第五十六話 浴衣姿と下駄の音
さて、どうしようか。
「な……なな……」
俺とバッチリ目が合ってしまった彼女は、ワナワナと震えていた。「そら姉ちゃん?」と、おそらく弟だと思われる男の子に心配されている。
「……」
北野で合ってるよな? 男の子も、そら姉ちゃんって言ってるし。
俺は不安に思っていた。そりゃそうだろう。
顔は超がつくほど似ている。体型はジャージで隠れてしまっているから分からないが、髪の色だって金色だ。
しかし、いつも学校で見る彼女とはあまりにも様子が違い過ぎた。だらしない……とまではいかなくても、こんなにラフな恰好で外を歩いているなどまるで想像がつかない。
しかも眼鏡までかけてるし。
……何だろう。いけないものを見てしまったような気がする。
「あ、あんた……」
北野はまだ震え続けていた。今の彼女は電マにさえ引けを取らないだろう。
……こういう時の対処法は一つしかない。
「大丈夫だ北野」
「?」
「俺は何も見てないから」
「へ?」
何も見なかったことにする……!
「美弥行くぞ」
「え?」
「さっさと買い物済ませようぜ」
「でもおにいちゃん。あの人知り合いなんじゃ……」
「買い物をさっと終わらせてくれたら、特別にパンパンマンチョコ買ってやるぞ」
「秒で終わらせてやるぜ!!」
美弥の一つ一つの挙動が速くなる。次の商品目掛けて彼女は早歩きでスーッと移動していった。
さ、俺も彼女の後を追うか……
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
ガシッ。振り返って歩き始めた俺の肩が、勢いよく掴まれた。
首を回転させ、顔だけを後方に向ける。その手はやはり北野のものだった。
彼女は俯いていて、その表情は確認できない。
「……どうした?」
「そ、その、今日ここで私を見たってことは……いや、私がこんな恰好をしてたってことは……」
「北野、さっきも言ったろ?」
「?」
ふっと、優しく微笑んでみせる。
「大丈夫だ、俺は何も見てないから」
「現在進行形で見てるじゃない!!」
勢いよくツッコまれた。
「だから見なかったことにしてやろうとしてんだよ。察しろよ」
「嫌よ! 絶対あんたみたいな人間は言いふらすのよ!!」
「偏見酷くない?」
「ああ、終わったわ。私のクールビューティスクールライフ……」
北野は諦めたような顔で天井を仰いだ。彼女が俺をどう思っているのか気になるが、このままじゃ埒が明かない。
寛容な心で見過ごすことにした。
「北野、冷静に考えろ」
「?」
「仮に俺がこのことを言いふらしたとして……」
キメ顔を、北野へと向ける。
「信じる奴が、いると思うか?」
「!!」
「そう、もし俺じゃなく立也のような人気者だったなら、聞いたみんなは鵜呑みにするだろう。だが喜ばしいことに、お前のその姿を目撃したのは俺だ! 人望という名の宝物をドブに捨てて来た……この俺だ……」
……うん。
「あんた、自分で言ってて悲しくならないの?」
「……」
悲しくなります。
「と、とにかくそういうことだから。絶対に言いふらさねえよ」
「……ほんとに?」
「ああ。言いふらすメリットもねえしな」
「そうね、分かったわ」
そこでやっと、北野は俺から距離を取った。
「絶対だからね」
「はいよ」
さて、美弥を追うか。
「さ、満。行きましょ」
「そら姉ちゃんがあんなに男の人と近くで話してるの初めて見たー」
「なっ」
「そら姉ちゃん、あの人のこと好きなのー!?」
六歳児ってのは無垢だな。北野の顔から表情が消える。
「満。今日は一つもお菓子買わないことにしたわ」
「ええええええ」
満くんよ。逞しく生きてくれ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
スーパーから帰宅して約一時間後。
ドンッ!
テーブルの中心に置かれた鍋が、存在感を放っていた。中はグツグツと煮えている。
「すき焼きだー!」
美弥が嬉しそうな声を上げた。そう、それは久しぶりのすき焼き。
今日卵が必要だったことにも、納得がいった。
「「いただきます」」
「いっただっきまーす!」
手を合わせ、食前の挨拶をしっかりとする。美弥のテンションはとても上がっていた。
勢いよく肉を箸で掴み取り、卵につけ、大きな一口で頬張る。もぐもぐと口を動かすその表情は、見ていてこっちまで嬉しくなるようなものだ。
かく言う俺も、若干テンションが上がっていた。男女問わず、中高生ならばすき焼きが大好物だろう。
「美弥、肉ばっか食べたらダメだぞ」
「分かってるよ~」
そう言いながら、二枚目の肉を取る美弥。
「おい」
「えへへ。これを食べたらちゃんと野菜も食べるから!」
「……」
嬉しそうな美弥を見ると、それ以上は何も言う気にならなかった。とりあえず俺も一枚食うか。
もぐもぐ。うん、美味いな。
「あ! ねえおにいちゃん、この映画面白そうじゃない!?」
「ん?」
肉の味を噛み締めていると、美弥がテレビを見て声を上げる。そこには、もうすぐ公開される映画のCMが流れていた。
「ああ、『シミの名は。』か」
『シミの名は。』
とても綺麗な絵が特徴的な監督、新世界誠が世に送り出す最新アニメ映画だ。男女の青春劇を描いたストーリーである。
あらすじはこうだ。
――ある日、主人公の男の子が、好きな女の子に出来た唯一のシミと入れ替わってしまう。シミを気にする女の子と、シミになり身動きが取れなくなった主人公。
女の子のケアにより、徐々に取れていくシミ。そしてシミと共に消えていく男の子の心境や如何に!?
