羅刹と神と罪悪論
今は昔。
青白い月が照らす、葉を無くし、剥き出しの枝を晒す骸骨のような木々が周囲に立ち並ぶ山道で、一匹の少女が、人の屍を喰らっていた。
無造作に伸びた真っ白い髪を垂らす、檜皮色の着物を着た、十代半ばほどに見える、色白の少女。
雑草と枯れ葉で覆われた地面に座り込む彼女の膝元には、生々しい恐怖を顔面に刻んだ男の魂の抜けた体が、丸太みたいに転がっている。
彼女は一心不乱といった様子で、死体に両手を突っ込んでは引き摺り出し、手のひらに握った赤黒い肉塊と臓物を、まるで饅頭でも食べるようにほおばって、ぼりぼりと貪り食っていた。
不意に、何者かが近づいてくる気配を感じ取るまでは。
晩餐を邪魔された少女が顔を顰めて後ろを見やると、そこには顔面蒼白となった一人の少年が、ぶるぶる震える足で立ち尽くしたまま、こちらを見ている姿があった。
年齢はようやく十を数えるほどであろうか。
麻の木綿を着ていて、腰には小さな太刀の鞘が、吊るされてぶら下がっている。
少女は彼の身なりを上から下までじろじろと観察したのち、ふと小振りの刀に視線を止め、嘲るようににやりと口を歪ませた。
「――や、やめ、ろよ」
少年は今にも膝から崩れ落ちそうなほど恐怖で慄きながらも、苦しそうに口をぱくぱくさせて、頼りない声で呟いた。
「――ほぅ、小僧か。それも随分と若い」
少女はそう言って、さもおかしそうに大きく口を開けて笑う。
そしてゆっくりと立ち上がると、真っ青になった少年に向かって言い放った。
「おまえ馬鹿だろ。それもとびっきりの、極めつけの馬鹿だ」
腰をかがめて物言わぬ男の死体の首を掴み、尋常ならざる怪力で、ぶちぶちと音を立てて引っこ抜き、彼の足元に投げつける。
少年の数歩手前の地面にぐしゃりとぶつかる生首。鞠ほどの大きさのそれは、周囲にのっぺりとした赤黒い液体を飛び散らせた。
「ヒッ」と掠れた悲鳴を上げる少年に対し、少女はけたけたと笑い続けながら、少年の方へゆっくり、ゆっくりと歩いていく。
「私がおまえを知る前に、おまえは私の存在に気づいていた……なのになぜ逃げない?怖くて動けないのか?足がすくんじまったのか?それとも……その爪楊枝みてぇなちんけな刀で、私を殺せるとでも思ってんのかぁ?」
口をがぱりと開けて、少女は凄惨な笑みを見せて詰め寄る。
臆病な兎の如く全身を震わせる目の前の少年。
気丈にも涙は見せなかったが、その表情は彼女への恐怖で小刻みにひきつっていた。
やがて心の奥底からあふれ出る、身の縮む想いに耐え切れなくなったのか、少年は痙攣する右手を腰にぶら下げた刀の方に伸ばし、柄を握って引き抜こうとする。
鞘の中に納められた刃が、かちゃかちゃと金属音を鳴らす。
震える手のせいで上手く抜けない刀と悪戦苦闘している彼の行動を、少女はニタニタと嘲笑いながら、両手を着物の袖に突っ込んで眺めていた。
彼女は愉しんでいた。
少年が必死に己の命を守ろうとあがく姿を、歓喜に満ちた心で味わっていた。
今まで殺し喰らってきた人間達がいつも最後に見せる、醜い剥き出しの生存本能。
醜聞を晒して抵抗するその光景を堪能することは、人喰らいの化け物である少女にとって、食事の前の大切な儀式であり、前菜であり、愉悦であった。
赤子から老人まで、百姓から殿上人まで。
全ての人間は自らの死を目前にすると、恥もへったくれもなく惨めにさえずるのだ。
金属が擦れ合う音が響き、ようやく少年の武器が鞘から抜かれ、その刀身を現す。冷え切った夜の暗闇の中で、薄い刃が月明かりを反射して、朧げな光を放つ。
彼はカクカクと笑う膝を叱咤して、両手で刀を前に突き出し、へっぴり腰で構えた。
