豆腐メンタルを料理して食べる
失恋にふさぎ込んでいる『豆腐メンタル』な大学生の話。
あー、嫌だ。心底、嫌気がさす。
自分の臆病さに、打たれ弱さに。
僕は、自分の『豆腐メンタル』さに、ほとほと嫌気がさしていた。
太陽が理不尽なくらいに照り付ける夏の日。
ちょうどお昼を過ぎた辺り。
外の暑さは多分、最高潮だろう。
そんな外界から逃げるように、僕は住処であるボロアパートでふて寝していた。
午後の講義に行く気がおきない。
午前中の講義は全部サボった。
このアパートは日当たりが悪い。
電気をつけずにカーテンを閉め切っていれば、一日中、暗い中で過ごせる。
やたらと電気代のかさむ安物のクーラーをガンガンに効かせ、
ひたすら、うじうじ、ごろごろと意味のない時間を過ごしていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
僕は昨日、失恋をした。
片思いだった。
大学の入学式で一目惚れして以来だから、3年くらいになるだろうか。
一方的に想って、遠くから見ているだけの恋。
冷静に考えて、実るともはずのない恋だ。
ああだこうだと理屈をつけて、アプローチするのを先延ばしした。
あれやこれやと自分を騙し続けた。
でも、その時から薄々分かっていた。
単に拒絶されるのが、結果がでるのが怖かっただけだ。
弱い自分を守るために、僕は何も行動を起こさなかった。
どうしようもない『豆腐メンタル』。
そして昨日、彼女に恋人ができたことを友人から聞かされた。
出会って半年、付き合って3か月らしいと。
二人が一緒にいるところも見てしまった。
悔しいくらいにお似合いで、割って入る気なんて起きないほど幸せそうだった。
二人を目の当たりにした僕は逃げた。
走って、逃げて、トイレに駆け込んだ。
洗面所の鏡にはとても残念な男の顔が映っていた。
そいつは顔をぐしゃぐしゃに歪め、大した距離を走ったわけでもないのに荒い呼吸を繰り返していた。
何度も何度も顔を洗ったけれど、そいつの――僕の顔は残念なままだった。
何もしないのに、ショックだけは人一倍受ける。
悲しいほどの『豆腐メンタル』。
結局、僕は残念な顔のまま、アパートに逃げ帰った。
途中のコンビニで飲めもしないのに酒を買い込んだ。
無理やり飲んで、当たり前のように吐いた。
その後、眠れないような、半分寝ているような夜を過ごした。
そして、朝になっても動く気が起きず、今の今まで布団の上にいる。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
――ピンポーン
後悔と自己嫌悪に沈み込んでいる僕をひっぱたくように、呼び鈴の音が鳴った。
面倒くさいし、立ち上がる気力も起きないので、居留守を使うことにする。
しかし、それを察知した訳でもないだろうに、呼び鈴が激しく連打される。
――ピンポーン、ピポピポピポピンポーン、ピポピポ……
苛立ちとうっとうしさが、無気力を上回り、僕は居留守を諦める。
「なんなんだよ、なんか通販で頼んだっけ?」
このアパートには、インターフォンなんてものはない。
ぶつくさ言いながら玄関へ向かう。
「はいはい、なんですか?」
僕は不機嫌さを隠そうともせずに玄関を開ける。
――女がいた。
黒い髪、白い肌。
黒の長袖長ズボンに真っ白なエプロン。
大きめの唇は真っ赤で、笑みの形に歪んでいた。
黒、白、黒、白、赤い口。
客観的に見ると美人の部類なんだと思う。
顔も微笑んでいるように見える。
だけど、黒目がちの丸くて大きな瞳。
僕をのぞき込むその眼差しに、言いしれぬ不安感を感じる。
「ふふふ、やっと出てきた」
女がその大きな口を開く。
張りも抑揚もあるのに、感情を感じさせない不気味な声だ。
「ちょっと料理させてもらいたいんだけど?」
