7 三つのお願い
彰実さんが目を覚ましたのは、外が夕暮れに近づいてきた頃だった。
「あれ」
大きく目をしばたたいて、窓の方を見てぎょっとしたような顔になる。
「寝ちゃったんですか、僕。もう夕方?」
「少しはゆっくりできましたか」
私が言うと、彰実さんはこめかみのあたりを軽くもみながら上体をおこした。
彰実さんの動きに目を覚ましたらしいピヨさんも敏捷に起きあがって、大きく伸びをした。
「時間感覚が完全に飛んでます。体感的には、さっき少し目をつぶって、開けただけ、という感じなんですけど」
「それだけ深く眠れたんですね。よかったじゃないですか」
彰実さんは時計を見て呻いた。
「一時間半も寝てたんですか。しかも、ずっと膝をお借りして?」
そこは強調しないでほしい。改めて言われるとちょっと恥ずかしい。私はうなずきつつも明後日の方向を向いた。
足は完全にしびれている。今は絶対立てない。
彰実さんは、すみません、の、すみ、くらいまで言いかけたようだったけれど、すんでのところで言葉を止めた。
「本当によく眠れたみたいです。ありがとう」
さっきの議論をちゃんと思い出してくれたらしい。私は頬をゆるめた。
「何かで、お礼をさせてくださいね」
私の顔をのぞき込んで、彰実さんもほっとした笑顔になった。ケンカとも言えない小競り合いだと私は思っていたけれど、彰実さんは気にかかっていたのだろう。
「それなら、聞いていただきたいお願いが三つあるんです」
「なんですか? ロシアの昔話みたいですね」
「一つ目は、これです」
私は手に持っていた文庫本を見せた。
「勝手にお借りしちゃったんですけど、今すごくいいところなんです。もし読みかけでなかったら、貸していただけませんか」
「アシモフ読んでたんですか。もちろんです。僕はもう読み終わってますから、いつまででもどうぞ」
「もう一つは、単純に足がしびれて動けないからなんですけど、私のバッグの横にある、紙袋を取っていただけますか」
お願いというよりもはや雑用である。
「足、大丈夫ですか」
彰実さんは紙袋を持ってくると、私の隣に膝をついた。
「しばらくしたら治ります」
「マッサージとかしましょうか?」
想像して思わず息をのんだ。勘弁ねがいたい。しびれている足に触ったら痛いに決まっている。絶叫してしまうかも。
「遠慮します」
「なんだ、残念」
いたずらっぽく言って笑う彰実さんの顔を見て、裏の意味を理解した私は真っ赤になった。
「絶対だめです」
悪事が大胆になっていやしないか。
彰実さんはそんな私を見てさらに笑った。その笑いっぷりをみる限り、彼も本気で言ったわけではなさそうだった。どちらかというと、言葉遊びというか、じゃれてからかっているだけの雰囲気だ。
私はぶっきらぼうに、持ってきてもらった紙袋を改めて彰実さんに突き出した。
「今日は、本当はこれを渡したかったんです。差し入れは口実です」
「あんなおいしい口実ってあるんですか。……あの、これは?」
「お誕生日プレゼントです。もう、今週ですよね」
えっ、と彰実さんは驚いた顔になった。
「ありがとうございます。わざわざ、用意してくれていたんですか」
「開けてみてください」
私は内心の緊張を押し殺しながら言った。好みをはずしていたらどうしよう。でも、私があからさまに不安そうな顔をすれば、彰実さんは気を遣う。
だがそんな心配は杞憂だった。
紙袋を受け取った瞬間に彰実さんはもう完全に相好を崩していて、ラッピングをほどいているときもそれは変わらなかった。
「あ、タオルだ。これ、嬉しいです。絶対使います。水筒も。普段持ち歩くサイズのやつ、買うか迷ってたんです。毎度ペットボトルを買うのもなあと思い始めてて」
どっちも柿色、きっとあちこち探してくれたんですよね、とタオルを撫でる。
私もほっとして、知らずに入っていた肩の力が抜けた。
「そうなんです。案外なくて」
「案外じゃないですよ。そんなに定番の色ではないですから。この前、柿の話をした後ですよね? あんな話を覚えててくれたんですね」
「私にとっては、あんな話、じゃないですよ。絶対忘れないと思います。照柿の話がずっと頭に残ってたので、ここに」
私はフェイスタオルの隅を指差した。オーダー刺繍のオプションがあって、イニシャルよりはさりげないワンポイントを、と選んで入れてもらったのだ。小さいけれど写実的な、青い鳥の柄だ。店員さんはオオルリだと言っていた。
