1 好きな色は何ですか?
「好きな色は何ですか?」
唐突に聞かれて面食らった。大きい書店とCDショップめぐりをして、少し早めに帰ってきて地元の駅に降りたところだった。
正月休みが明けてから二度目の日曜日をむかえ、都心は相変わらず混んでいた。案の定カフェ難民になったのをいいことに、外でコーヒーを飲むくらいなら彰実さんの部屋に行って猫のピヨさんに会いたい、と私がねだって、途中で甘いものを買っていくことにしたのだ。
「どうしてですか?」
「黄色は自分が好きな色と言うより、他の人が勧める色だ、と以前言ってましたよね。じゃあ、実は好きな色って別なのかな、と思って」
私は道路の反対側を少し下り方向に行った先にある、〈洋菓子すずらん〉に向かって歩みを進めながら考えた。確かに、初めて一緒に出かけたとき、私が黄色のバッグを持っていてそんな会話になった記憶があった。現金なもので、それまで大して好きでもなかったそのバッグは、初デートの思い出のお気に入りの品になったのだが、そういえばそのことは目の前の人にわざわざはっきりと言ってはいなかった気がする。
とはいえ今でも、黄色は似合う色だと言われてそれなりに納得はしても、一番好きな色かと考えると違う気がした。
「あらためて言われると難しいですね。洋服や靴は、自分で買うならベーシックな色ばかりになってしまうんですが、それって、合わせやすい便利な色であって、好きな色かといわれるとまた違うような」
「わかります。僕はファッションには全く疎いんですけど」
「でも、以前貸してくださったジャケットはオレンジ色でしたよ。おしゃれだなあと思ってました」
真っ黒というよりはちょっと赤みが強い彰実さんのくせ毛によく似合う。
「あれですか。違うんですよ」
彼はちょっと照れて、それをごまかすようにくすぐったそうに笑った。
「山用なんです。ほら、銃を使った猟を見学させていただくこともあるので、目立つ色じゃないと危険だし迷惑をかけてしまうかもしれないじゃないですか。猟友会のオレンジベストもあるんですが、念のために自前のも明るい色で、と選んだので」
「ああ、なるほど」
「平地ではあまり着ないんです」
似合うのになあ。普段の大学カジュアルにも合うと思う。着ればいいのに。
でも、居心地が悪そうにしている年上の男性をあまり追及してもかわいそうなので、私は言うのをやめた。目の前まで来ていたケーキショップのガラス戸に手をかけて言った。
「ここです。うちの行きつけのケーキ屋さん」
ケーキを一つずつ選んで、箱に入れてもらっている時も、彰実さんの質問について私は考えていた。今日選んだケーキは、彰実さんがイチゴタルト、私がルージュ・エ・ノワール。チョコレートスポンジでガナッシュクリームを挟み、天面にラズベリーソースが塗ってあるケーキだ。
店を出て、彰実さんの下宿がある方向に歩き始めながら、私は言った。
「ラズベリージャムみたいな濃い赤。着るものにはまず選びませんけど、見るのが好きです」
「ちょっと黒みがかったような?」
「ええ。小さい頃、近所の公園で、赤いビー玉を拾ったことがあって。ぱっと見は黒に見えるんですけど、明るい空にかざすと、真ん中の辺りが赤く透き通るような色で、赤だってわかったんです。手のひらの上に載せて日の光を当てると、赤い光が肌にちらちら炎みたいに映って、いつまででも見ていられるくらいきれいなビー玉でした。宝石みたいに大事にしていました。本当に仲良くなった子にしか見せないようにしたりして」
「まだ持っているんですか?」
「机の引き出しに入れていると思います。最近わざわざ取り出したことはないですけど」
「聞いてよかったなあ。こんな話が聞けるとは思いませんでした」
彰実さんはにこっとした。
「彰実さんは? お好きな色は何ですか?」
「えっ」
この人は、人に話を聞くのは上手なのに、自分のことを聞かれるとすぐうろたえる。
「今のサトカさんの後でですか。めちゃくちゃハードル高いじゃないですか」
「ハードルって何ですか。私は好きな色を聞いただけですよ」
私は笑ってしまった。自分の話はあまりおもしろくないと彰実さんは時々言う。本当にそう思っているみたいだから、始末が悪い。
すごくおもしろいのに。
それでも、彰実さんはうーんと首をひねった。