「はい?」
意味が分からず、聞き返す。
「あら、いいの?」
その言葉を強引に肯定と決めつけ、女が部屋に上がり込む。
「ちょ、勝手に入らないで!」
そして、止める間もなく、まっすぐキッチンへ向かう。
「仕方ないじゃない。こんなに美味しそうな匂いが外まで漏れてるんだから」
「匂いってなんですか!?」
「悲しいくらいにグダグダで、どうしようないくらい自己嫌悪にまみれた匂い」
慌てて追いすがる僕に、女は言った。
そして、ニタリと笑う。
「貴方の心の匂いよ。私、メンタルを料理するのが仕事なの」
女は答えて、ずいっと僕に歩み寄る。
真っ赤な口を開いて笑う。
僕の鼻の頭を掴む。
僕を見つめる。
僕を舐めるように見つめる瞳、不安感をあおる眼差し。
分かった。
これは獲物を前にした――。
「や、やめ――」
女が鼻を掴んだ手をぐいっと引っ張る。
僕の中から、何かがズルズルと引き出される。
失ってはいけない何か、とても大切な何か、
そして、自分でもどうしようもなく嫌気のさしている――
…………………。
…………。
……。
……何かが、僕の中から抜き出された。
どうでもいい何かが。
とても重いものから、解放されたような気がするけれど、何の感慨もおきない。
女はどこから取り出したのか銀色の皿を持っていた。
その上には白くて、なめらかで、ぷるぷるとした大きな豆腐。
「あなたのメンタルって『豆腐』なのね。とても美味しそう」
あれが僕の中から抜き出されたメンタルということなのだろうか。
まさか本当に『豆腐』だとは。
「メンタルの形はね。セルフイメージ――自分で自分をどう思ってるかに影響されるのよ」
聞いてもいないことを解説してくれる。
心底どうでもいい。
『豆腐』が抜き出されたからなのだろうか。
その説明に何の想いも起きない。
ただ、この邪魔な女にとっとと帰ってほしいと思う程度だ。
女がテーブルの上に皿を置く。
すると、置いた衝撃で『豆腐』がプルプルと震え、崩れた。
もろい、もろすぎる。
「あら、崩れちゃった」
女がなんでもないことのように言う。
僕の中にこびりつくように残った何かが、微かに不快感を訴える。
「なんでもいいから、とっとと帰ってくれ」
メンタルが揺れなくなったせいなのか、女に対して不安感や警戒心は沸かなくなった。
ただ、少し面倒くさくて、ちょっと苛立つ程度だ。
「料理したら、帰るわ」
『豆腐』なんて、どうなっても構わないが、怪しい女と一緒にいるは、面倒だ。
しかし、警察に「女が押しかけてきて、僕から『豆腐』を引っ張り出して、料理するって言うんです」などと言うのも馬鹿らしい。
料理すれば出ていくらしいし、出ていかなかったらその時、考えればいい。
僕は女を放置することにした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
――女は料理を始めていた。
勝手に冷蔵庫をあさり、ひき肉や長ネギなどを物色している。
「麻婆豆腐にするわよ」
女の確認を僕は無視する。
どこからか取り出したのか中華鍋を火にかける。
肉の脂の匂いが部屋に充満する。
ついで、豆板醤、ニンニクの薫り。
女は味見をして満足げに笑う。
そして、包丁を取り出す。
豆腐を切るには不必要なほどの大きな包丁。
そいつで、机においた衝撃で崩れてしまった僕の『豆腐』をさらに切り刻んだ。
その光景に少しだけ不快感が強くなる。
別に要らないものだけど、手荒に扱われるのはちょっとむかつくという感じなのだろうか。
麻婆豆腐は、時間のかかる料理ではない。
すぐに完成した。
皿にのせて、机の上に置かれる。
見た目は何の変哲もない麻婆豆腐。
しかし、材料に僕から引きずり出された『豆腐』が使われている。
「さあ、召し上がれ」
僕に食えと?