見るだけで分かる――恐らく刀の鍛錬など一度もしたことがないどころか、柄を握ったのもこれが初めてなのだろう。
とはいえ、扱い手がいくら不慣れだとはいっても武器は武器。彼を舐めすぎて不覚を取り、痛い目に合うのは少女としてもごめんだった。
ゆえに殺す。
溢れんばかりのどす黒い殺気を身に纏い、白い長髪をたなびかせ、化け物は猛禽類の如く獰猛な眼光で、少年を睨みつけて口角を吊り上げる。
枯れ葉で覆われた地面を足裏で強く踏みしめ、血に濡れた白い両腕を限界まで引き絞る。
瞬間、化け物の全身が躍動した。
稲妻が大地を駆ける。
夜の大気を切り裂き、枯れ葉をまき散らしながら大地を蹴り上げ、少年との距離を瞬く間に踏破せしめる。
その敏捷さ、まさしく疾風迅雷。
急速に接近した彼女の両腕が、心臓が位置する彼の左胸に、真っ直ぐ吸い込まれていく。
古より数多の人間の肉体を切り裂き、ことごとく命火を断ってきた真性の怪力が、少年の尊厳と生命を蹂躙せんと、肉食獣の如き狂猛さで襲いかかる。
差は歴然としていた。
無数の屍を積み上げてきた怪異に対し、かたや剣すら振ったことのない非力な少年。
少女は狩人であり、少年は獲物。
刹那のあと、心臓を抉り出された少年が、目を見開いて血飛沫の噴き出る左胸を抑えて倒れ込み、ゆっくりとその人生の終局を迎える様を、化け物は嗤って見物する――本来ならば、その光景が起こり得た未来だったろう。
本来ならば。
「あぁ……やはり貴様は、噂に聞いた通りの化け物だな」
白い手が少年の胸を刺し貫く直前――彼の構えた刀の鋭い刃先が、化け物の胴体を七割ほどかっさばいて血と臓物をぶちまけていた。
「――あ?」
一歩、二歩、よたよたとよろめきながら歩き、ふっと膝から力が抜けて、彼女は力なく地面に崩れ落ちる。
見下ろす眼下、肩から腹部にかけて走った赤黒い線からとめどなく血が溢れだし、腹圧に耐えかねて中身が零れ落ちそうになっている。震える片手でその中身を腹に戻そうとするが、こみ上げてくる血塊に遮られ叶わない。
「全く、か弱い童をなんの躊躇いもなく殺し喰らおうとするとはな。現世にはまだこのような下賤な生き物がいたのか」
溜息をついてそう言いながら、少年は血の海を水音を滴らせて歩き渡る。
彼は苦しげにうずくまる彼女の側にくると、先程とは打って変わって冷徹な目線がこちらを睨む。
「さて、何が起こったか分からないという顔をしているな、化け物よ」
「うぁ……あぅ……」
「おぉなんとも無様で滑稽なことか。畏怖の象徴たる人喰いの化け物が、我のような童に討たれるなんぞ、さぞ屈辱だろう。どうだ?我の怯える演技もなかなかのものだっただろう?」
「な、んで……なんで私が、餓鬼如きに……」
おかしい。この小僧は、何かがおかしい。
私が、化け物である私が、年端もいかぬ少年如きに、こうも容易く打ち倒されるはずがない。
激痛と吐き気を必死にこらえながら、少女は憎々しげな感情を瞳に宿らせて、肺から掠れた声を絞り出す。
「お、まえ、ただの小僧、じゃ、ないな……」
「あぁその通りだ罪深き化け物。我は森羅万象の発現たる八百万の神の一柱――貴様という怪異を退治するために遣わされた、神秘を司る者だ」
少年の顔が、横に裂けていく。
ぎょっとした表情で眺める少女の目の前で、亀裂は徐々に大きくなり――直後、その隙間越しに広がる光景を、少年は彼女にまざまざと見せつけた。
――眼だ。無数の、眼。
眼。眼。眼。眼。眼。眼。眼。眼。眼。眼。
薄暗い闇に包まれた隙間から、何千、何万もの小さな眼球が、少年の体中に広がり、流れ落ち、大地を呑み込んでいく。
風に吹き殴られる枯れ草も、夜空に佇む老木も、きりりと肌を突き刺す夜の冷気すらも、何もかも、何もかも。
