3 思いがけない贈り物
一人だと言うと、初めて見る女性の店員がカウンターに案内してくれた。
やはり客足のピークは過ぎていたようで、小上がりの先客はもうどのテーブルも半分以上食事がすんでいるようだったし、カウンターも半分くらいが空席だった。
尋ねると限定日替わりメニューはすべて売り切れていたので、鶏南蛮定食を頼んだ。
「かしこまりました」
ご店主は、よく通る声で返事をしてから、あれ、という顔で私をみた。
「お客さん、この前吉見先生と来てくださいましたね」
「はい」
「また来てくださってありがとうございます。今日はお一人で?」
「ええ、たまたま前を通りかかったら、ランチをやっていらっしゃるんだなあって、看板を見ていたら急におなかが空いて」
子どもみたいな言い方になってしまった。思わず頬が熱くなる。
ご店主は、あはは、と笑った。
「料理人にとっちゃ最高のほめ言葉ですよ。限定、売り切れですいませんねえ」
「いえ、ここの鶏南蛮、食べてみたいです。大好きなんです」
「お、さてはあちこちで食べてきてますね? プレッシャーかかるなあ」
陽気に軽口を叩きながら、衣をつけた鶏肉を油に滑らせて入れ、目にも留まらぬ早さでキャベツを刻む。小鉢とご飯、味噌汁は、先ほどの女性店員がフロアの側から運んできてくれた。ご店主は小鍋にたれを煮立てて揚げたての竜田揚げを絡め、キャベツのたっぷりのった皿に乗せると、冷蔵庫から取り出した保存容器から気前よくたっぷりとタルタルソースを盛りつけ、私の目の前のカウンターに置いた。
「鶏南蛮、お待ちどうさま」
私はお礼を言うと、伸び上がって皿を手にとり、自分の前に置いた。たれの甘酸っぱい香りがますます食欲を刺激する。歩き回って、本当におなかが空いていたらしい。私は箸を取ると、たれを含みつつもサクサクの鶏肉に取りかかった。
半分ほど食べ進んだところで、ご店主が声をかけてくれた。
「うちの鶏南蛮、いかがですか」
「すごくおいしいです」
緊張屋の地が出て、また、小学生みたいな返事になってしまった。もっと大人らしいことを言わないと、と焦った。
「このたれと、タルタルが、初めて食べるような香りがします。たれの方は花みたいな香り。タルタルは、塩気のある何かが、タルタルでは初めてみたい。なんとなく、食べたことのあるもののような気はするんですけど」
「お。お客さん、やっぱり相当食べ歩いてますね?」
ご店主は感心したような顔で言ってくれて、かえってきまりが悪くなった。
「いいえ。外食はあまり機会がなくて。わかった風なことをいってすみません」
「いや、多分、わかってるんですよ。そうか外食はなしか。じゃあ、こちらから当ててみましょう。お客さん、かなり料理されるでしょう。それも、我流じゃなくて、誰かに習いませんでしたか」
「家で、祖母に習った程度です。祖母も料理は素人で」
「料理はって、他には何かされてたんですか」
「若い頃にお茶とお花のお免状をとったとは。それも、私が物心ついた頃には膝を悪くして、正座がつらいというので私自身は祖母に習ったことはないんです」
「やっぱりね」
ご店主は破顔した。
「茶道をやる人はだいたい、料理にもうるさいんですよ。お茶会で出すこともありますし。お客さん、ええと」
「永井と申します」
お客さんお客さんと言うのに不自由そうだったご店主に、やっと隙を見つけて名乗ると、ご店主はにこにこしてうなずいた。
「私は高山といいます。常連さんは、名前の定春で呼んでくださる方が多いですけど。今後ともどうぞご贔屓に」
そういえば、彰実さんも名前で呼んでいた気がする。私は高山さんに落ち着きそうだけれど。
「そう、それでね、永井さん、アキと来たとき、鍋をよそってたでしょう」
吉見先生、が、いつの間にか、アキ、になっていた。普段はそう呼んでいるらしい。
