8.ピクニックへ行こう(後)
太陽が南にかなり近づいた頃、先頭をきっていたアルフレッドの馬が止まり、「この辺りで馬を休ませよう」と合図した。真っ先に降りた彼がアンネに手を差し伸べる。アンネが細い手を重ね、ふわりとスカートが風に膨らむ。まるでシンデレラのワンシーンのようだ。
「どうかした?」
気が付くとロイが馬を降りて、リタを下から見上げていた。
「もしかして一人で降りるの怖い? 抱き留めてあげようか」
「そんなはずな……」
「そんなはずないでしょう」
食えない男が両手を広げて誘うのを断ろうとしたら、被せるようにエドワードが苦い口調で言い放った。エドワードもすでに下馬しており、手綱をひいて、あやしながら近づいてくる。リタに対する態度と違い、馬をあやす手は優しい。
「成人前といえど、仮にも一国の王子です。あまり見くびらないでいただきたい」
リタは、またこのスパルタ筋肉マンに嫌味を言われたと、うんざりした気持ちになりかけて、気が付いた。今のはむしろ逆だ。褒めているというレベルではないが、少なくとも貶されてはいない。リタを尊重とか、信頼とかいうレベルで、評価してくれている。
信じられない気持ちでエドワードを見つめると、彼は精悍な眉を片方だけ器用につりあげて、何ですか、とでも言いたげな顔をした。意識した発言ではなかったようだ。
リタは慣れた手つきで馬から降りて、乗せてきてくれてありがとう、と馬の胴を撫でた。結んできたピクニック用の荷物を解くと、ふるふると体を揺らして、馬は啼いた。
エドワードがリタとロイの乗ってきた馬を引き取り、自身の愛馬と一緒に湖畔の方へ連れていく。アルフレッドもそれに倣って行ってしまうので、リタは残った二人と一緒にピクニックシートを広げることにした。
「アルフレッド様って、あれほど高貴な身分でいらっしゃるのに、気取らないで、素敵な方ね」
アンネは花がほころぶように笑った。
二人が戻ってきて、昼食になった。温かいコーヒーとスープを器に移して、包んできたサンドイッチとサラダ、から揚げ、卵焼き、そしてデザートにフルーツを広げた。どれもリタが覚えていたレシピで、普段ロイがつくるような手の込んだものではなかったが、青空の下で食べるピクニックメニューといえばこれしか思いつかなかった。ほおばると懐かしい味がした。
「ん、これうまいな」
アルフレッドがから揚げを飲み込んで、いつもの王子様然とした口調でなく、砕けた言い方をした。いつかの、「王子様は休憩」といったときの彼を思い出して、素のアルフレッドと再会できたようで嬉しかった。
から揚げは、冷めてもおいしくなるよう、下味のつけ方と揚げ方を工夫した。香料と蜂蜜を加えたので、風味もよかった。調理中ロイが配分や成型方法についてしきりにメモしていたので、もしかすると近い将来王城の食卓に並ぶ日が来るかもしれない。そう思うと、リタは、なんだか大きなことを成し遂げたような気になった。
「アンネが朝から頑張ってくれたんだよ」
「そうか、アンネは料理が上手なんだな」
アルフレッドに褒められて、頬を染めたアンネが慌てて否定する。しかし二人を包む優しい雰囲気が壊れることはない。
二人は、間違いなくお似合いだった。好感度パラメータが見られないので、今どこまで両者の気持ちが盛り上がっているか判別しがたかったが、この調子でいけば、きっとアルフレッドは王位継承権を放棄して、カールが後継者となるだろう。
当初からの計画通りに進んでいるのに、リタは胸のつかえがとれなかった。食べ過ぎて胸やけしているのだろうか。食事がおわって高原を散策することになったとき、リタは一人、馬の様子を見てくるといって集団を離れた。
自分はどうしてしまったのだろう。湖畔の静けさを覗き込みながら、リタは考えを整理した。
