5 差し入れと逆襲
翌日の二時きっかり、私は彰実さんの部屋の前にいた。何度かおじゃましているけれど、やっぱり、チャイムを押すときには緊張してしまう。深呼吸して、チャイムに指を伸ばしたとき、不意にドアが内側から開いた。
「わっ」
驚いて小さく叫んでしまう。
彰実さんが、ピヨさんを抱えて、にこにこしながら迎え入れてくれた。
「さすがサトカさん、時間ぴったりですね。どうぞ」
ともかく室内に入ってドアを閉めた。彰実さんの腕からあっさり床におりたピヨさんから、いつも通りすりすりと身体をこすりつける歓迎を受けながら、靴を脱いだ。彰実さんが、さっと手を伸ばして荷物を持ってくれた。
「どうして、あんなちょうどいいタイミングでドアを開けられたんですか」
驚いてしまった自分がちょっと悔しくて、聞かずにはいられない。
「さっきギリギリで掃除機をかけた後で、換気していたんです」
彰実さんは廊下に面した台所の窓を指差した。縦に金属の格子がはまった腰高窓だ。拳半分くらいの幅で開いている。廊下を歩いてくるときには見落としていた。
「そこと、向こうの部屋の方で」
「それでわかるんですか?」
今日は荷物が多いからスニーカーで来た。そんなに足音は大きくなかったと思う。
「白状すると、ピヨなんですけどね」
彰実さんは笑った。
「はじめは向こうの窓で、やたら隙間からのぞき込んでるんです。ピヨが外にでないように、ここも向こうも、これ以上開かないようにストッパーをつけているんですけど」
ピヨさんの後ろから彰実さんものぞいてみたら、道を歩いてきてこの下宿屋さんの門をくぐる私が見えたのだという。
「その後、ピヨがあわててこっちの窓のところに移動して、張り込んでるんですよ。そのうち、僕の耳にも足音が聞こえたので、嬉しくなって。驚かそうと思った訳じゃないんです」
というわりに、にこにこが大きい。わざとではないにせよ、私が驚いたのをちょっと面白がってはいるみたいだった。
その笑顔を見ているうちに私も思わず笑ってしまった。もう。そんなことで喜ぶなんて、子どもみたいだ。私が笑うと、彰実さんの笑顔ももっと大きくなった。荷物を持っていない方の腕でふわりと私を抱き寄せると、ため息のような声でいった。
「会いたかった」
こうやってくっつくのはいつ以来だろう。久しぶりのハグは、いつもの彰実さんの、私が大好きなシナモンと日向の匂いと、新しい石鹸の香りがした。私はお返事代わりに、彰実さんの胴の辺りに腕を回してぎゅっと抱きついた。
ああでも、ちゃんと食べてもらわなくちゃ。やっぱり少しやせた気がする。
私は身体を離すと、彰実さんから、持ってきたクーラーバッグを奪い返して尋ねた。
「今日はご飯どうしてますか?」
二時はお昼ご飯というにはちょっと遅い。でも、朝ゆっくり寝ていたら、時間は当然ずれてくるだろう。
彰実さんは首の後ろにちょっと手をやって苦笑した。
「朝、ピヨの餌だけやったのは覚えているんですけど、そのまま二度寝しちゃって、起きたのが昼近くで。牛乳だけ飲んで、後はシャワー浴びたり洗濯機回したり、掃除機掛けたりしてたらもうこの時間でした」
「それなら、相当おなか空いてますよね」
牛乳以外、何時間ものを口にしていないんだろう。十二時間以上なのは間違いない。
とりあえず重箱を出して、残りの保存容器は冷蔵庫にしまってもらうことにした。
「取り皿とお箸も出してくださいね」
「サトカさんの分も?」
「私はいいです。多めに作って、お昼時に母と味見で結構食べちゃって」
そうですか、という彰実さんは何となく残念そうで、少し申し訳なくなった。味付けが不安で、ついつい重ねて食べてしまったのだ。持ってきた分を私が食べると、彰実さんが後で食べる分が減ってしまうし。でもふと、一人で食べるのが好きじゃないと言っていたな、と思いだした。
「お茶を一緒にいただいてもいいですか? 二人分淹れて」
私がそう言うと、目に見えて、彰実さんの表情が明るくなった。
「もちろんです。緑茶、あったかなあ」
「紅茶でもいいですよ」
「この立派なお重のお弁当にですか。緑茶か、せめてほうじ茶でしょう」
まだ開けてもいないのに、彰実さんは当然のことのように言う。
「中身は普通ですよ。見た目もぱっとしない、茶色ばっかりの」
「何言ってるんですか。そういう茶色いお弁当がおいしいんじゃないですか。それならやっぱり日本茶がいいなあ」
彰実さんはごそごそと吊戸棚の奥を探った。
「あ、何かあった」
奥からつかみだして、ピヨさんの額ほどの調理台に置く。私も横から覗き込んだ。
パッケージに大きく、味のある毛筆風の書体でプリントされていたのは『椎茸茶』。
吹き出してしまった。
「確かに日本のお茶ですね」
私が笑い混じりに言うと、彰実さんもくすくす笑った。
「この前フィールドワークに行ったとき、猟師のおじいさんの奥さんがくれたんですよ。地元の特産品だとか。カフェインばっかり飲んでると胃に悪いよって。今この部屋には、日本茶に分類されるのはこれしかないみたいです」
「胃に悪いのは、本当にそうですよ。私が言うのも何ですけど、カフェインを飲まない日があってもいいんじゃないですか」
カフェイン中毒気味なのは私も同様なので、彰実さんのことを責められない。
それにしても、色々なところでかわいがられる人である。たぶん、離れて住む親戚の子のように扱われているのだろう。
