1.『無明辻斬』
帰りの路は、驚く程にゆったりとした行路だった。
モンスターの出現も無く、悪漢に襲われる事も無く、ゆったりとした春風の中を伊織さんと進んで行く。今は、馬車の手綱を俺が握り、伊織さんはその隣で穏やかな顔をして寝息を立てている。昨日の暗殺者としての、シノビとしての表情を、今の伊織さんから感じ取る事は無い。
大人びた顔に反して、今は純粋無垢な子供の様な雰囲気を身に纏っている。俺は俺で、昨夜の廃倉庫及び草原という死域からの離脱を心から安堵していて、手綱による間接的な馬との交流を心から楽しむ余裕があった。また、数時間前に伊織さんと共有した情報について、考えを纏める時間もあった。
あの後-- 伊織さんと一しきり笑いあった後、シアンの事を聞きたくて聞きたくてしょうがなかったが、余りにも伊織さんとの雰囲気が良かった為に、中々言い出せなかった。と、いうか伊織さんの方が”まだ云いださないで”オーラを発露していた為に、中々言い出せなかった。(まぁそういうオーラを出している時点で、シアンの方も大過なく乗り切り、且つ自分の所在と今後の用事を伊織さんの方に伝えていたのは何となく理解出来たが。それくらいの信頼関係はとっくの昔に築いている、つもり。たぶん。おそらく。)
結局、シアンは?、 の一言を切り出せたのは、馬車に乗って1時間どころか2時間はたっぷり経ってからの事だった。その一言によって伊織さんは少し不満そうな表情(…嫉妬?まさか。)を覗かせていたが、それでも話してくれた。
昨夜の顛末としては、俺が宙空に吹き飛ばされ、敢え無く落下死する前に、シアンが間一髪助けてくれたという事。(…どうやってかは、はっきりとは不明。伊織さんの容量を得ない話に依ると、何でもうねる炎が落下する俺に取りついて、それで落下の勢いが止まってくれたとの事。シアンの魔法である事は分かるが、どんな魔法かは不明との事だ。)俺も伊織さんも、治癒魔法が充分間に合う状態で、シアンの教え子が治癒してくれたと云う事。また、俺が頻りに気にしていた白狼は、結局シアンが燃やし尽くしてしまったという事。伊織さんは、白狼の部位でも牙は特に高値で取引されている為、勿体無い。と悔しそうに、今にも地団太を踏みたがりそうな表情で云っていたが、俺はそれでいいと思う。もうあいつの亡骸は、変に弄る事も弄ぶ事も無く、供養するべきだと云う感傷と同情があったから。
シアンは、ちょっと帝都に行く必要があるという事。麻薬の取引は、少なくとも昨夜の取引に関しては、取り敢えずシアンが付き止めた1つの麻薬組織の首魁の方を、シアンがきちんととっ捕まえて今現在連行している事。(これを話す時に、伊織さんが少し疑問を表情に浮かべていたが、何なんだろう?)