豪雨を喰らった河水の如く氾濫する、夥しい数の眼球。身震いするほど禍々しくおぞましいそれは、少女と少年の周囲一帯を、まさしく地獄の一景へと変貌させていく。
瞬間、少女の心臓を震わせたのは、恐怖などという感情ではなかった。
もっと圧倒的な、生物としてーーいや、概念として見上げるほど上位の存在を目前にしたような、筆舌につくしがたい感情。あるいはそれを、人は『畏怖』と呼ぶのかもしれない。
「――化け、もの」
知らずそんな言葉が口からこぼれ出る程度には、その存在はあまりにも理解の範疇を超えていた。
「いいや、違う。化け物は貴様の方だ。いかに貴様が人間に近しい姿をしていて、我が異形の姿をしていようとも――貴様が人間に敵対する化け物であることに変わりはなく、我が人間の代表たる神であることもまた不変の事実だ」
一方、少年の皮を被った神はそう言うと、腰を下ろして少女の傍にしゃがみこむ。
その行動に合わせて、周囲で荒れ狂う眼球が一斉に少女の方に瞳孔を動かす。
路傍に転がる石でも見るかの如く無表情の視線が、蜘蛛の巣状に少女の身体に張り付く。
「知っているか化け物。先程の少年はかつて貴様に喰われた者だ。五指を喰われ、四肢を喰われ、それでもなお止めを刺されずに悶え苦しみ、苦しみ抜いて死んでいった哀れな小僧だ……貴様は覚えてすらいなかったようだがな」
神はそう呟くと、少女の上下するわき腹に手のひらを添えて、まるでいたわるかのように優しく一撫でする。
荒い息を繰り返しながら、彼の取った行動を訝しんだ視線で見やる彼女。
そんな彼女の耳元で、神は一切の慈悲も憐憫も感じられない、無感動な声音で囁いた。
「なぁ教えてくれ、真性の食人鬼。殺戮と嗜食を繰り返し、無数の骸を築き上げてきた悪行を――唯一の理法を外れ、外道の法理をもって生き長らえてきた己の大罪を、貴様はほんの僅かでも後悔の念を抱いているか?」
刹那、少女は背筋の寒くなるような、凄まじい気配を感じた。
不気味な戦慄が稲妻となって全身を貫く。不安が煽られて炎の如く広がる。
心の中で荒れ狂う激しい怖れ。胸元で暴れる心臓の鼓動。
それは『死の恐怖』だった。
今まで何百、何千回と見てきたはずの感情。自分が殺してきた人間達が、いつも死ぬ直前に見せてくる、剥き出しの感情。
ある者は滂沱の涙と共に、ある者は必死の命乞いと共に、ある者は絶望に満ちた表情と共に。
己の人生の終焉を悟った人間は皆、目前に迫る『死』という存在にただひたすらに打ちのめされ、震えて怯えるのだ。
その感情を、今度は他ならぬ少女自身が感じている。
許しを乞いたい衝動に駆られた。
地面にひれ伏し、涙を流しながら、『命だけは助けてください』と縋りつきたくなった。
今まで自分が歩んできた血塗れの道に背を向けて、恥も誇りもかなぐり捨てて、懺悔の言葉を並べ立てたくなった。
耐えても耐えても身震いは止まらず、激しい動悸も一向に収まる気配を見せない。斬られた胴体に走る赤黒い線からは、いまだに血が流れ出している。
「――化け物。答えよ」
自分の生殺与奪を握る神から襲いかかる、全身が押し潰されそうなまでの圧迫感。
悪夢と見紛うほどの物量と勢いで増殖を繰り返す眼球。周囲に濁流の如く広がっていくその瞳孔一つ一つが、倒れ伏した少女をあらゆる角度から睨みつける。
彼女の心を漆黒の恐怖が蝕む。刻一刻と近づいてくる死の足音を本能で感じ、不安が爆発的に膨れ上がる。
だがそれでも、
「――莫ぁ迦」
化け物は、嗤った。
喉元までせり上がる負の感情をおくびにも出さず、顔を歪めて神の問いかけを嘲笑った。
