プロローグ
涼風のさわやかな晴れた日の午後、王都の離れにある邸宅の庭で、彼は木陰にあるベンチに足を組み、カバーのついた文庫本を読んでいた。手を伸ばしてもギリギリ届かない距離まで近寄り、立ち止まると、柔らかなまつげに縁どられた、色素の薄い瞳がこちらを向く。耳が熱くなるのが分かった。
目じりがふわりと下がり、彼が来訪を快く思っていることが見て取れる。出会ったばかりの誰も寄せ付けないピリピリとした雰囲気を思い返すと、感慨一入だ。やっとここまで来た。
「やあ、また来たんだね」
ちょっと気だるげな低い声は、まだ全快しない体の重さを引きずっているためだろう。免疫力が弱く、すぐに風邪をひいてしまう彼が、湖に落ちた私のために躊躇なく飛び込んできてくれたイベントでは、胸が震えた。
「この前はありがとう」
彼の頬が桃色に染まった。好感度は、もうばっちりだ。
画面上の選択肢に、「なんで助けてくれたの?」と「もう二度としないでよね」の二つが現れる。前者を選べば、カールルートのベストエンドまっしぐらだろう。ああ、本当に長かった。
ウーバーイーツで取り寄せたタピオカミルクティーを一口飲んで、思いのたけを込めて決定ボタンを押そうとしたとき、地面がぐわりと揺れた。スマホの緊急アラーム音が鳴り響く。あっ地震だ、と気づいたときには、もう取り返しのつかないことになっていた。
「あああああああ!」
画面上で、主人公が「もう二度としないでよね」と、愛しのカールに言い放ち、カールの頬から赤みが消えた。固くなった頬の筋肉、すっと冷えた瞳がこちらを見据え、「……そうか」と彼は言った。
「では君も、もう二度と僕の前に現れないでくれ。迷惑だ」
なんてことだ、なんてことだ、なんてことだ。
本棚から広辞苑が落ちるほどの地震の続くなかで画面を見続けたせいで酔ったのか、カールの心を開くまでに費やしたプレイ時間を思い返してショックを受けたのか、ひどい眩暈がした。世界がぐにゃりと曲がり、絵の具のように混ざっていく。
ああ、カール。王宮メイド物語という、超王道乙女ゲームのパッケージデザインでひとめぼれしてから、ずっと一途に思い続けたのに。
薄れゆく意識のなかで、どうせ死ぬなら、カールの隣に生まれ変わりたいと、切に願った。