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6.剣闘大会準備

「剣闘大会に出てください」

 とエドワードに命令形で水を向けられたのは、初夏の青々とした涼風のさわやかな日のことだった。午前の基礎訓練を終えて、リタは悲鳴を上げる腹筋とふくらはぎを芝生に投げ出す形で、大の字になって芝生に転がっていた。額にはりついた前髪が邪魔だけれども、払いのける体力は残っていなかった。肺が素早く収縮を繰り返し、酸素を体内に取り込もうとするが、まだ追いつかなない。三秒ほど遅れて、やっとエドワードの言葉を理解した。

「剣闘大会……?」

「年に一度、陛下の眼前で行われる剣技を競うトーナメント大会です。模擬剣だが新兵の登竜門で、勝ち上がればアルフレッド王子とも戦える」

 エドワードがいうには、アルフレッドは四年前にはじめて優勝した防衛王者ということだった。憲兵団に入団した若者はこの大会で名前を残し、今後のキャリア形成に活かしたり、陛下に近衛兵団に推挙いただくことを目指したり、賞金を目当てにする者もいるらしかった。そういえば、王城へやって来た日に知り合った衛兵のフランシスも出るだろうか。

「エドワードは出ないの」

「五年連続優勝すると、名誉剣闘士という立場になって、一般参加できなくなるんです。若い芽を伸ばすためでしょう。今の陛下も、俺も、名誉剣闘士です」

「へえ…」

 リタは、いつ見ても偉そうなこの男が、それに見合う実績を残していることに、言を継げなくなり、自身が彼を盛大な色眼鏡で見ていた事実を恥じた。

 この国の兵団は、大きく二つに分けられる。エドワードが属する憲兵団と、フランシスが属する近衛兵団。エドワードが師団長であるのに対し、フランシスは一兵卒であるから、この二人を単純比較すればエドワードの方が立場が上だが、陛下直属という観点で、武力で生計を立てる者にとって、近衛兵団の方が人気が高いのも事実だった。立場でなく、世論での上下関係で憲兵団は下に見られており、エドワード本人はよく「国家とは王族ではなく、国民ですから、俺は国民を守ります」だの、「王族たるもの守られなければ生活できないようでは困ります」だのと外聞を気にせず口にしていたが、リタはこっそり彼が近衛兵団に入団を却下された類の人物でないかと穿っていた。誤解していた自分を恥ずかしく思った。

 内心で謝罪をしたあと、少し彼を見直した。咳ばらいをして話題を変えた。

「ということは、アルは今年優勝すれば名誉剣闘士かー」

 エドワードの面が険しくなった。

「感心している場合ですか。アルフレッド王子が優勝すれば、あなたは二度と王子に勝つチャンスはなくなってしまう。次期後継者として認められるために、今ここにいるのでは」

 ごもっともだ。

 特にアルフレッドに肩入れするでもない様子は、やはり近衛兵団でなく憲兵団という身の上によるものだろうか。リタを鍛えてくれているのは、彼の部下の仕事を減らす――王族が犯罪に巻き込まれて市民より命を優先せざるをえない状況を減らす――ためと明言されていたが、意外とリタの立場も考えてくれているらしい。口は悪いが、思いのほか懐の深い人間なのだろうか。

 いや、絶対にリタを言いくるめる屁理屈を探していただ。

 リタの顔に貼りついた髪を、彼の武骨な指が払いのけ、そのまま頬へと滑っていく。男くさい顔がこちらを向いている。男はリタの頬の砂を拭い、そのまま、思い切りつねり上げた。

「惨敗したら、さすがに次期後継者候補と名乗り続けられるほど面の皮は厚くなさそうですね。俺の顔に泥を塗らないよう、せいぜい頑張ってください」

 この野郎。リタは眦をつりあげて男の手を払いのけると、まだ疲労感の残る腹筋に力を入れて起き上がり、せめてもの反抗として舌を出したあと、鼻を鳴らしてその場を立ち去った。