「後悔ぃ?何を腑抜けたことを。私は人喰い妖怪だぞ?闘争と暴力を呼吸するかの如く行う化け物だ。人殺しなど私からすれば、神が罰した暇潰しにすぎん。己の大罪など、微塵も知ったこっちゃない」
口の端を歪めて不敵な笑みを浮かべ、歯を剥き出すようにして化け物は吠える。
「舐めるなよ神様ぁ……後悔などというふざけた感情で!私の人生を私が全否定するような真似が出来る訳ないだろうが!己の唯一の味方である自分自身が!!己を裏切るような真似をする訳がないだろうが!!!」
双眸を憎悪で燃え上がらせ、少女はこみ上げる恐怖を押し殺し、ありったけの激情を神に対して叩きつけた。
言い切り、肩を揺らし、目の前の神を見据える。
「――そうか」
無数の眼がざわめくように揺れる。数々の瞳がくるくると回っている。
決死の覚悟を持って言い渡された彼女の言葉を受け取り、咀嚼し、飲み込む神。
彼は何事かを考え込むように黙りこくり、しばしの沈黙を保ち、そして、
「なら、せめて死で償え」
直後、少女のわき腹に、両手で太刀を深々と捻じ込んだ。
「――――――ッッッ!!!」
声も凍るほどの絶叫。
彼女は腸に突き刺さる刀身を握りしめ、刃に擦れた指から血が出るのも構わずに、懸命にもがいて引き抜こうとする。
視界が真っ赤に染まり、下腹部に熱い溶岩が流れ込んだかのような、激しい熱と痛みが溢れ出す。
神は刺す。刺してまた刺す。刺して刺して刺して、繰り返し刺し続ける。
何度も何度も皮膚と肋骨を通り抜けて内蔵をいたぶり、切り裂く刃先に対し、少女は苦痛に喘ぐことしか出来ない。丘に上がった魚のように、惨めにのたうち回ることしか出来ない。
血と涙が混ざり合い、叫び声を上げる口からはとめどなく吐血を繰り返し、自らの肉体が刻まれていく生々しい音が鼓膜を叩く。
生命の源たる鮮血が、噴水の如く少女の身体から噴き出る。周囲の草木が有り余るほどの血を被り、その身を真紅に染め上げる。
脳内は全て痛覚で支配され、思考がぐちゃぐちゃに歪む。彼女の全身から凄まじい速度で血と熱が引いていく。
生きているのが不思議な状態。生きているのが地獄の状態。
次第に四肢の筋肉が弛緩し、腹部を刺し貫かれる感覚が薄らいでいく。視界が白濁としていき、意識が遠い闇に吸い込まれていく。
触覚が消え失せ、視覚も消え失せ、思考も消え失せ、あれだけ騒々しかった痛覚も消え失せて。
そして全てが真っ黒に染まり、右も左も上も下も、自分の外も中も、何もかもが分からなくなり、
――あぁ、死んだ。
そんな感慨を最後に、少女の意識はぷつりと途絶えた。
*
夢を見ていた。
化け物がまだ人間だった頃の夢。
数十人の村人達が少女の母親を焼き殺していた。炎だ。火炙りだ。業火が人体を嬲りに嬲っている。
病的なまでに異常な熱気に支配された彼らは、取りつかれたかのように、一つの言葉を連呼する。
『殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!!』
燃え盛る薪の周りを、彼らは垣根のように囲んで、興奮して喚き叫ぶ。
空気が震動するほどの怒号と気勢が渦巻く中心で、突き立つ火柱は火の粉を弾きながら、紅蓮の舌で母親の身体を食らう。
猛火が轟々と音を立て、熱を吹く。肉を焼く。命を奪う。
やがて、灼熱の橙色の中心で、黒い柱のように見えるものが遂に崩れ去った。
先程まで辺り一帯に響いていた耳をつんざくほどの絶叫は、いまやぱたりと途絶え、ただ薪が爆ぜる音がするばかり。
誰の目にも明らかだった。少女の母親は死んだ。死んだのだ。
群衆が悦びの声を上げて、落ち窪んだ目をギラつかせ、足を激しく踏み鳴らす。振り乱される手足。骸の無惨を楽しむその喧騒。