「料理を知ってる人の取り方でしたよ。お若いのにしっかりしてるなあって思ってたんです。そうか、お祖母さまがね。じゃあ、今も一緒にお料理を?」
「しばらく前になくなりまして。今は、そうですね、家の料理は私がすることが多いです」
「そうでしたか。それは、ご愁傷様でございました。……でも、それだけ料理をするんなら、わかるんじゃないかなあ。このタルタル、何が入っていると思いますか」
聞かれて、タルタルだけ箸でつまんで口に入れ、考えた。
「ゆで卵とマヨネーズはおいておくとして、この緑のはパセリじゃないですよね。もっと和風の味、大葉ですか? ショウガもすこし入ってる」
「ここまで、正解。他には?」
「玉ねぎじゃない感じ。長ネギと、あと、ピクルスっぽいんだけどピクルスじゃないのがいるような」
正直、お手上げだ。
「すごいよ永井さん、ほとんど正解。そのピクルスっぽいやつは、知らないかもなあ。いぶりがっこって、わかるかい?」
高山さんの口調が砕けてきた。なんとなく、認めてもらったみたいで嬉しくなる。
「あ、一回だけおみやげでもらって食べたことあります。沢庵の薫製みたいな」
「そうそうそう! それ! まあ、他にも少し隠し味が入ってるけど、それは企業秘密ってことで。季節によって変えたりもするんでね。夏には茗荷を入れたり」
「和風タルタルなんですね。道理で初めて食べる感じだと」
「和食屋だからね。洋風っぽいメニューでも爪痕は残したいわけ」
こんなおいしい爪痕なら大歓迎だ。ピヨさんの爪痕はちょっと痛いけど。
「たれのほうは、わかる?」
「この香りの正体がわからないんです。醤油と、甘味はみりん? でも、酸味が酢だけじゃないような。柑橘でもないですし」
「もっと食べたらわかるかもよ」
勧め上手である。初めはボリュームがあって食べきれるか心配だったのに、結局ああでもないこうでもないと頭をひねっているうちに、ぺろりと食べきってしまった。甘味や油っ気がしつこくなくて、爽やかな酸味が後を引く味付けのせいもあった。
「わかりません。降参です」
私が言うと、高山さんは私が返した皿を下げながら笑った。
「永井さん、若い女の子なのにしっかり食べてくれるね。どんなほめ言葉よりこれが嬉しいんだよね、お皿が空っぽで返ってくるの」
すかさず熱いお茶を出してくれる。口元に運びかけたが、熱くて持っていられず、不作法ではあったがいったん置き直した。元来が猫舌なのだ。
「猫舌かい? アキもだよね」
よく見ている。
ふと思いついた。この人なら、何かヒントをくれるかもしれない。
「わからないと言えば、他にも困っていることがあって」
「なんだい?」
「彰実さんに、プレゼントをえらぶのに、何がいいか、見当がつかないんです。まだ知り合ってから日が浅くて。高山さんなら、何かご存じかな、と」
言いながら、口ごもってしまう。我ながら、唐突で変な質問だと思う。
「かわいい彼女さんが選んでくれたら何でも嬉しいと思うけどなあ。考えて、迷って選んでくれたら特に」
高山さんはにこにこして、カウンターに豆皿を置いてくれた。
「どうぞ」
私は面食らいつつもお礼を言って受け取った。一センチメートル角で、長さは5センチくらいの角棒状のものが三本、盛られていた。色は小豆色よりもう少し淡く、赤い。淡い臙脂色といったところだ。表面は乾燥してさらさらしているようだった。
「……あの、これ」
「さっきのたれの答え。企業秘密だけど、永井さんには教えてあげよう。食べてごらん」
いぶかりながら口に運んだ。なんだろう。匂いもあまり強くない。
口に入れて驚いた。見た目よりずっと華やかで甘酸っぱい味が、口一杯に広がったのだ。干し杏に近いけれど、ベリーみたいな渋味もあってもっと複雑な感じがした。たれに感じた、花のような香りの正体がこれに違いない。
