12.いざ、温泉旅行へ
剣闘大会の優勝者へは賞金が授けられる慣例だが、四年前からアルフレッドが王族であるという理由で辞退し続けたため、ここ数年は準優勝者が受け取ることとなっていた。今年は王族の二人が引き分けたので、陛下は賞金に代わり、特別に打ち身に利くという秘湯旅行を下賜することに決めたそうだ。
アルフレッドは「自分は戦っていないから」と例年通り辞退を試みたが、四年分の優勝に代わる褒美としてありがたく賜るよう皇后陛下に諭されたらしい。朝から紋章入りの馬車に揺られるなかで、アルフレッドは向かいでずっと困ったような表情を浮かべていた。
馬車には小さな窓がついていて、外を覗くと、広大な緑の絨毯をオレンジに染める夕日が美しく、また田舎らしい静かな時間が流れていた。人気は少ないが、たまに見かける人家からは白い煙が立ち上り、悠々自適の生活が今にも垣間見えそうだった。
アルフレッドはいつになく言葉数が少なかったが、リタとしても、口を開けば「いつ王城から去るか」の話題から逃れることができないと気づいていたから、沈黙を破ることはしなかった。
やがて馬車が宿につき、秘湯の管理人が出迎えてくれた。
「王都からはるばるようこそお越しくださいました。質素なつくりではございますが、効果は抜群ですので、どうぞごゆるりとお過ごしください」
管理人は、白髪で腰の曲がったおじいさんだった。旅館のような立派な建造物はなく、遠方からくる旅人のために善意でつくられたとわかる、簡易な小屋だけが隣接していた。秘湯は萱葺になっており、入ってすぐに、一夜を越せるスペースが一室しかないことに気がついた。
「すみません、あなたはどちらにお住まいなのですか」
アルフレッドが老人に問いかける。
「わしはここから三十分ほど山奥へ入った家に住んでいます。家族がいるので今日はこれで失礼しますが、何か困ったことがあれば、そこに伝書鳩がいるので知らせてください。すぐ駆け付けますので」
「そうですか……、わかりました。ありがとう」
エドワードが勤務日だったので、代わりに衛兵の誰かを同行させようとしたアルフレッドを、陛下が固く許さなかったのはこのためだろう。剣闘大会の最上位二名に対し単独行動を危ないとするのはナンセンスだし、辺りは草木だらけで、隣接小屋以外に泊まれるような場所は見当たらなかった。
管理人のおじいさんが帰ってしまうと、居心地の悪さが戻ってきた。さっさと秘湯に入って、寝てしまおうとリタは思った。大きめの鞄にから着替えをとりだして、「お先に失礼します」と断り、茅葺の奥の敷居へ進んだ。
浴場は、十畳ほどの広さの湯船と、一人ずつしか入れないような小さなシャワースペースで構成されていた。湯成分の匂いが一帯に広がって、入ったとたんに日本生まれの心をくすぐられる。蒸気がやさしく肌を包む熱量と、茅葺の隙間風が心地よく混ざり合って、リタは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
体の汚れをかけ湯で流し、いよいよ秘湯に肩までつかると、天国だった。気持ちいい。手足をゆっくりと伸ばせば、知らず凝り固まっていた筋肉が見えない力でほぐされて、全身ふにゃふにゃになってしまいそうだ。思わずため息がもれた。至福とはこういうことを指すのだろう。
アルフレッドとの道中は気まずかったが、ここまで来てよかった。陛下には感謝しなければならない。カールとして仕えることはできずとも、一国民としてできることを探したい。
アンネには、手紙をたくさん書こうと思った。今まで王城での生活をアンネに支えてもらった分、遠くからではあるが、今度はリタがアンネを支えたい。
エドワードは、本当のカールに会ったとき違和感を与えてしまうかもしれないので、先に事情だけ伝えておくつもりだ。怒るだろうが、最終的には理解してくれる人だと信じている。ロイは鋭い男なので、きっと何も言わなくても大丈夫。いつかまた、皆にリタとして再会できる日が来たらいいと、夢物語のような願いを心に閉じ込めた。