無数の意識が一つの歓喜を共有し、巨大な生き物のように蠢き、うねり、のたうち回る。
その渦中のさなか、少女は血の気が引いた顔で、唯一の肉親が焼死体となっていく様を、呆然と眺めていた。
『どうして、どうしてこんなことをする……?』
少女は唇をわななかせ、悲痛な声でぽつりと呟いた。
泣きはらした涙腺の痕が両頬に色濃く残り、疲れ切ってやつれた顔は幽鬼のように青白い。涙の枯れた瞳はどこか虚ろげで、深い悲しみを湛えている。
『それはな、おぬしの家族がバケモノだからだ』
耳元でしわがれた声が囁く。同時に何者かが、自分の肩に手を置く感触が伝わってくる。
ぎょっとして振り返ると、そこには一人の老人がにやつきながら佇んでいた。
妙な老人だった。
周囲の熱気に染まらず理性を保ち、かといって少女の母親の死を悲しむそぶりも見せない。
ただ下卑た笑いを浮かべ、不揃いな歯をかちかち鳴らしながら、しょぼついた瞳で少女をじぃっと観察している。
『きれいな髪じゃ……まるで雪のように美しく、穢れなき白さ。じゃが、こやつらはおぬしとおぬしの母の髪を――普通とは異なる姿を、不気味がり、災いの象徴と見なし忌み嫌う』
か細く萎びた手が頭に触れ、彼女の白い長髪を指でゆったりとすいていく。
『死に至る疫病の蔓延、日照り続きの大凶作、度重なる重税……皆、限界が近かったんじゃろうなぁ。おまえの母親は、その爆発した感情のはけ口に利用されたんじゃよ』
『……そんな、そんなことって』
老人から伝えられる内容。そのあまりの理不尽さに、少女は絶句する。
では自分の母親は、人々の憂さ晴らしのために、無実の罪を着せられて焼き殺されたというのか。
ただ彼らの欲望を満たすための玩具として、このような惨たらしい目に合わせられたというのか。
狂っている。
周囲と少し異なる要素を持つだけで、その者を迫害し社会的弱者に貶めるだけでは飽き足らず、ついには命すらも己の身勝手な理由ですり潰す。
醜い。なんと醜いことか。
『あぁ……表情に出ているぞ、おぬし。人間をたまらなく嫌悪しているな?だが、だがな――』
彼は吐息がかかるほど顔を近付け、はっきりと告げる。
『残念だが、これが現実。人の心はかくも弱く、醜悪で、そして罪深いものなのだよ』
老人の言葉が鼓膜を揺らす。放心状態となっていた少女の心の中で、その言葉はこだまとなって反響する。
――その直後、
『おい、ここにもいるぞ!バケモノの娘だ!!』
近くで上がる若い男の金切り声。
同時に幾方向から手が伸びてきて、少女の髪を、着物を、身体をひっつかむ。
少女は何とか振りほどこうと懸命にもがくが、抵抗むなしく大衆の輪の中心に押し出された。
憎しみ、侮蔑、嫌厭、好奇――様々な感情が入り交じった視線が突き刺さってくるのを、肌でひりひりと感じる。無論その中には、一欠片の同情も哀れみもない。
『殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!』
周囲に響き渡る大合唱。
もはや叫喚というより咆哮に近いその声と、激しく燃え上がる炎が共鳴し、大衆の熱狂はいよいよ最高潮に達する。
――気持ち悪い。
誰もが少女の死を望んでいる。身を焼かれ悶え苦しむ悲鳴を聞き、人肉が焼け焦げる臭いを堪能し、燃やされて朽ちゆく命の喪失を鑑賞することを望んでいる。
――気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
一人の若者が人混みをかき分けて近づいてくる。先程少女を発見して群衆に知らせ、この状況を作り上げた元凶だ。
彼は病的なまでの興奮にその身をぶるぶる震わせ、背後から押し寄せる狂騒の坩堝につられて、業火の傍に佇む彼女の元に歩いてくる。
