2.湯に溶けるひとりごと
「あれまぁ、お帰りなさいませ、若さま。」
「あぁ、ただいま、婆や。」
家の敷地内で箒を持って、清掃に励んでいる婆やが、俺と伊織さんの姿を目にして声を掛ける。
「朝早いのにごくろうさま。いつも感謝しています。」
竹箒を持つ姿がやけにさまになっている婆や。まだ庭に揃えられた植木の葉に朝露が残る時間。やっと使用人たちが起き出す時間だというのに、婆やはもう着物をきっちりと着こなしていた。箒を持つ立ち姿も老齢の女性とは考えられない程に凛とした佇まいで、自分の役割への誇りと、長年我が家に仕えてきたことへの矜持のようなものが感じとれる。背筋もピンと伸びていて、老齢の女性であることを周囲に感じさせない肉体の強さ、そしてそれ以上に精神的なタフさを俺に知らしめる。
「いいえぇ。年寄りが好きでやっていることですのでな。伊織の方は…おや、お疲れのようですのぉ。」
それでも、あくまで老人言葉の話し方を崩さないのは、何だか不思議な感覚だ。
或いは、そういった『老人っぽさ』を敢えて自分に課しているのかもしれないが。
「ああ伊織さんね… うん、まあいろいろあってさ。」
「おばあちゃん、つかれた…。おふろー。」
伊織さんは伊織さんで、もうすっかりスイッチが切れた状態だ。いつもは目の前の老婆に負けじと凛とした雰囲気を纏うようにしている伊織さんだが、一度集中と意識が飛んでしまうと、完全に精神が退行してしまう。まるでいつものシアンを思わせるように。
「あんれまぁ。こりゃ重症のようですのぅ。大浴場の方に湯を張らせていただきますので、二人ともゆっくり浸かっていきなされ。」
「有難う。今日はもうゆっくりさせてもらうよ。」
「うぐぅ。早くはいりたい・・・」
伊織さんはもう完全に身体から力を抜いて、肩を貸す俺に体重を預けきっている。激しい戦闘の後はいつもこうだ。いつもは毅然として、己を律することを自分に課している伊織さんでも、一度緊張の糸が解かれると、完全に周囲に頼りっきりになる。まぁそれが伊織さんの可愛いところなのだが。
ふと敷地内で、門の方を振り向いてみる。ドーランド家の瓦造りの黒々とした屋根に、その屋根を支えるでんと構えた木柱を目にして、ようやっと無事に戻れた実感が湧いてきた。疲れた…本当に。
腹の虫もいい加減鳴りだして来ているけれども、まずはそれより熱い湯に浸かってゆっくりしたい。
* ** ** ** *** *** *** ***
---カポーン。と気持ちの良い甲高い音が大浴場に響き渡る。
脱衣所で衣類を纏めて洗濯籠に突っ込んでから、浴場内に入る。
朝一番で、まだ誰も浴場を使用していない為、浴場内の床が濡れていない。余り滑る心配はしなくても良さそうだが、それでもいつもの習慣で足元に気を付けてゆっくりと進んで行く。
掛け湯を一度、二度、三度。
それから、鏡面の前に座り込んで、身体を洗いはじめる。
身体を洗いながら、身体の負傷個所… 特に右手、右腕を何となく見つめてみる。
あれだけボロボロに、いや、ボロボロどころがズタズタに、もはや元が腕であったと認識出来ないくらいに負傷していた腕も、いまやすっかり元通りに修復されていた。今更だが、治癒魔法の万能さを改めて実感する。
決して急ぐことなく、ゆっくりと身体を洗う単純作業で、身体と精神をいつもの日常に回帰させていく。疲労や痛苦や、その他の雑多な感情の諸々が、泡立つ石鹸と共に洗い流されていく気がする。
一通り身体と頭髪を洗ってから、ゆっくりと湯に浸かる。
微かに檜木が香り、心の底からリラックス出来、心が解きほぐされていくのを感じる。
檜木風呂は両手両足を広げきってもなお、余りに余った悠々としたスペースがある。
ドーランド家の男性使用人数十人、全員で入ってもなおスペースが余るというのだから、我が家のことながらつくづく馬鹿げた大きさだと嘆息するしかない。
これだけ広い風呂に一番風呂で且つ朝風呂を堪能出来るのは贅沢だが、一方で少し寂しい気もする。
新人使用人の誰かでも誘えば良かった。……最もこんな朝早くから風呂に付き合わせるのもまたどうかとも思うのだが。
湯に浮かぶのは何十もの柚子に蜜柑。
ぷかぷかと果物が波に揺られて、攫われているのを見続けていると、何だかただの果物にも愛着が湧いてくるようで尚の事リラックス出来る。
ゆったりと湯船に全身浸かり、体内からじっくりと身体を温めるように心がける。
浴場の一面の壁は、全面がガラス張り。擦りガラスでも無く透明度の高いガラスで、はっきり屋外を見渡せ、また屋外から見渡されるロケーションの為、初めて家に来た使用人が驚くのは我が家の毎度の光景だ。最も我が家の周囲は黒色の木材で組まれた壁で囲まれているから、別に盗撮の被害を受けるようなことも無いのだが。