湯船で十分温まり、シャワーブースへと向かうとき、濡れた地面に足を滑らせてしまう。慌てて逆の足で踏ん張る。幸い転ばず済んだが、怪我した方の足首に体重をかけてしまい、しまったと焦るのもつかの間、痛みがすっかり引いていることに気づいたときは、これがゲームの世界の秘湯の効果かと魔法のように納得した。
◇ ◇ ◇
秘湯へと姿を消したリタの背中を思い出して、アルフレッドは大変困っていた。二人で旅行するだけでも十分に気まずい状況だというのに、まさか同じ部屋で眠ることになるとは思っていなかった。陛下はいとこ同士で親睦を深めたらいいと思ったのだろうが、いとこ同士であっても男同士ではない。事情を説明することもできず、笑顔の皇后陛下に見送られて城を出てきたあと、なぜうまい言い訳を思いつかなかったのかと、ずっと後悔し続けている。
女性だと思ってリタを見ると、目のやり場に困った。道中、外の景色に心を奪われる人形のような横顔も、沈黙に飽きて尖らせる赤い唇も、華奢な肩や、細い手足、すべてが妙に色っぽく見えて、自分は変態かと疑った。
茅葺の小屋は音が筒抜けなので、湯を流す音がここまで響く。そのたびに、あの湖畔で見た透明な肌を思い出してしまい、どきりと胸が跳ねた。頼むから、はやく風呂から上がってほしい。
暇つぶしに持ってきた書物に手をかけたまま、アルフレッドの心は落ち着かない。同じページを繰り返し読んでいると、やがて風呂上りのリタが姿を現し、内心で前言撤回した。やはり、風呂にいてほしかった。湯上りの濡れた髪や、火照った頬が煽情的で、目に毒だ。たまらずアルフレッドは両手で視界を覆った。
「アルも入ってきたら」
と水を向けられ、逃げるようにその場を離れた。直前までリタがつかっていた湯だと意識すると、入浴するのが悪いことのように感じられ、烏の行水で湯あみを終えた。
田舎の夜は長い。日も暮れ、やることもないので、小屋の押し入れから布団を敷いて、すぐに蝋燭の火を落とすことにした。布団は辛うじて二組あったが、部屋が狭いので、重なるような形になった。手を伸ばせば触れてしまいそうな距離に相手の体温を感じて、アルフレッドは頭の中に数式を思い出す。
すると暗闇のなかで、リタがアルフレッドの名前を呼んだ。
「大会二日目の夜に話したこと、考えたの。弟はきっと望まないだろうけど、両親の願い通り、カールは王城で暮らすのがいいと思う」
「……そうか」
「私がそうだったように、王城で得られる経験は、きっと弟にとってかけがえのないものになる。それに少し前に会ったとき、体ももうかなり元気そうだったもの。アンネやロイもいるのだから、弟だってうまくやっていけるはず」
リタは道中ずっとそのことを考えていたようだった。
アルフレッドは、自分の感情が急に浮ついたものに思えて、恥ずかしくなった。明かりを落としていてよかった。こんな顔を他人には見せられない。
「足首の調子はどう」
気まずさのあまり、今日ずっと、彼女の体調を気遣えていなかったことを反省した。体を横へ向けて尋ねると、リタと真正面から視線がぶつかった。
「もうすっかり平気。秘湯の効果って本当にすごいのね、連れてきてくれてありがとう」
「僕じゃないよ。頑張ったきみと、それを見ていた陛下のおかげだ」
「そんなこと」
「本当のことだよ。聞いて安心した。その、きみは女性だから、体に傷が残ったらどうしようと思っていたんだ」
アルフレッドは、当時の心境を思い出して苦笑した。すると暗闇のなかでもわかるほどリタが赤面したのが目に映った。
「大会を辞退してほしいって言ってたの、実力とか、権利がないとかっていう理由じゃなかったんだね」
アルフレッドは、おかしなことを言っただろうかと首を傾げた。心当たりはなかったが、むずがゆいような、甘く優しい空気が伝播した。ふと風呂上がりのいい匂いがリタから漂って、忘れていた胸のざわつきを思い出す。
「ありがとう」
頬を染めたまま綺麗に笑う彼女を見て、抱きしめたいような誘惑にかられたが、アルフレッドはこぶしを握りしめてやり過ごした。
◇ ◇ ◇





