「へ?」
ゾルタン、と呼ばれていた金髪碧眼の男が目を丸くする。もう一人の男より幾分年下で、ルシャよりも若いかもしれなかった。
「俺っち?」
まさかという顔で自分のズボンのポケットに手を当て、ハッと目を見開く。
「え?あれ?まじ?うわ!?」
「え、お前、マジでスられたの?」
ゾルタンやルシャ、女より年上と見える茶髪の男が問うと、マジだ、とゾルタンは慌てた様子でコクコク頷いた。
「ええ!?高かったのに、うわあぁあ!?」
「この人が持ってるから大丈夫ですよ」
ルシャは、腕を掴んだままの男を見る。
「は?」
男は腕を振りほどこうと力を入れた。
「急に何言いやがるんだ、お前。言いがかりもほどほどに」
「上着の内ポケット。無実だって言うならひっくり返して見せてくれます?」
ルシャの指摘に、男は一瞬ギョッとしたような間を置いた。
「あー、まぁ。無実なら謝るからさ、悪いね、兄さん」
年嵩の男が寄って来て、ルシャが腕を掴んでいる男の上着に手を伸ばす。
「くそ!」
その瞬間、男は今度こそ本気でルシャの腕を振りほどこうとして。
(あ、暴れるな、これ)
ルシャが咄嗟に紙袋を投げ出し、取り押さえようとした、その瞬間に。
「へぇ、逃げるってことは、図星なんだ?」
ガシッと、その男の首に、細い指が絡み付く。
同時に、その成人男性の体が、浮いた。
「ヘンリク、調べな」
「へいへいっと」
男一人、片腕で持ち上げた女の声に、驚く様子もない年嵩の男。
細腕に釣り上げられた男の上着からチケットを発見し、あーらら、と呟いた。
「マジだ。おい、ゾルタン、このチケットお前ので間違いないか?」
「間違いないっスね!朝4時から並んで俺っちが手に入れた、超貴重なチケットっすよ!」
席番号を確認したゾルタンが、鼻息荒く頷く。
「世界一の旅回りサーカス団、七華一座の一等席っす!」
当日に転売すれば5倍の値段で売れるらしい、と続けるゾルタンに、なるほどなぁ、とヘンリクは納得したような声を上げた。
「そりゃ、お前の財布スるより、そっちスるはずだわな」
真っ赤な紙に、金文字で公演タイトルと席番号の刷られたチケットを指先で弄んで納得するヘンリクの横で、ふぅん、と女は鼻で笑う。
「なるほどねぇ。金目当てで、とんだ〝やらかし〟をしたね、お前」
腕一本で首を掴まれて吊るされている男は、息苦しそうに暴れていたが、女はやはり微動だにしなかった。
「は、はなしやがれ」
ジタバタと暴れる男は、そうして女の黒い装束の腕を掴み、その顔を見下ろして。
不意に、顔色を変えた。
「あ、あんたは……!?」
「ああ、やっとお気付きかな?」
真っ青になる男を見上げ、女はニタリと楽しそうに更に口角を上げる。
「言ったろ。とんだやらかしをしたね、ってさ」
「ち、違うんだ!お、俺は、気付かなくて、知らなくて……!」
「気付かない?知らない?ふぅん……。だから?」
必死に弁明を始める男に、女はつまらなそうに小首を傾げた。
「それはさぁ、君が私の隊から盗みを働いたことの免罪符になる何かなのかい?違うよねぇ、コソ泥くん?」
吊るし上げる腕に力が籠り、男は半分泣き顔になってモゴモゴと悲鳴を上げながら暴れる。
「ジスカさん、首が折れちまいますよ」
ヘンリクが呆れた顔で止めに入ると、チッと舌打ちした女は手を放す。
ドサリ、と地面に落ちてゲホゲホ咳込む男を、既に興味を失ったような萎えた視線で一瞥すると、黒い革長靴の足で軽く蹴倒し、逃亡を阻止した。
「財布より金目の物が分かってるあたり、手慣れてそうだね。余罪があるなら憲兵に引き渡すか」
「そうですね」
「俺っち、縄持ってますよ。この前、森に行った時の予備」
テキパキと処理の検討を始める三人組の様子に、ルシャは、慣れていそうだしもう大丈夫だろうと察する。
「あの、それじゃ、すみませんけど、俺は急ぐので」
落とした紙袋を拾い直して声を掛けると、ああ、とヘンリクが視線を上げて振り返る。
「ああ、悪かったな。ありがとさん。あんたが気付いてくれて助かったよ」
「いいえ」
ニコリと笑って再び速足に歩き出し、けれど、ふと思い立ってルシャは振り向いた。
「あの」
「ん?」
振り向く三人組に、ヒラヒラと手を振った。
「憲兵に引き渡したら、ぜひ、公演、観に行ってくださいね」
「はぁ?」
「夢のような時間を、蕩けるような夜を。お約束しますから」
それじゃ、とルシャは再び背を向けて、今度こそ速足に歩き出す。
「ふぅん?」
その背中を、特に興味もなさそうに、赤紫色の視線が一瞥だけしていた。