不気味な狂光を帯びた瞳が、少女の華奢な身体を舐めつけるように見回す。
欲望をたぎらせた表情。目の前の少女がいったいどんな断末魔を上げて焼け死ぬのか、知りたくてたまらないといった表情。
嫌いだ。嫌いで嫌いでたまらない。
人間とはかくも醜くなれるのか。かくも愚かになれるのか。
かくも、かくも、かくも――罪深いものなのか。
これほど下劣な生き物として惨めに死ぬくらいなら、いっそ、いっそのこと――
『『『殺せ!!!』』』
群衆が絶叫する。喉を枯らし、汗と唾をまき散らす。
喜悦に顔を歪めた若者が、彼女を業火の中へ突き飛ばさんと手を伸ばしていく。
溢れる憎悪と狂喜の感情が、怒涛の如く少女に襲いかかり、その命を悪魔の炎にくべようとする。
――いっそのこと、本物の化け物になってしまいたい。
ぶちりと。
少女の中で何かが切れた。
今まで精神の根幹となって自身を支えていた、人間の倫理観や道徳性。
それらが全て大きな音を立てて、真っ二つに切れて、裂けて、崩れていく。
絶望が怒りへ、怒りが殺意へ変換される。
その衝動に身を任せて、少女は若者の手をかいくぐり――直後、彼の胸に片手を深々とぶっ刺した。
指元を通して伝わってくる、肌を切り裂き、肋骨を砕き、心の臓腑を抉り出す感触。生暖かい飛沫が、少女の頬に返り血となって飛び散る。
若者は最初、顔に疑問の色を浮かべ、自分の胴体から血が噴き出る様を見下ろし、それから信じられないといった風に瞠目して歯を食いしばる。
みるみるうちに血の気が引いて青白くなった彼の顔に、いくつもの感情が目まぐるしく表れては消えていく。
そして数秒後、少女が突き刺した手を引っこ抜くと同時に、
『――バケ、モノが』
と憎々しげに呟いて、膝をつき、ゆっくり、ゆっくりと倒れ伏した。
周囲を包み込む不気味な静寂。
あれほど熱気を昂らせて喚き叫んでいた観衆が、皆一様に口をつぐむ。顔を驚愕の色に染めて、地面に転がる死骸の傍に立ちつくす存在を凝視する。
数多の視線を一身に浴びる彼女。返り血にまみれた形相を凄惨な笑みに歪め、周囲の観衆を刺し貫くような眼光で睨み、
少女は、嗤った。
『――殺してやる、罪深き人間ども』
華奢な体躯から放たれる、悪霊に取りつかれたかのような凄まじい殺気。可視化されそうなほど濃密なその気迫は、観衆の心に残る僅かな興奮の余韻をも消し飛ばし、背筋を凍りつかせる。
『この私が殺してやる。微塵の躊躇もなく、一片の迷いもなく殺してやる』
その瞬間、観衆の誰もが己の死を理解した。
紙切れのように引き裂かれ、突き破られ、蹂躙される己の運命。嬲りに嬲られ、尊厳も倫理も、人間としての誇りも、何もかもをぐちゃぐちゃに踏みにじられて殺されることを理解した。
周囲を爆風のように包み込む少女の圧倒的存在感を目の当たりにして、人間達は戦慄し、畏れて、いまさら湧き上がってくる深い後悔の念に打ち震えた。
『化け物である私が殺してやる』
己の醜悪な感情に身を任せて、思いもよらない災厄を引き起こしてしまったことを。自分達の蛮行によって、眼前に佇む少女の烈火の如き怒りを買ってしまったことを。
今まで『バケモノ』と嘲られ、罵られてきた少女を、他ならぬ自分達が――人間が、彼女を真性の化け物へ変えてしまったことを。
*
「――っがあああああ!!!」
電流の如く脳を駆け巡る過去の記憶が、一度死んだはずの意識を蘇生し、無理やりたたき起こす。血が体内を循環し始め、脳が指揮能力を取り戻し、続いて神経が復活する。身体のあらゆる個所から、怒涛の勢いで情報が流れ込んでくる。