二つのマグカップに椎茸茶を作って運び、居室の座卓で重箱を広げてもらうことにした。
余りに地味でいつも通りのおかずしか入っていないのが急に恥ずかしくなって、固まってしまった私をよそに、彰実さんは、重箱のふたを開けて、うわあと小さく歓声まであげてくれた。
「卵焼き、好きなんです。ミートボールも嬉しいなあ。手作りのミートボールって、すごく久しぶりかもしれない」
軽く手を合わせてから、いそいそと取り皿におかずをよそい、早速食べ始めたのを見て、私はほっとした。そんなに大はずれじゃなかったみたい。
「下の段におにぎりが入ってます」
「あ、炊き込みご飯だ」
シメジと油揚げを白だしで炊き込んだ、ごくお手軽なものなのだが、白ご飯と比べて、少し塩味と油が入っていた方が冷凍しても味落ちが気になりにくい。おにぎりは余るだろうから、冷凍しておいてもらって、平日の朝ご飯の足しにしてもらおうと思っていたのだ。
そんなことを、照れ隠しもあって、ちょっと早口で説明すると、彰実さんは箸を置いて私に向き直った。
「サトカさん、昨日の夜に話をして、それで今日、これを作ってくれたんですか。材料だって、そんなに買い置きしないでしょう。女性の二人暮らしなんだし。買い物もしてこれだけ品数を作って、って、すごく大変だったんじゃないんですか」
真面目な顔でそう言われてしまい、元々上気していた私の頬はさらに熱くなった。
「だってそんなに大したもの入ってないですから。普段作りなれてるものばかり」
「僕が昨日、夜中にちょっと変なテンションだったから、心配してくれたんですよね。せっかくの日曜日なのにこんなことさせててすみません」
肩をすぼめて申し訳なさそうに言う。この言い方に少々、かちんときた。
「そう思うんなら食べてください。そうですよ、大事な日曜日の午前中を費やして作ったお弁当なんだから、こんなこと呼ばわりしないでいただけますか」
「すみません、あの、そんなつもりで言った訳じゃ」
知ってる。この人は私に世話を焼かれるのが苦手なんだ。私の世話を焼こう、大事にしようとしてばかりいるから。
すごく大事にされて、たくさんかわいいと言ってもらって、言うなれば愛されているというのはよくわかっているけれど、そのこと自体にこんなにいらだちを覚える自分が意外だった。でも、このいらだちは私にとって多分とても重要なことなんだ、と心のどこかが告げていた。
思いがけない私の逆襲に驚いてうろたえている彰実さんを見て、私の怒りは少し和らいだ。かわいそうだからちゃんと説明してあげよう。
「私、自分で言うのもなんですけど、気が強い方だと思います。やりたくないことはやるって言いません。仕事でもないのに、何かをさせられそうになっても、嫌だと思ったらいろんな言い方で断ります」
彰実さんはうなずいた。
「サトカさんは意志のはっきりしてる人だと僕も思います。そういうところも大好きです」
ここですかさず、最後の一言を挟んでくる辺り、彰実さんも動揺からの立て直しが早い。負けてたまるか。私は頬の上気を無視して言った。
「私から差し入れを持って行くって言ったんですよ。何を作るかを決めたのも私です。嫌ならする訳ないじゃないですか。『こんなことをさせて』なんて言い方、しないでください。私があなたに食べてほしいものを作ってきたんですから、味が気に入らないとかこのメニューは好きじゃないとか、そういうわがまま以外は受け付けません」
「え? あの、味やメニューについての苦情は受け付けない、ですよね?」
「違いますよ。味やメニューについての苦情しか受け付けないって言いました」
「え? あの、え?」
この人は、他人のことになると洞察力があって記憶力がよくてすごく切れるのに、どうして自分のことになるとこう、遠慮してなまくらになってしまうんだろう。私の中ではすごく一貫した話なのに。
「差し入れは私が作りたいから作っているんです。迷惑ならやめますけど、そうでないなら、変な遠慮は無用ですから、私のわがままを聞いて、作らせてください。その代わり、嫌いな味付けや食べ物を押しつけるのは私も嫌ですから、次からのために、その辺の好みは教えてくださいって言ってるんです。以前、私のことを知りたいって言ってくださいましたよね。私だってそうです。あなたのことをもっと知りたいし、一緒にいられる時間があるならいたいんです。あなたと同じ欲を私が持ったら変ですか」
「……参りました」
彰実さんは畳に両手をつくポーズをした。日本古来の降参の姿勢だ。それからその手を伸ばして私の頬に触れた。私は一瞬緊張したけれど引かなかった。
「僕が本当に言いたかったのは、申し訳ないじゃなくて、ありがとうなんです」
もう何度目かわからないキスは少しだけ卵焼きの味がした。もう何度目かわからないけれど、初めての時と同じくらい、鼓動が激しくなった。
唇を一センチだけ離して、彼が、低く少しだけかすれた声でささやいた。
「……僕と同じ欲をあなたが持っているとしたら、どうしましょうか」
心臓が止まるかと思った。たぶん、髪の毛の根元まで赤くなっていると思う。
降参だ。この勝負は私の負け。
結局身を引いたのは私の方だった。
「食べてください。筑前煮。朝、ゴボウとレンコン買いに行ったんですよ」
恥ずかしさで目を合わせられなくなって、そっぽを向いたまま早口で言うと、彰実さんは笑いを含んだ声で、はいと言って、あらためて箸を取った。
ずるい。今のはずるい。この悪党。