9 三つ目のお願い
こんなに緊張したのはいつ以来だろうか。
三つ目のお願いを言い出しかねて、私はずっと逡巡し、タイミングを窺っているだけだと自分に言い訳しつつ、切り出す決断ができないでいた。
シミュレーションはいくらでもしたはずなのに、こうして、実際に自分が踏み出さなければならない瞬間になって、そんな準備はけっきょく無駄なあがきだったのだと実感せざるをえない。
ただ、一つだけはっきりしていることはあった。
これは、言うか言わないか、ではない。どう言うか、の決断なのだ。
言わないで撤退するという選択肢はない。
アキさんは私に優しい。優しすぎるくらい、優しい。だから、私がそこに甘えたままでは、越えられないポイントが確実に存在する。
今、私の目の前で、アキさんは嬉しそうに巻き柿を堪能している。
たぶん、私の気も知らないで。
「サトカさん、もう、食べないんですか」
最後の一切れを指して、アキさんが言う。私は一切れ食べただけなので、アキさんはそこそこたくさん食べたことになる。
「ええ、あの……お口に合いましたか」
「もちろんです。すごくおいしい。この一切れ、サトカさんが食べないならもらっちゃおうかなあというくらい」
アキさんはにこにこして言った。
「どうぞ。私は……もう、おなかがいっぱいで」
私はぎこちなく、冷めたはずのコーヒーを口に運んで、顔をしかめた。もう、空だ。口実に使えなくなったマグカップを座卓におくと、ピヨさんがいそいそと近寄ってきた。
ネズミのおもちゃを咥えている。しっぽのところが長いひもになっていて、そこを持ったままぽんと投げ、引いてジグザグ動かしてやると、ピヨさんは夢中になってじゃれかかるという寸法である。ピヨさんの最近のお気に入りのおもちゃらしい。ひもが首に引っかかると危ないので、人間が一緒にいるときしか出さないのだと、さっきアキさんが説明してくれた。
「ネズミさんで遊ぶの、ピヨさん」
救いの神とばかり、受け取ってしまった。
ぽん。投げると、ピヨさんは姿勢を低くして前足をだす。捕まえる寸前に私がぐいっとネズミのしっぽを引くと、ネズミはピヨさんの猫パンチをかわす。タイミングがぎりぎりになればなるほど、ピヨさんの興奮は増していった。ぽん、と投げるネズミを空中でとらえようとするので、かわそうとこちらもついつい、投げる手に力が入る。
「あ」
思ったより飛距離が伸びた。ネズミは窓際の少し高い位置においてあった、ピヨさんのお昼寝用ダンボールに入ってしまった。
これでは、ひもを引いてもネズミは動かない。箱が落ちてしまうかもしれない。私はネズミを取ろうと立ち上がった。
ダンボールの中を見て、私は凍りついた。
何でこれがここに?
見覚えのある柿色のタオル。手で触って、肌触りまで確かめて、納得してアキさんのために選んだプレゼント。
それが、くしゃっといい感じに丸められて、ピヨさんの毛だらけになって箱に収まっている。
「あの……アキさん、これ」
私の声は知らず震えていた。
そんなことあるわけない。きっと何かの間違いだ。
私があげたとき、あんなに喜んでくれたはずのプレゼントを、ほんの半月でピヨさんにおさがりしてしまうなんて、あるわけない。いくら、ピヨさんのことを目に入れても痛くないほどかわいがっているとはいえ。
「なんですか?」
私の様子の変化に気がついたのか、アキさんも怪訝そうに立ち上がった。私の視線の先を見て、あ、とあわてた声を上げる。
「違うんですサトカさん」
「これ、私があげた……?」
「違う違う、それじゃないです」
見つかっちゃった、と首の後ろに手をやりながら、アキさんは顔をしかめた。
「見つかっちゃったって?」
「まず、ここ。見てください」
私の後ろからひょいと手を伸ばして、アキさんは柿色のタオルをめくった。
ワンポイントの刺繍を入れてもらった位置だ。鳥の小さな刺繍。
「……あれ?」
何かおかしい。そこにあるのは頭がぼさっとした、茶色の鳥だった。私が選んだ青い小鳥とはずいぶん違う。
「ヒヨドリです。サトカさんが僕に選んでくれたのはこっち」
アキさんは、外出の時持っていて、今は鴨居からフックで下げていたバッグに手を突っ込んだ。引っ張り出したのは、目の前にあるものと瓜二つのタオル。
「ここも、ほら」
アキさんは、畳んだタオルの刺繍を私に示した。そこには、確かに私が悩んで決めた青い小鳥が刺繍されている。
私は混乱した。
「どういうことですか」
「実はですね」
また首の後ろにちょっと手をやって、アキさんは、少し猫背気味になった。
「ピヨのやつ、このすごくいいタオルに一目惚れしちゃいまして」
自分のタオルが話題になっているのがわかったのか、ピヨさんはさっとダンボールの中に入って、タオルの上にどっしりと座り込んだ。小さいながら、宝物を守るドラゴンの風格だ。
「僕が使って、洗濯した後、取り込んで畳むまで置いていた一瞬の隙をつかれて奪われちゃったんです」
アキさんは当然取り返そうとしたが、ピヨさんは頑として譲らない。なんとか取り返しても、今度は室内干しの洗濯物にアタックする、という攻防戦が二日ほど続いたのだという。
「僕も譲るわけにはいきませんけど、万策つきてしまって、仕方がないのでピヨの分を注文することにしたんです。忙しすぎてお店に行く時間はなかったんですけど、ラッピングの中に、オンラインショップのアドレスが書かれたショップカードがあったので」
