9.剣闘大会本番(前)
剣闘大会が近づいてくると、世間はお祭りムードに入った。年に一度、大会開催中の三日間のみ平民にも城門が解放され、一般人も兵団員も関係なく、無礼講の力比べが始まる。参加する者も、応援するだけの者も、出店で買ったファストフードを楽しんだり、城内ツアーに参加して王族の生活を想像したりするのだ。にわかに城内が忙しなくなり、高原へ出かけてから、リタはアルフレッドに会う機会に恵まれなかった。
あの日、驚愕した表情でリタを見てきた、彼の視線を忘れられない。軽蔑されたかもしれないし、傷つけてしまったかもしれない。過ぎたことを後悔しても仕方ないが、あのとき足を滑らせた自分を許せる日は、まだ当分訪れる気配がない。
言い訳したいような気持ちもあったが、アルフレッドに会えないことは、リタにとってありがたいことでもあった。正直、何をどう話せばいいか、答えが見つかっていない。
憲兵場でへとへとになるまで体を動かすと、気持ちが少しだけ楽になった。悩んでいても、体が限界を迎えれば、熟睡できるものだ。リタは日に日に訓練量を増やし、夜は泥のように眠った。
「よし、ここまで。今日はもう体力を温存して、明日に備えてください」
大会を翌日に控えた朝に、ひとしきり剣を交わしたあとで、エドワードは言った。
リタは、練習用の模擬剣を取り上げられ、ふいに心細くなった。今日まで毎日欠かすことなく振り続けたその剣は、お守りのような存在になっていた。体力を削るようなことには使わないので、持っていてはダメかと縋ったが、二つ返事で断られた。融通の利かない男だ。
「剣を頼るのは弱者のすることです、まだそんな情けない男だったとは」
「っな」
「壊れるものを頼れば臆病になるだけです。不安なときは掌を見るといい、努力してきた自分を信じられるはずです」
リタは小馬鹿にされたと感じながらも、言われた通り掌を見た。何度も素振りをしては肉刺ができて、その度に破れ、ぼろぼろになった掌だ。初めて剣を握る前と比べると、すっかり皮膚が硬く、厚くなって、もう女性らしさの欠片もない。剣闘大会が終わり、いつかカールの身代わりから令嬢に戻っても、きっと思い出すだろう。
そこまで考えて、はっとした。つらかった訓練は、リタの努力だ。剣がなくても、お守りなどなくても、努力を重ねてきた日々は消えない。負けたりしない。
「もっとも、俺は心配してないですけれど」
エドワードは鼻で笑うと、その場にリタを残して去ってしまう。慌ててその背を追いかけ、腕をつかみ、問いかけた。
「それって、僕なら大丈夫だと、信じてくれているからですか」
一見して嘲るような口調でも、当たり前のように信頼を寄せてくれたのを、乗馬のとき知った。エドワードは面倒臭そうな顔をして、何をいまさら、と肩を竦めた。
「これだけ近くで見ていたんですから、あなたが強くなったことは知っています」
嬉しさに、心が震えた。
ご武運を、と言い残して踵を返したエドワードの耳が、わずかに赤くなったような気がしたのは、目の錯覚だろうか。リタはしばらくその場に残り、胸に湧き上がるくすぐったい感情に、笑顔がこぼれるのをとめられなかった。
だからこそ、大会初日の二戦目で、屈強な対戦相手の体重を支えきれず、後ろにはじきとばされたとき、最初に感じたのは圧倒的な経験差だった。手首からひじまで、骨に直接衝撃が伝わった。かろうじて模擬剣を手放すことはなかったが、体ごと押し返されるなんて、想像していなかった。
「とんだお坊ちゃまだなぁ、軽い軽い」
まるでハエを払うような気軽さで、男はリタを挑発した。体重を崩して地面に尻をついたリタは、震える体を叱咤し、間髪入れず立ち上がった。
リタは、たしかに強くなった。けれどそれを上回る強さなど、ごろごろ存在するのだと知った。
リタだけが努力しているわけでもなければ、努力した時間の差が埋まるわけでもない。この場でリタにできることは、重い剣で素振りを繰り返したのでなく、いかに速く、複雑な型を繰り返したかという、努力の方向性で勝負することだった。
男が油断していることは好都合だ。隙をねらい、相手の剣筋にミスリードを誘って、その一撃を瞬息でたたき込む。先の攻撃で痛めた肘と足首に激痛が走るが、体に覚えさせたその動きが鈍ることはなかった。
審判が旗をあげ、リタの勝利が宣言される。良かった。脂汗が背筋をつたうのを必死に隠して、リタはその場を後にした。
くじ引きの結果、リタの第三戦は二日後の大会最終日となった。興奮が冷めると、痛みを隠すのが困難になってきた。腫れているのは極一部なのに、全身が熱をもって、頭がぼうっとする。
離れにある居室にほうほうの体で戻ると、アンネが真っ青な顔をして医師を呼んできた。見立てによれば骨に異常はなく、ただの捻挫のようだったが、全治三週間を言い渡された。
剣の師匠であるエドワードは、あくまでリタを、守られるべき王族でなく、一人の剣闘士として断言した。
「リタイアするのはとめませんが、俺なら最後まで戦います。もちろん負け戦は恥ずべきで、戦って負けようが、戦わず負けようが、結果は変わりませんが、俺は負けると思わない」
第二戦を観戦していたエドワードは、笑顔で退場したリタのもとへ一番に駆け付け、珍しく素直に「いい戦いだった」と褒めてくれた。彼が表面的な態度と裏腹に、実は大層優しく面倒見のよい男であることを最近ようやく理解したが、だからこそ、今の発言が彼の客観的な見立てかどうかに自信が持てなかった。基本的に嘘をついたり、お世辞をいうタイプではないものの、リタの気持ちを後押ししているだけかもしれない。
逆に、リタの出場停止を推しているのが、患部をみて卒倒しそうになったアンネと、湖畔事件ぶりのアルフレッドだった。アルフレッドは昨年優勝のシード枠で最終日まで出番がなかったが、大会主賓席で一日中笑顔を振りまくという仕事を忠実にこなしていた。
「僕は反対だ。戦に勝って勝負に負ける、という言葉もある。大会で勝つことより、体の治療の方がよほど大事だ。ここで無理をして後遺症が残ったら、今後もっと重要な戦いで後悔することになる」
「後遺症が残るようなレベルのケガじゃない。たとえ残ったとして、それに見合った戦い方を覚えればいいだけです」
「後遺症が残らなくても、傷跡が残るだけでダメだ」
「過保護すぎます、男にとっての傷跡は勲章です」
アルフレッドは、苦虫をつぶしたような顔をした。
二人の議論は白熱していたが、リタは徐々に意識がもうろうとしてきた。処方してもらった痛み止めの副作用だろうか。瞼が重い。体が熱い。
気づいたアンネが「続きは明日にしましょう」と言ってくれたおかげで、居室には静けさが戻ってきた。薄れていく現実感のなかで、誰かがリタの手を握り続けてくれたように思ったが、翌日起きるとベッドの横に人影はなかった。