浴場の窓の外を見ると、松の木に桜の木。桜はようやく咲き始めの時期になり、ちらちらと花びらが舞っているのを見ることが出来る。それから木々の間には生垣。生垣には所々に赤、黄色、紫にピンクの花々が植えられており、風呂に入るだけでも、決して視覚を飽きさせないようになっている。
ふと、隣の女風呂の方でちゃぽん…という音が響く。
男風呂と女風呂は、壁一枚を隔てた構造になっている。
その上朝方で、まだ家の内外を静謐な空気が支配している為、些細な物音、波立つ音さえも耳が捉えているようだ。
「伊織さん?」
自分の音が浴場内で反響して、自分の発した声でありながらやけに耳朶に残っている。
「うん…。えぇ。そうですよ。若。…はふぅ。」
声の調子は思ったよりもはっきりしていて、少しは復調しているようだ。
「やっと帰ってきたって感じだけど、伊織さんはどう?」
「まさしくそれって感じです。…ここのお風呂、いいですよね。雰囲気もいいし、何より檜木風呂ってのが最高ですよ。」
「そうなんだ。俺はあんまり他の風呂のことを知らないから、良く分からないけれど。」
「うーん、何だかここってつくづく贅沢ですよねえ。私の故郷でも、こんな風呂に入れる人達なんてあんまりいませんでしたよ。」
「ふーん。」
ふと、伊織さんが男風呂側の壁際にじゃぶじゃぶと向かってくる音が聞こえる。
俺も、何の気なしに壁の方に向かう。
或いは、壁越しにお互いの囁き声が聞こえるような距離。
「若。」
「…うん。」
「御無礼を承知で、云わせて頂きますが…」
「うん。何となくそんな気がしてたんだ。」
「私、怒っていますよ。」
「うん。…やっぱり?」
「当然ですよ!…当然です。敢えて声を荒げたくはありませんが、これだけははっきり伝えさせて頂きます。」
「うん。聞かせて。」
「配下よりも先に、死に急ぐ当主が何処にいるというのですか。若様は…マージ様はもう少し我が身を労わる事を覚えないといけません。」
「あぁ…、やっぱりか。別に死に急いでいる訳じゃ無いさ。」
「ではどうして…」
「あの時は…あの時は、あれが最善だと思ったから。…伊織さんはあの時、動けない状態だったし…伊織さんには、死んで欲しく無かったから。」
「それは…歓喜の念に堪えませんが… でもそれは私も同じですよ。私だって、若様の後に死ぬだなんて、耐えられませんよ…。」
「何だかこう云いあっていると、どっちが先に死ぬか競争しているみたいだ。」
「茶化さないで下さい! まったく…。もうこんな事は金輪際、許しませんし、させませんし、やらせるつもりは断じてありませんからね。」
「うん…。分かった。分かったよ。」
「本当ですかねぇ。私の故郷では、考えられない事ですよ…」
「伊織さんの故郷……」
「私の…私の故郷では、当主、或いは城主、ですかね。あくまで城主は命令を下す立場で、シノビはその密命を受けて、使命を果たす。そういうものなのですよ。」
「そういうものなのか。」
「そういうものです。城主の為に、身命を賭して、全てを尽くして、命を捧げて、必ずや使命を果たす。例え拷問に掛けられようとも、敵に捕らえられて、恥辱の限りを受けようとも。他のシノビに指名を継ぎ渡して、ただ城主の為に尽くす。それが一流のシノビというものです。」
「ふーん。でもまぁ、よそはよそ、うちはうちだ。伊織さんだけ戦わせる事はしないよ。」
「…まあ、それがドーランド家の、…若の特色でもあり、美点でもあるというのは私も分かりますがね…」
壁越しの会話に、一応の決着はついたとみてよいのだろうか。
気づけば結構長い間湯に浸かっていたようで、少しのぼせているようだ。
「もう俺は上がるよ。伊織さんは…」
「私は、もう少し入らせて頂きます。朝餉もご一緒したいので、先に食べ始めないで下さいね。」
「すっかり腹減ってるって云うのに… 結構図々しいな。」
「えへへ。」
「褒めちゃいないってのに。でも、俺も伊織さんと食べたいから、湯冷まししながら待ってるよ。ゆっくり浸かってなよ。」
「ええ、そうさせて頂きます。…では後ほど。」
さばっ、と音を立てて立ち上がる。
やはり滑らないように足元に注意しながら、脱衣所の方に向かう。
さーて、今日の朝飯はなんだろうな、と。
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マージが浴場から出た後も、尚も伊織は湯を楽しむ。
湯の中で、自身の身体をゆっくり、ゆっくりと撫でつけながら。
「昨日はなかなか悪く無かったですけれど…」
表情には微笑。心底、今の自分の状況を楽しむように。
「でも、まだまだ。あんな草原じゃ、あんなケモノ相手じゃ…。まだまだですよ、伊織。まだまだ。もっと或る筈なのですから。もっともっと…。まだまだ沢山、有る筈。まだまだ探し続けなきゃ、ね。ふふっ。」