一旦は青い小鳥のタオルをタンスの奥深くに封印し、新しいタオルが到着したところで、ピヨさんにヒヨドリの刺繍を見せながら言葉を尽くして頼み込んだのだという。なんとか納得してもらって、新しいものをピヨさん用、私があげたものをアキさん用に仕切り直したのが現状と言うことになる。
そんな説明を聞いているうちに私は膝の力が抜けて、その場に座り込んでしまった。
「なんだ、そうだったんですね」
ほっとしすぎて、涙が浮かんできた。
アキさんは隣に膝をついて、両腕を私の身体に回した。
「すみません。最初から言っておけばよかったのに、黙っていたからびっくりさせてしまいましたね」
「そうですよ。そんな面白い話があるなら、何で言ってくれなかったんですか」
冗談めかして言うつもりが、浮かんできた涙が思いのほか多かったらしく、鼻声になってしまった。
「さっきも、見つかっちゃったって。私が見つけなければ、黙っているおつもりだったんですか」
もっと笑いながら言えば、ぜんぜん大した問題じゃないはずなのに。こんな分からず屋みたいに言うつもりじゃなかったのに、頬を滑る涙が止まらない。
アキさんは見るも無惨におろおろと狼狽して、私の頬を親指で拭った。
「ごめんなさい、サトカさん。僕が悪かったんです。あの、怒ってもいいですから、泣かないで」
「なんですかそれ」
悔しいけれど、泣きながら吹き出してしまった。
「あ、笑った」
「笑ってません!」
「言えなかったのは、ピヨとは全く関係ない、他の理由がありまして」
アキさんは、私に回していた腕を解いた。深呼吸を一つすると、おもむろに立っていって、クロゼットの扉を開けた。
中からアキさんが取り出したのは、私が柿色のタオルを買ったショップのロゴがついた、でも私の記憶にあるより一回り大きい紙袋だった。彼はクロゼットの扉を静かに閉めると、私の近くに戻ってきた。斜め後ろから肩越しに、私の膝に紙袋をおいて、ちょっとぶっきらぼうに、開けてみてください、と言う。
言われるがままに、私は紙袋の入れ口を閉じてあったシールをはがして開けた。
中から出てきたのは、ラズベリージャムみたいに濃い赤のタオルだった。私がアキさんに選んだものと同じ手触りの、だが、こちらは、バスタオルとフェイスタオルの対になったものだ。
「あの、これ……」
「ピヨのタオルを買おうとしていたときに、たまたまその色があるのを見つけたんです。オンライン限定のカラーなんだそうです。僕がサトカさんの好きな色の話を聞いてイメージしたのは、そういう赤でした。そう思ったら、どうしても欲しくなって」
不意にアキさんの腕が伸びてきて、後ろからぎゅっと抱きしめられた。思いがけず強い力に驚いて、振り返ろうとしたけれど、そのままで、と止められた。
「そのままで聞いてください。これを言う勇気がずっと出せなくて、言えなかったんです。
そのタオルは、この部屋に置いておいてほしいんです。サトカさんがそうしたいと思ってからでいいし、急かすつもりは一切ありません。そのときが来たら、僕のところに、泊まっていってくれますか。そのとき、これを使ってほしいんです。
いつまででも、待ちますから」
訳の分からない感情の大波が押し寄せて、一度はおさまりかかっていた涙がまた止まらなくなった。
どうしてこんなにこの人は優しいんだろう。
膝においたタオルに、ぽたぽたと涙がこぼれた。アキさんはその意味をはかりかねたようだった。あわてたように言う。
「ごめんなさい、やっぱり急ぎすぎですよね、いいんです。忘れてください。僕の気が早かっただけなんですから」
「違います」
「え?」
「三つ目のお願い、聞いてくれるって言ったじゃないですか」
「ああ、この前の」
「ずっと言おうと思ってたんですけど、言い出せなくて」
「え、決まってたんですか。もう何でも聞きますから、言ってください。ね?」
アキさんは腕の力を緩めて身体をずらし、私の顔をのぞき込んだ。
言ったな。それは完全な白紙手形でしょう。なんて、ちょっとあきれて思うはずの自分は完全にどこかに行ってしまったみたいだった。
私は両腕を伸ばして彼の背中に回し、抱きついた。柔らかい生地のシャツに頬を押しつけて、目をつぶった。日向とシナモンの匂いが私を包む。アキさんの身体は細身だけれど、こうして抱きつくとやっぱり男の人でがっしりしていて、それから、体温がちょっと高くていつもあたたかい。
自分のものではない鼓動が耳と頬に響く。自分のものではないけれど、そのリズムも、私のものと同じように、穏やかと表現するには少し速かった。
深呼吸を二つすると、涙は止まった。
行け、私。
「今日、帰りたくないです」
はっとしたように、アキさんの腕に再び力がこもった。
「あの、それって」
「お泊まりセットは持ってきました。でも、タオルはないので、これ、使ってもいいですか」
「本当に? 無理してじゃないですか?」
「何でも聞いてくれるってさっき言ったじゃないですか」
アキさんが少し笑ったのが、耳に直接響いた。
「言いました。もちろん大歓迎です。……こういうとき、なんて言えばいいんでしょうね。絶対違うやつだけは思いついたんですけど」
「私、アキさんが何を考えているかわかった気がします。せーので言いませんか」
せーの。
『光栄です』
声がものの見事にそろって、次の瞬間、私たちは笑い転げた。