 その日の午後は休みだったので、シフト休みの重なった衛兵フランシスを誘って、城下へ繰り出した。一応、王族の血を引くことが一目でわかる金髪は、深く帽子をかぶって隠すようにしていたが、後から振り返ると、筋力がつき、剣もかなり思うように揮えるようになってきた自分を過信していたのかもしれない。憲兵場でやってはいかがでしょうかと顔を白黒させるフランシスを、「嫌な上司に見つからないところでやりたいんだ」と説き伏せ、市民体育広場で特訓につきあってもらった。近衛兵団と憲兵団では教則で教わる型が多少異なるので、フランシスと模擬剣を交えるのは、大変勉強になった。何度か剣を弾き飛ばし、弾き飛ばされ、腕を払い、鳩尾を打たれ、ということを続けているうちに、日が暮れた。

 全身が筋肉痛と打撲でくたくただったが、充足感には代えがたかった。何か食べて帰りましょうと熱心に誘うフランシスに連れられて、大衆食堂に入ると、この世界へ来てはじめて感じる喧噪に包まれた。発泡酒の乾杯、粗野な笑い声、立ち上るスパイスの香りと、鉄板で肉が焼ける音、どれもどこか懐かしいものだった。

「葡萄酒と、羊肉の煮込み、季節野菜のつきだし、鶏卵オムレツ…」

 通された角の小さなテーブルにつくなり、メニューも見ずに頼みだすフランシスに、リタは目を丸くした。

「よく来るの?」

「いえ、初めてですが、この辺りの食堂はどこも似たようなメニューでして。お口に合うかわかりませんが、たまには庶民の味もいいかなと思って……、っあの、私が勝手にカール様はこういうものに興味があると想像しただけでして、もし気に障りましたら」

「ありがとう、超興味津々」

 フランシスは下戸なくせに酒好きで、店員に勧められるままに黒ブドウの生酒をいくつか飲み比べ、最終的に厠で食べたものを盛大に戻していた。ぐったりとした様子の彼を背負いながら城門までの道を進んでいると、食堂を出た頃からつけられていた気配が近寄ってきた。リタは内心で舌打ちした。リタはほとんど酒に手をつけなかったが、フランシスはへべれけで、戦力として現時点においてマイナスだった。

 負けの決まっている戦闘においては、闘おうとせず、逃げるべきだ。けれど逃げ切れるだろうか。門番のいるところまで、あと三、四ブロックといったところか。

 逸る気持ちをおさえ、相手に勘づかれないよう歩速を早める。はやく、はやく、はやく。気配が徐々に大きくなり、もう限界か、振り返って対峙しようかと考えていたところで、住居の角から強い力で腕をひかれた。バランスを崩しそうになるのを、嗅ぎなれたコロンが受け止める。

「え、アル……?」

「黙って」

 見慣れたはずのその姿は、なぜか平民の装いに体躯を包み、髪は茶色に染められ、瞳の色まで地味な茶色に変わっていたが、間違いなくアルフレッド本人のようだった。共する者はおらず、勝手知ったる風情で、リタからフランシスを引き取り、顎で合図する。こっちだ。

 足音を立てないよう住宅の裏に回ると、ごみ集積用に誂えたようなコンテナボックスを開け、中に入れと促される。躊躇していると、アルフレッドが先に入り、コンテナの奥の隠し戸を開いた。

「はやく、こっちだ」

 フランシスを二人がかりで隠し戸の奥へ押し込み、次いでリタ、最後にアルフレッドがコンテナを閉めると、視界が闇で覆われた。マッチを擦る音が聞こえ、小さな明かりがともる。すがるように炎を見ると、アルフレッドが隠し戸を施錠しているところだった。

 隠し戸の奥は、通路のようになっていた。中腰で人ひとりがようやく通れるような隙間しかなく、どこへ続いているのか分からないが、埃とカビの混ざったような臭いがした。しゃがんで、と言われ地面に身を伏せると、リタの頭上をアルフレッドが移動していく。こんな状況ではあるが、彼の足の長さに気づいて嫉妬した。