しかし、取引相手のもう片方に関しては、情報を朧にしか入手しておらず、また昨夜の廃倉庫に結局現れなかった為に、現在なおも調査中であった事。それで、調査を進める為に、今しばらく帝都の方へ単独へ調査する為に向かう事。
今しばらくは俺の元にも戻れない為、心細くならないように自分の新しいミニサイズ人形を伊織さんに預けているから、寂しい夜はこれを抱いて眠る事。(要らない。この情報も、人形も。しかもミニサイズとは云っても、多分それはシアンの主観に基づくものなので、馬車に残されていたのは何だかんだ云って1mを超すシアン人形。頗る取り扱いに困るし、これはエリアスの部屋行きだ。むしろシアン人形に取り囲まれて、シアン人形を抱いて眠っているのはエリアスの方だったりする。)
最後に…… その内、俺ん家の方に手紙を出すから、その時は便宜を図って欲しい事。身体に気を付けつつ、でも毎日の鍛錬を決して怠らないと約束する事。
正直、いつも通りと云えばいつも通りの内容だ。シアンは余り自分の事を話したがらない。それは、自分のやっている仕事に関してもそうだし、自分の過去に関してもだ。人材の斡旋という仕事をしている割には、友人関係の事もいつもぼかして話している様な気がする。(最も、それで怪しい、あるいは十全では無い人材を紹介された事は、そういった者が我が家に来た事は一度も無い。シアンの人を判断する眼は、本職のギルド職員でも、喉から手が出る程に欲しい才能の様だ。)
まあ、いい。シアンの事は、シアンの事。それよりもまずは、俺の目線での麻薬組織への対応だ。
今現在、王都には麻薬が蔓延り出している。或いは、極めて不本意な言い方だが、流行りだしている、と言い換えてもいいかもしれない。そのような雰囲気が王都の裏町、スラムに広がり始めたのは2か月程前。あの裏町の雰囲気も、麻薬をキメてしまった人間の、麻薬の色に染まってしまい、もう戻れなくなってしまった表情の事も正直思い出したい類のものでは無い。
あの現実を見ているのか見ていないのか、どこに視線を合わせているのか、或いは、そもそもその双眸に何か意味のある像を映しているのかさえ第三者の目線からは、全く判断の仕様が無い表情。
蕩けて蕩けて蕩けきって、下半身から何の液体なのか考えたくも無い、濁った何かを垂れ流し続ける、真っ当を止めてしまった、真っ当に戻り切る事が許されない人間たち。
二の腕には、生涯消える事の無い、ブツブツ、ブツブツ、ブツブツブツブツ、ブツブツブツブツブツブツブツブツと刻まれた、小さな穴の集合体。蓮の花托を思わせる紫の注射痕。痛々しくて惨たらしくてとてもじゃないが、見ていられなかった。直視する事も辛かった。
それらの人間が、何人も何人も何人も何人も、徒党を組んでいるのだ。肩を寄せ合って、それでも暮らしているのだ。溶け切り溶け切り、二度と戻らない溶け切った薄気味悪い半笑いを浮かべて、もう表情にそれ以外を浮かべる事を許されず、それでも生きなくてはならないのだ。
その光景を見て、見てしまって、現状ドーランド家で最も治癒魔法に適性を持つ、エリアスに、一人一人に治癒魔法を掛けて貰ったが、それでも完全な治癒とはならなかった。一時、麻薬を体内から除去する事が敵っても、それで全て解決となる程に甘くも無かった。それでも流れ込んでくるのだ。それでも悪意の流入が止まら無いのだ。それでもなお王都に悪意を垂れ流したがる悪魔が、畜生がこの世界の裏に隠れ潜んでいるのだ。このまま放置していれば、裏町に留まらず、更に被害が拡大していく可能性がある。
あの集団を、あの光景を、あの悪夢を見た時、決めた。決意した。
殺す。絶対に殺す。殺し尽くしてやる。
捕まえる?甘い。投獄する?甘い。
改心させる?敵わない事を祈る程暇じゃない。
会話によって妥協点を探す?畜生と語り合う、歓談する口など持ち合わせてはいない。
何が何でも、麻薬組織を、組織の総元締めを、更にはその裏に潜む悪意の元を突き止め、殺し、この世界から存在ごと放逐してやると。何が何でも、この世界を清浄な流れに戻すのだと。
しかし、結果は、昨夜、あっさりと死にかけてしまった。この決心が、決意が敵う事無く、余りに、余りにもあっさりと終わってしまう所だった。