アンネも、アルフレッドも、大好きだ。幸せになってほしい。
だけど二人の仲睦まじい様子を見るのが嫌だ。
カールを後継者にしたい。そのために努力を重ねてきた。
けれどアルフレッドの努力と、信念と、人望を知っている。彼にも次期陛下になってほしい。彼のつくる国を、見てみたい。
矛盾する思いばかりが堰を切ったようにあふれてきて、リタは顔を両手で覆った。どうしよう。
そのとき、一切の気配がない状態で、肩を叩かれ、リタは驚愕に体のバランスを崩した。足を滑らせ、あ、落ちる――と思ったときには、全身に水を浴びていた。
湖畔は想像より深かった。足がつかず、水中を切る。服が水を吸って全身が重い。鼻でうまく息が吸えない。水が口から流れ込んでくる。気持ち悪い。両腕で水面を叩くが、つかまるものがなく、おぼれる、と思った。
「カール、落ち着いて、体から力を抜くんだ」
背後から強い力に抱きかかえられ、耳に冷静な声が届いた。次いで、嗅ぎなれたコロンの香りが漂う。不思議と安心する匂いだ。
手足を動かすのをやめて、体重を後ろに預けてしまうと、周囲を見渡す余裕ができた。徐々に陸へ近づき、担ぎあげられる。地面だ。
湿った土のうえに四つん這いになり、飲み込んでしまった水を吐き出す。喉の奥が痛い。異物が入ったのか目じりから涙が零れたが、直後に湖畔から上がってきた恩人の姿をみて、ああもうダメだと思った。
「アル、……ありがとう」
恩人は、アルフレッドだった。かきあげた金髪から水滴がしたたり、ぞっとするほど色気をはらんでいる。水にぬれた衣類が体にはりついて、二の腕から胸、腹までの筋肉が透けてみえる。
迷惑をかけてごめん、ありがとう、そして好きだ、という気持ちがせり上がってくる。ごまかせない。
アルフレッドは、いつも通りの王子様スマイルを顔に貼りつけようとして、こちらを向き、それに失敗した。驚愕したように目を見開いている。
どうしたのだろうと、その視線を辿って、気が付いた。アルフレッドの衣類が濡れて筋肉が透けているように、リタの衣類も濡れて、ささやかな胸のふくらみが、露呈していた。
「あっ、あの、これは、その……」
とっさに両手で隠すが、アルフレッドの表情は驚きに染まったままだ。リタは混乱して、言葉をつむぐことができなくなった。
静まり返った湖畔とは対照的に、リタの心臓は早鐘をうち、うるさいほどだった。そこへ、草を踏み分ける音が聞こえた。誰か来る。
察知したアルフレッドは機敏だった。入水前に脱ぎ捨てたベストをリタに着せ、胸元が透けているのを隠してくれる。そうして自分は、ずぶぬれになった衣類を一度脱いでしぼり、もう一度羽織りなおす。
「あ、アルフレッド様とカール様みつけ……っ、どうなされたのですか」
やってきたのはアンネ、ロイ、エドワードの三人で、ばけつで水をかぶったような二人のありさまを見るやいなや、状況を察して、焚火を起こそうと言ってくれた。
「いや、それより早馬で城に戻って、湯あみする方が早いだろう」
アルフレッドは、帰ろう、と言い切った。
夏の午後とはいえ、長引けば風邪をひいてしまう。急ぐから、という理由でアルフレッドはリタを問答無用で自馬に乗せ、残りの三人にあとから戻ってくるよう指示した。ロイはやれやれと肩を竦めて、慣れた手つきで馬に乗っている。やはり一人でも乗れたらしい。
アルフレッドが綱をひくと、馬が往路の倍ほどの速度で王城へと駆け出す。リタは舌を噛まないように口を閉じ、必死に馬身にしがみついた。アルフレッドは、そんなリタに覆いかぶさるように身を低くしたまま、同じように口を閉ざしたままだった。
城門まで戻り、門番に馬を預けると、リタは風呂で体を温めるため、離れに戻った。別れ際、アルフレッドが何か言いたげな表情でこちらを見ていたが、体調への配慮を優先したのか、結局その場では話しかけてこなかった。