「甘酸っぱくておいしいです。これ、何ですか?」
「山査子っていうんだよ。生の実に砂糖を入れて、煮て潰して、固めてあるんだ。ドライフルーツの一種だよ。うちもさすがに生は手に入らないから、この状態で仕入れる。他の材料を火にかけたときにこれも入れると、溶けて混ざるんだよ。企業秘密なんて言ったけど、中華料理の人たちは普通に酢豚に使うから、まあ秘密でも何でもない食材だね」
「へえ」
私はもう一つつまんで口に入れ、やっと冷めてきたお茶を飲んだ。合う。
「普通に買えるものなんですか?」
「ちょっと珍しいけど、中華食材の店とか、お菓子の材料やドライフルーツの店とかならあるね。アキ、甘いもんが好きだろう。何度か、一緒に山に行ったりしたんだけどね。見てるとチョコレートやケーキも食べるけど、こういうドライフルーツとか、らっかせいの砂糖衣とか、素朴なのを喜んで食べるよ。若いのに好みが渋いっていうか、おじいちゃんっぽいよなあ」
そういえば、お祖父ちゃん子だったとは聞いたことがある。
「しかし、いいねえ。付き合いはじめって感じで。一ヶ月も前からバレンタインの準備かい」
私は思わず湯飲みを取り落としそうになった。
うちの奥さんもなんかしてくれるといいんだけどなあ、付き合いはじめの頃は……と遠い目をした高山さんののろけ話は、真っ白になった頭をほとんど素通りしていく。
バレンタイン?
バレンタインデー?
言わずとしれた、二月十四日である。
すっかり、忘れていた。自分のうかつさを呪うしかない。
高山さんに相談して解決するかと思いきや、難題は二倍になってしまった。やれやれ、だ。
◇
会計をすませて店を出たところで、さっきの女性店員が後を追うように階段を駆け下りてきた。
「お客様、お忘れ物です」
彼女の手には、グレーがかったベージュのストール。確かに私のものだ。バレンタインのことに気を取られて、忘れてきてしまったようだった。
「すみません、うっかりしていました。ありがとうございます」
私が受け取ると、彼女は少しためらうような素振りを見せてから、意を決したように口を開いた。
「あの、永井さんですか。吉見先生のお知り合いの」
「はい」
「わたし、先日お世話になりました。あの時はありがとうございました」
彼女は深々と頭を下げた。
「え?」
混乱した。背の高い、すらっとした女性だ。敏捷な身のこなしが美しい。化粧っけの薄い顔立ちも、涼しげで凛と整っていた。身体を起こしてすっと背筋を伸ばした姿に、白鷺のような人だ、と思った。だが断言してもいい。見覚えがない。
「アマネです。年末、お電話で」
「ああ!」
少し癖のあるアルトの声が、私の記憶と合致した。彰実さんの研究室に所属する学生さんのお友達で、トラブルに巻き込まれていた人だ。
「私は電話越しにお話を伺っていただけで、何もしていませんよ。こちらでお勤めすることになったんですか?」
「はい。年明けから、働かせていただいています。あんな話を聞いて気にかけてくださった方がいただけで、とても心強かったんです。大将とのお話、聞こえてしまって、ああこの人だ、と思ったら、どうしてもお礼が言いたくなって。お呼び止めしてすみませんでした」
「いえ。お身体の具合はその後、大丈夫ですか?」
彼女は、はい、と言葉少なにうなずいた。
「じゃあ、またお店に来たら会えますね。そのときはよろしくお願いします」
私が言うと、彼女は思いがけなく人なつっこい笑顔で、にこっとほほえんだ。
「今後とも、ご贔屓にお願いします」
ぺこりと頭を下げると、ランチの看板を持って軽やかな足取りで階段を上がっていく。ラストオーダーの二時を過ぎたからか。
思いがけない贈り物をもらったような気分で、私は店を後にした。