豪雨が耳元で鳴り響いているような耳鳴り。赤と白に交互に点滅を繰り返す視界。鼻孔をくすぐる濃厚な血の香り。そして腹に溜まる灼熱の痛み。
世界が不愉快なほど歪んで見える。貧血による目眩が襲う。曖昧な平衡感覚のせいで、地面がぐるぐる回っているかのような揺れを味わい、吐き気をもよおす。
まさしく半死半生。あの世とこの世の境目。血反吐を吐きながら、糸のようにかぼそい生命を繋いでいる状態。
「――終わりだ」
鼓膜を揺らす無慈悲な宣告。
不鮮明な視界に神の姿が映る。自分の上にまたがり、刀を頭上に構えた格好だ。
無数の眼球を洪水の如く垂れ流す超常の存在は、ぞっとするような底冷えのする視線でこちらを睨みつけながら、彼女の命火を断たんと太刀を振り下ろす。
死の気配を悟った第六感により、脳内で鳴らされる警告。致命傷。決定打。確実に息の根を止められる必殺の一撃が、自身に牙を剥いて襲い掛かってくるのを察知する。
研ぎ澄まされる神経。引き延ばされる時間。体感速度が極限まで遅くなり、眼に映るもの全てがスローモーションになる。
月明かりを反射して銀色に煌めく刃先が、少女の喉笛に吸い込まれていく。動脈を、気道を、発声器官を貫き、彼女の体を地面に縫い付けんとばかりに迫る。
ほんの僅かに首を逸らす。同時にズタズタに切り刻まれた腹筋を叱咤し、何とかして半身を起こそうともがく。
迫りくる刃が、首の肌を撫で斬りにしながら、風を切る音を立てて――すぐ真横を通過していき、地面に深々と突き刺さった。
自分の刀の一振りが紙一重で避けられたことを悟り、一瞬意表を突かれ、驚きの感情で数多の眼を大きく見開く神。
その太刀と入れ替わりに、少女の両手が伸びていく。前のめりの姿勢で少女に刀を突き出す神の身体を、彼女の手のひらが掴み、固く握りしめる。
刹那の隙を見逃さず、少女は全身の筋肉を伸縮させつつ、両腕に力を込めて――直後、がばりと半身を跳ね起こした。
「――死んで、たまるか」
強い憎悪と執念を滾らせた瞳が、目の前の神を刺し貫くような視線で睨み据える。血を流し、臓腑が飛び出た身体から滲み出るのは、猛毒の如き恐怖と威圧をともなったどす黒い殺気。
暴虐と殺戮の限りを尽くし、屍血惨河の山を創り上げてきた化け物が放つ、剥き出しの闘争本能だ。
その瞬間、神は初めて『恐怖』という感情を知った。
今まで人間の頂点に立ち、森羅万象を司り、数多の尊敬と畏怖の崇拝を受けてきた神。生態系の頂点の遥か天上に君臨する彼は、たった今、瀕死の化け物に恐怖の念を抱いた。
消えかけた命のろうそくを必死に灯し続け、満身創痍の身体を引きずり、血気迫る表情でなおも歯向かってくる化け物の怨念を至近距離から浴びて、血も凍るような不気味さを感じた。
彼女の殺意の波動を真正面から受けて、気圧された様子で怯む神。
身をよじり、掴まれた両手による拘束から逃れようとする彼に対し、化け物は薄赤い筋肉が覗かれるほど大きく口を開けて――神の喉笛に齧りついた。
次の瞬間、神から放たれる、天を裂き、地を割るほどの大叫号。
数十、数百、数千、数万、数十万もの眼球が、血涙を流しながら、悲鳴と怒号と叫喚の不協和音を大音量で合唱する。
地獄の底から湧き出てきたかのようなおぞましい金切り声が、大気を、森を、月を揺らし、周囲一帯に轟々と響き渡り、伝播していく。
耳をつんざくなんて生易しいものではない。鼓膜を突き破り、三半規管を破壊し、強烈な目眩を起こさせるほどの爆発的な威力を放つ絶叫。聞くもの全ての聴覚を麻痺させ、蹂躙し、機能不全に陥らせるほどの高周波。
もはや音というより衝撃波と表現すべき激声をその身に受けながら、しかし化け物は神から離れずに、よりいっそう力を込めて喉笛に齧りつき、食い千切る。