「あのとき話していた照柿の風景は、青い空に柿ですけど、柿色の地に青い鳥ですから、同じコントラストで配色が逆ですよね。でも、タオルの柿色がきれいだったので。お話を聞いて、想像したとおりの色でした。彰実さんの記憶の色とは違うかもしれませんけど」
少し照れくさくて、刺繍を指先でなでながら言っていたせいで、一瞬反応が遅れた。気がついたらぎゅっと抱きしめられて、彰実さんの腕の中にいた。
「サトカさん、大好き」
低く耳元でささやかれて、心臓が大きくはねた。
彰実さんは私から腕を放さないまま、あぐらをかいて座った。自分の膝の間の空間に私を横向きに座らせて、私をすっぽり包み込むみたいに抱き寄せる。私は魔法を掛けられたみたいにされるがままになっていたけれど、慣れないくらい密着しすぎていて、自分の心臓の音がうるさいくらいどきどきしているのがわかった。そんなに緊張しているのに、それと同じくらい安心して、ここから出たくないと思う私もいた。きっと、さっき耳たぶをくすぐった秘密の呪文のせいだ。
そんな心臓の音の向こう側から、彰実さんが静かに語りかけてくれる声が聞こえた。
「三十歳の誕生日にどうしてたかなっていつか思うことがあったとしたら、絶対、このプレゼントのこと、当日じゃなくて今日のことを思い出します。サトカさんが一緒に過ごしてくれて、ちゃんと付き合い始めてからは初めてちょっとケンカして、僕は失礼にも寝ちゃいましたけど、全部含めて最高に幸せな午後です」
私がさっき思っていたことを、そのまま彰実さんの側からなぞるような言葉に、胸の奥がじんわり温かくなった。この人とだったら、きっと、何があっても、いつまでだって、一緒にいられるだろう。
でも、そんなことを耳まで赤くなったり、途中でつかえたりせずに言える自信は一切なかったので、私は別のことを言った。
「ケンカって、きっとあれはケンカに入らないと思いますよ」
『そんなところも大好きです』なんてフレーズが途中に挟まるケンカなんてないと思う。あれはノーカウントだろう。
「そうかなあ」
「きっともっとすごいんじゃないかな。繰り返すようですけど、私、気は強いんです」
「じゃあ心の準備をしておかないと。ところで、さっきのロシアの昔話ですけど」
三つのお願いのことか。
「二つ目と、三つ目はなんですか」
「二つ目は、紙袋を取ってください、ですよ」
「それはさすがに入らないんじゃないですか」
彰実さんは私を抱えたままくすくす笑った。胸に耳をつけているせいで、直接身体を伝わってくる振動が心地良い。
この姿勢のままだったら言えるかもしれない。顔が見えなければ。
「じゃあ、三つ目に言うつもりだったこと、言ってもいいですか」
「なんでしょう」
「ご両親のつけてくださった大事なお名前だということは重々承知なんですが」
「僕のですか? 名付け親は父方の祖父です」
「そうでしたか」
いきなり出足から間違えてしまった。私が言葉に詰まっていると、彰実さんは私の背中をとんとんとあやすように叩いた。
「続けてください。じいさんも親父も、聞いてやしませんから」
「〈やまさち〉のご店主が、アキ、って呼ぶじゃないですか。あれが、いいなあって。あきさねさん、は、たくさん呼ぼうと思うと、口がつまづくんです。sとnが連続するせいだと思うんですけど」
これは言い訳。本当はそんな風に親しく呼ぶ距離感がうらやましいだけ。
「はい」
彰実さんは、笑いを含んだ声で先を促してくれた。これが言い訳だってきっとお見通しなんだろう。
「だから、アキさんって呼びたいなあと思ってて」
「そしたら、たくさん呼んでくれますか」
やっぱり笑い含みで返された。こういうところは悪党の方である。
言葉で返事をするのはしゃくだったので、体をひねり、腕を彰実さんの背中に回してぎゅっとハグを返した。
「嬉しいです。家族や友人は、呼び捨てかアキですから。アキさん、はサトカさんだけです」
「それは……光栄です」
言ってから笑ってしまった。彼も笑った。
「こういうときって、なんて言うのが正解なんでしょう」
光栄です、は絶対違う気がする。
「僕もそれはずっと疑問なんです。でも今おもしろかったから、ここでは正解にしませんか。じゃあ、三つ目は?」
「次会うときまでに考えておきます。今日はそろそろ帰らないと」
明日は月曜日。二人とも、きっちり仕事の日である。
私をゆったりと抱いていた彼の腕に一瞬力がこもって、それからふわっと抜けた。
「送っていきます」
足のしびれはようやく抜けていた。