まだまだ弱い。まだまだ足りない。もっと、もっと、今以上の鍛錬が必要となる。時間は待ってはくれない。俺を置き去りにする事しかしない。時間に、流れに、勢いに置いて行かれたく無ければ、置き去りにされたくなければ、俺の方から追いつくしか無い。必死に追い求めるしか無い。
麻薬の流入だけが、王都の問題では無いのだ。
近頃、王都には隔離的連続惨殺殺人事件、通称『無明辻斬』が発生している。
これは、その事件の特徴から、事件を追うもの達の間で呼称されてる呼び名だ。
曰く、今の王都で夜間外出する時に、光を切らしてはならない。夜間は、ランタンを、ランプを、蝋燭を、絶対に持ち合わせていなくてはならない。
曰く、今の王都で夜間外出する時に、『火』魔法の使い手と常にいなくてはならない。『火』魔法の使い手と、手を繋いで、決して離れてはならない。勝手な行動をして離れてはならない。
曰く、今の王都では、月の出ていない夜に外に出てはならない。雲が厚い夜は外に出てはならない。月の光が雲間に隠れ、月が見えなくなった時は、その時はすぐに明かりを用意しなくてはならない。
そうで無ければ、そうで無くては、この決まりを守れない者は。
翌日、切り刻まれて発見されるのだと。右腕を、左腕を、右足を、左足を、腸脛を、鎖骨を、耳鼻を、肘を、膝を、顎部を、頭部を。
身体のありとあらゆる箇所を切って、切って、切り刻まれて、死体となって発見される。
身体の鋭角的な箇所を、関節部を、あらゆるパーツを、只管に切り刻まれ、吹き飛ばされ、世にも惨たらしい、手無し足無し頭部無しの、『箱』型の死体となって発見されるのだと。
犯行は、月の無い晩に特に多い。雲が厚い、雨模様が確認されそうな、或いは雨が強烈に振り、雨音によってあらゆる物音が殺し尽くされる晩に特に多い。
人々は、夜間、月が照らしてくれる事に、雨が降らないでいてくれる事に、たったそれだけの事に感謝しながら、それでもなお、それでもなおも、家の中に居ながらも。それでも市井には、未だに本当の意味での安心が広まっている訳では無い。本当の意味での安眠が行われている訳では無い。
この案件も、一刻も早く解決しなければならない。一刻も早く、『無明辻斬』を捕まえ、ケリをつけなければならない。この案件に関しては、俺の家・・・治癒に特に関連の深い、『土』の魔法使いが集うドーランド家は余り関わっていない。俺は、俺たちは、兎に角麻薬組織の撲滅に力を注がなくてはならない。
『火』の魔法使いを百数十人以上擁する、極めて殲滅力に特化した家系として有名なロバーランド家は、現在夜間の歩哨として、また王都の暗闇を可能な限り無くす為に、警戒態勢に充てられている。彼ら彼女らが夜間に王都の暗闇を照らしてくれるおかげで、ある程度の安心が市井の間に蔓延して、多少なりとも夜間と云う時間に対しての安堵が広まりつつある。実際に、ロバーランド家が動き出した事で、『無明辻斬』の動きが抑制され始めているのを皆が感じている。感謝の声も連日絶えず、求心力、という意味ではロバーランド家はこれ以上無く高い場所に押し上げられ、火の神様のように、市井に崇め奉られている。
最も、ロバーランド家の彼ら彼女らは、大分不服そうだったが。直接『無明辻斬』に相対、及び戦闘出来る訳では無く、専守防衛を厳とされているからだ。ロバーランド家は、好戦的な輩が多く、またそういった気性の者たちが集まる事で有名だ。現在最も王都で有名な殺し屋、兼戦闘屋である『無明辻斬』と戦いたがるものが、ロバーランド家には存外多い。
よって、この案件には、『風』の魔法使いが集うフォールランド家、及び『水』の魔法使いが集うミザーランド家の合同捜査という体で調査が進められている。だがしかし、連日の調査の甲斐無く、未だに『無明辻斬』の尻尾すら捕まえられてはいないというのが実情だ。
麻薬組織… 『無明辻斬』。
何とかしなければ… 何とか。
逸る気持ちを抑えられずに、それでも今の自分に出来る事が、余りにも、余りにも乏しすぎる事に脳内でほんの少しだけ落胆し、しかし落ち込んでいる暇など全く無いのだと叱咤激励し。
王都への、帰路を往く。
気のせいか、爽やかな風を感じている肌が粟立ち、己の内なる感覚が次なる苦難を知らせている様な気がした。
第2章、開始です。