まるで意味が分からなかった。しかし、そのおそろしく綺麗な絵だけで面白そうに見えてしまう。
また、まだ公開前だというのにその主題歌も人々の話題となった。曲名は『全全全て』。
サビのインパクトが強烈で、瞬く間に知名度が上がったのだ。その要因は主に歌詞にある。
君のスベスベスベスベな肌の、一部になり始めたよ。
初めて聞いた時は自分の耳を疑ったものだ。しかしこれが正式な歌詞だというのだから正気の沙汰じゃない。
スベスベを二回言う意味も分からない。
「……まあ、興味はあるな」
「じゃあさっ。今度一緒に観に行かない?」
「良いぞ。だが行くなら、出来れば夏休み中に行きたいんだが」
「それなら公開日に行こうよ!」
「いや、それは無理だ。その日は祭りに行くから」
「え!?」
ピシッ。美弥の体が、驚きに固まった。
「誰と行くの?」
「部活のみんなだ。立也とかみうとか舞鶴とか……」
「私聞いてないよ!?」
「言ってないからな」
「言ってよ!」
「何でだよ」
「私も行きたいからに決まってんじゃん!!」
「お、おう」
美弥が前のめりになって叫んでくるので、言葉に詰まってしまった。俺と美弥が話している間に、母さんはこっそりと鍋から肉を取っている。
「うう。あのおにいちゃんが、私に何も言わずに祭りに行くなんて……」
「……なら来るか? 別に美弥が来ても、誰も文句は言わねえだろうし」
「やったー! 行くー!」
おにいちゃん、美弥の泣き真似には弱いんだ……。
美弥は俺が誘うと、途端に元気になった。ガタッと立ち上がり、不思議な踊りを踊り出す。
「祭りと言えば、浴衣だね!」
謎の歌を歌いながら。
「ゆ・か・た、へい! ゆ・か・た、へい! 我が家の貯金はゆ・た・か! ゆ・か・た、へい! ゆ・か・た、へい! 兄貴の心は、ま・ず・しい!」
何で俺ディスられたんだよ。
「美弥、食事中だぞ」
「はーい」
美弥は素直に従い、すっと席に座った。すると母さんが、何かを思い出したらしく話し出す。
「そういえば、お父さんも昔はよく踊っていたわ~。凄かったのよ、お父さんの裸芸」
親父何してんだよ。
「え、見たい見たい!」
「まだビデオが残ってるんじゃないかしら?」
「ほんと! じゃあご飯を食べ終わった後に見よ!」
「ええ、良いわよ~」
親父の裸芸は凄かったです。
・
・
・
二日後。
夜の道を美弥と二人で歩く。美弥は紺色の浴衣に袖を通し、鼻歌を口ずさんでいた。
「ふんふふんふふーん」
美弥が歩くごとに、カランコロンと甲高い響きが鳴った。下駄を履いているためだ。
風情を感じさせられる。俺も浴衣と下駄にすべきだっただろうか。
「あ、おにいちゃん! 久美ねえちゃんだよ!」
「お、ほんとだな」
「あの隣にいる人が、久美ねえちゃんのおにいちゃん?」
「そうだ」
ようやく、祭りの光景が見えてくる。遠くには伏見兄弟が並んで立っていた。
メガネくんと久美だ。ここまで長かった。
電車で二時間。歩きの時間も含めたらそれ以上なのだから。
「あ、カズくーん! 美弥ちゃーん!!」
「久美ねえちゃーん!!」
ダダダダと美弥は駆け出した。勢いよく久美の胸へと飛び込んで行く。
その豊満な二つの山に、美弥はぽふんと埋もれた。
う、羨ましくなんてねーし? 俺も飛び込みたいなんて思ってねーし?
メガネくんも久美も浴衣を着ていた。やっぱり浴衣にすべきだったかと再度後悔しそうになるも、おそらく立也も普段着だろうからセーフだと前向きに考え直した。
「やあ清水くん。久しぶり……でもないね」
「そうだな。十日ぶりぐらいだ」
旅行が長かったせいだろうか(話数的に)。とても久しぶりに感じる。
「集まってるのは、まだ二人だけか?」
「うん、僕達だけだよ」
もう集合時間の十分前だ。立也辺りは普段ならもう来ているのだが、やはり部活があるため遅れているらしい。
気長に待った方が良いな。最悪、集合時間に遅れてくることもあるかもしれない。
しかしそんな考えは杞憂だった。俺達が到着してすぐに、立也と大和がやって来る。
二人は俺と同じで普通の服を着ていた。彼らを交え、六人で和気あいあいと話し、残りのメンバー待つ。
そして約束時間になったちょうどその時。
「みんな、待たせちゃってごめんね!」
「ごめん」
舞鶴とみうが浴衣姿で現れた。舞鶴は桃色の、そしてみうは水色の浴衣だ。
二人とも、髪飾りを使って髪をお団子に結んでいた。いつもより、魅力的に見える。
「全然いいって! 時間通りなんだからさ!」
「じゃあみんな揃ったことだし、行こうか」
祭りの夜が、始まった。
お祭り編、始まります!