私が彰実さんのことを好きな理由はたくさんあるけど、ひとつはこういうところだ。
私が聞いたことには、居心地が悪くても苦手なことでも、一生懸命、真剣に答えてくれるところ。彰実さんはだいたいの場合、私だけではなく誰に対しても同じように真剣に答えるんだけど、それはもう一つの好きな理由だ。
「そうですね、やっぱり、濃いオレンジ色は好きだなあ」
「あのジャケットみたいな?」
「あれはウェアですから、少しくすんでいましたけど。身につけるものでなければ、もっと澄んだ、もっと濃いオレンジが好きです。熟した柿の色」
「もしかして、色というより、柿がお好きなんじゃないですか」
「バレましたか」
彰実さんは笑った。
「照柿っていう言葉がありますよね。つやつやした柿の実が枝に残って、日に当たっているところを連想するんですけど、晴れた秋の明るい空をぱきっと切り取るみたいな、ああいう色が好きです。柿のおいしさと結びついて記憶されているからでしょうかね」
想像した。きっとのんびりした午後の空だろう。お庭かどこかの柿を、脚立でも出してご家族と採ったのだろうか。それとも、よその柿の木を、うらやむ目で眺めたんだろうか。
「季節の色ですね。柿が出回る期間は短いですし」
私が応じると、彰実さんは嬉しそうにうなずいた。
秋の盛りにはあんなにたくさん青果店に並んでいた柿も、今はもうすっかりみかんにとってかわられている。
柿。ちょっと難しい。
「じゃあ、私からも質問していいですか?」
「何なりと」
彰実さんはふざけて、肘を曲げて腕をおなかの辺りにつけ、古いイギリスのドラマに出てくる執事みたいに礼をした。ケーキの箱を反対の手に提げているから、いまいちサマにならない。
「彰実さん、お誕生日はいつですか?」
「二月です」
「何日?」
「十日です。二月十日」
私は思わず立ち止まった。
「あと一ヶ月もないじゃないですか」
「ああ、そういえばもうそんな時期ですね。十二月くらいから日付ってあっという間に進みますよね」
彰実さんはのんきに言う。私は気を取り直して歩き出しながら切り返した。
「一年のうち、二月以外の十一ヶ月、日数は三十日から三十一日でそんなに変わりませんよ。でも、そんなにすぐだったんですか」
これは困ったことになった。
知らぬ間に唇をかんでいた。もっと早く聞いておけばよかった。そんなタイミングはなかった、ということは承知の上だが、悔しい。
私の困惑を察したのか、彰実さんは困ったような顔をした。
「毎年忘れちゃうんですよ。年末に来る卒論と修論の締め切りから始まって、年度替わりくらいまで、研究室や大学の仕事がかなり忙しくなるのと、フィールドワークにおいでと、狩猟グループの方からお声かけいただくのもちょうどこの時期なので」
「お誕生日の頃もお忙しいんですか?」
「今年から山場の一つです。推薦やAOも含めていくつかのやり方で入学試験があって、その最後が、二月上旬の筆記試験でして。その採点をして最終的に合格発表が出るのが、うちの大学の場合、毎年二月十五日なんです。そこを過ぎれば一息つけるんですけど。去年までは一応大学院生だったのでさすがに入試は無関係で、教員が面倒を見られない分、研究室の後輩の相談にのったりする頻度が増えるくらいだったんですが、今年は教員の中では一番下っ端なので、山ほど雑務が割り振られてしまいました」
「じゃあ、二月に入ってから、ゆっくり会えるのは十五日過ぎになっちゃいますか」
「すみません。なにぶん初めてなので、今から見当をつけることもできなくて。時間のやりくりをつけて、お仕事の帰り道を送っていくことくらいは何度かできると思うんですが」
「いやいや、そんなお忙しい時期にご無理をしては」
私が言うと、無理じゃないです、と、彰実さんはむっとした顔をした。
「会いたいんです。むしろ、そういう少しの時間でも会えないまま、この山場を乗り切らなくちゃいけないことになったら、僕はその方がきつい」
私は二の句がつげなくなって、目をそらした。耳たぶまでかっと熱い。顔色にでやすい自分の体質が嫌になってしまう。
どうしてそういう甘いことをさらっと言えるんだろう。
彰実さんは、いろんな意味で、甘党である。
2020.6.25 読みやすさ改善のため、改行を追加しました。