肉が裂けた箇所から血が濁流の如く噴出し、口内が鉄の味で満たされる。喉を鳴らしてごくごくと飲み込む。赤黒い液体が食道を通過し、胃に流れ落ち、凄まじい速度で消化、分解され、己の血液の一部となって体内を循環し始める。
神の血を啜り、肉にしゃぶりつく。饅頭でも食べているかのように頬張って、かみ砕き、咀嚼し、片っ端から腹に詰め込む。
血だ。肉だ。餌だ。私の餌だ。私だけの餌だ。
興奮と本能に支配されるがまま、人食いの化け物は目の前の神を盛大に食い散らかす。味わう間もなく次々と胃袋に納めていく。
地底まで轟き渡る大叫号も、身を悶え離れようとする神の姿も何もかもを無視し、意識の外に追いやり、一心不乱に獲物の血肉を噛みしめる。
首を、喉を、手足を、内臓を、脳味噌を、骨までも丁寧に齧り、舐め尽くす。人喰いの真価を発揮して、暴食の限りを尽くす。
同時に彼女の脳裏でぐるぐると回る思考。
人間を殺した。たくさん殺した。たくさんたくさん殺して喰らった。
確かに私は罪深いのやもしれぬ。唯一の理法を外れ、外道の法理をもって生き長らえる私は許されない存在なのやもしれぬ。
人としての尊厳を冒涜し、踏みにじり、無垢な童までも惨殺してきたのだ。むしろ咎められない方がおかしい。
だがそれは人間が作り上げた価値観だ。人間が己の身勝手な哲学のもとで組み上げた、矛盾に満ちた法律だ。
もし私の化け物としての生涯が大罪に値するとしたならば、その化け物を生み出した人間もまた大罪を背負わなければならなくなる。
だが眼前の神は、人間達の罪科から目を背け、私という化け物を糾弾し、討伐することでその過ちをなかったことにしようとしている。
力による一方的な立場から正義を振りかざし、私の存在を悪と断じて誅することで、矛盾に満ちた理を無理やり成立させようとしている。
認められるか、そんなこと。
忘れさせるものか。決して忘れさせるものか。
私の母の命を嬲り、弄び、歓喜と陶酔を味わうための材料として焼き尽くしたおまえ達の醜さを。年端もいかぬ少女であった私を虐げ、迫害し、ついには焼き殺された母と同じ道を辿らせようとしたことを。
お前たちがどれほど醜悪で、野蛮で、虫唾が走るほど気持ちが悪い感情をもっているのか、そしてどれほど恐ろしい化け物を生み出してしまったのかを、決して忘れさせてたまるものか。
おまえ達人間の罪は、私という化け物なんかよりも何億倍も、何兆倍も深いのだ。
私は生きる。生きて人間達に自覚させてやる。人間の心が抱く醜悪さを、浅ましさを、業の深さを。偽善と欺瞞で隠された覆いをはぎ取って、私が月光の下に晒してやる。
人間の代表たる神を打ち倒し、突きつけられた一方的な正義をはねのけ、今度は私がおまえらに価値観を押し付けてやる。
私という化け物が、目の前の神に代わって、人間の罪を裁いてやる。
喰う。喰って喰って喰って喰って喰って喰って喰って喰って喰って喰って喰い続ける。
あまりにも異質で、あまりにも異常で、あまりにも猟奇的な光景。
化け物による神の捕食は、休む暇なく続き――やがて神は動かなくなり、周囲には彼女が肉を咀嚼する耳障りな音だけが、延々と、延々と鳴り響き続けていた。
*
月光盛んな夜。
中天高く澄み切った月と無数の星々に照らされた山道で、一匹の少女が大の字になって寝転がっていた。
地面に広がる、圧倒的な量を湛えた血池。風が吹くたびにさざ波が立ち、寝そべる彼女の身体に小さくぶつかり、近くを囲む骸骨のような樹木の根元に飛沫となって飛び散る。
彼女は自身の白い髪を真っ赤な血の色に染め上げて、ただひたすらに頭上の月を見上げながら、
――静かに、嗤ったのだった。