 アルフレッドがフランシスより前まで行ってしまうと、また暗闇が戻ってきた。アルフレッドが小さな掛け声とともにフランシスを背負ったらしい。中腰でその態勢をとるのがいかに負担か想像して、リタは王子の細身に見える体のどこにこんな力が眠っていたのかと信じられない気持ちになった。さすが剣闘大会で四年連続優勝しただけのことはある。

「俺の服の裾をつかんで、離さないで。信じてついてきて」

 促され、頼りない布をぎゅっと握り、リタは導かれるように前進した。

 どれほど時間が経っただろう。五分とも、三十分ともとれる距離を進んだところで、アルフレッドがフランシスを背から降ろした。そうしてガチャガチャと金属のぶつかる音を鳴らしたあと、扉になっていた壁を押して開いた。

「あ」

 アルフレッドの背中越しに分かった。城門の中、離れに近い庭園のひとつにつながっていたのだ。

 協力してフランシスを外へ出し、やっと一息ついた。アルフレッドは出口の壁を庭園の苗木で覆って隠してしまうと、長く、深いため息を隠さなかった。

 さすがに怒鳴られると思った。アルフレッドが平民姿で城外にいた理由は不明だが、助けてもらわなければ、今頃身ぐるみはがされて大問題に発展していたかもしれない。肝が冷え、体の震えがとまらなかった。

「カール」

 アルフレッドが振り向いた。失望されただろうか。恐怖に目を閉じ、肩を竦ませたが、耳に届いたのはアルフレッドの穏やかな声色だった。

「無事でよかった。君がろくに変装もせず城下へ出たと聞いて、心配していたんだ」

「ごめんなさい」

 こればかりは、リタが百パーセント悪い。

「もう二度とこのようなことは」

「今度からは、必ず僕に声をかけること。お忍びの先輩として、変装のやり方や抜け道を、ちゃんと指導するから」

「はい、もうしませ……っえ?」

 リタはぽかんとしてアルフレッドを見上げた。やはり見慣れない色のままの瞳が、こちらを見て、いたずらっぽく微笑んでいる。

「王城の生活は息苦しいから、城下におりたい気持ちは僕にも分かるよ。平民の生活に触れるのも勉強になるから、とめたりしない。でも慣れないうちは、僕の指導のもと出かけると約束して」

 リタは漠然と、ああこういう人が国王に相応しいんだ、と思った。謙虚でありながら高潔で、優しく、強い人だ。

「アル」

 思わず名前を呼んだ。

 アルフレッドは、一呼吸置いてから「よし、説教おわり」と言い放つと、急に年頃の青年らしい口調に代わり、バランスのとれた体躯を庭園のベンチに投げ出した。

「っあー、疲れた! 彼、フランシスくんだっけ、重いんだもん」

「だ、だもん?」

「今の俺は平民だからね。ちょっと王子様は休憩」

 屋台先で叩き売りされているような薄い布でできたシャツの裾をつまんでみせて、アルフレッドは笑った。どんな格好をしていても、彼の気高さは隠しきれなかったが、どことなく年相応な表情を初めて見た。胸が一度大きく高鳴った。

「僕は平民のアルも好きだな」と喉の奥まで出かかって、それは声にならなかった。普段から友好を言葉にすることに抵抗はなかったが、なぜか、今それを言うと別の響きが加わりそうで、怖かったのだ。

 アルフレッドの腕をひかれ、その隣に腰を下ろすと、彼のコロンに胸が騒いだ。これはダメだ。危険な予感に、その場を去ろうとするものの、「今日はどこへ行ってきたの」と優しく尋ねられると、甘酸っぱい感情が胸を支配する。

 結局、夜風が冷たくなるまでそこにいた。居室に戻り、リタは、真綿で締め付けられるような胸の痛みに、どうしようかと頭を抱えた。

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