こんな怪しいもの、食べる気が起きる訳がない。
「いらない」
「あらそう? じゃあ、私が食べていい?」
「食ったら出てってくれ」
「じゃあ、一口だけ……」
女は「いただきます」とばかりに手を合わせる。
レンゲでその大きな口に運ぶ。
真っ赤な口に麻婆豆腐が吸い込まれる。
咀嚼。
嚥下。
恍惚の表情。
そして、女はその恍惚の表情のまま、涙を流しはじめた。
まさに、感涙といった感じだ。
僕はまたも微かな不快感を感じる。
「……そんなに美味しいのか?」
「これは失恋の味ね! 美味しい! 美味しいわ!」
女は続ける。
「こんなに真摯に想って、本気で悩んで、苦しんで……。美味しくない訳がないじゃない」
いまいち言ってる意味が分からない。
「本当なら、これは貴方にしか味わえない、貴方だけの『豆腐』なのよ。それをこうやって食べられるのは最高の贅沢ね」
「……」
女が大きな口を笑みの形に開ける。
「ねえ、私、我慢できないわ」
そして、またもニタリと笑う。
「全部食べていい?」
女のその言葉に僕の中の何かが臨界点を超えた。
なんかイライラする。
僕の中に残った何かが、ドロドロとうごめく。
こびりつくように残ったそれが、苛立ちと損得勘定に火をつけた。
僕は麻婆豆腐の皿を女から、強引に奪い取る。
豆腐メンタルを失ったせいなのか、強引な手段に抵抗が沸かない。
いつもの僕なら、人が持っているものを強引に奪ったりできない。
僕は宣言する。
「これは僕のものだ」
僕の部屋のキッチンを使って、
僕の家のひき肉を使って、
僕の『豆腐』を使って作られたもの。
僕に所有権があるはずだ。
「そう。では改めて、召し上がれ」
女はレンゲを僕に差し出す。
僕はそのレンゲをひったくるように受け取り、麻婆豆腐をすくう。
そして、そのままその口に入れた。
◇◇◇
麻婆豆腐の味とともに、僕の『豆腐』の味がした。
これまでの人生で感じてきた強い想いの味。
僕の心の構成要素の味。
それらが、その想いを感じたときの思い出とともに押し寄せてくる。
――最初の一口。
この味は喜びの味だ。
初めて自転車を買ってもらった時。
ワガママを言って、店で一番カッコイイのを買ってもらった。
その自転車に乗るとどこまでも遠くにいけるような気がした。
僕自身の心を構成していた大事な部分が、
その時の喜びと一緒によみがえってきた。
――次の一口を食べる。
今度の味は怒りの味だ。
友人と殴り合いのケンカをした中学生の夏。
本気で怒った。
もう許してやるものかと思った。
あそこまで剥き出しで誰かとぶつかったのはアレが最初で最後だった。
結局、一週間で仲直りしたけども。
そんな日の怒りも、
仲直りの日の気まずさを少しだけ含んだ安心感も、
一緒に、僕に戻ってきた。
――夢中で食べる。
次の味は悲しみの味。
優しかった祖母がなくなった、あの日。
親しかった人の初めての死。
人が死ぬということが頭では分かっていても、実感ができなくて。
どうしたらいいか分からなくて、呆然として。
母が泣くのをみて、やっと泣けばいいことを理解した。
あの日の涙も僕の中に帰ってくる。
――食べる。
この味は楽しみの味。
夏祭りの日の夕方。
いつもなら、遊びを終わらなければいけない夕方。
そこから、本番が始まる贅沢。
サンダルを履いて、浴衣を着て。
出店の射的や、屋台の焼きそばを今か今かと待ち受ける。
その興奮も僕の中に湧き上がるようにして戻る。
女の声がする。
「貴方は自分が『豆腐メンタル』なことを気にしてたけど」
僕は食べるのに忙しく、返事をする気が起きない。
「メンタルってね。崩れても構わないの。それで価値を損なったりはしない」
女を無視して夢中で食べる。
「豆腐が崩れたなら、麻婆豆腐にすれば関係ないわ。おなかに入れば一緒だしね」
――食べる、食べる、食べる。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
気が付くと、食べ終わっていた。
『豆腐』は、もう一片も残っていない。
「あれ……?」
いつの間にか、女はいなくなっていた。
どこにもいない。
麻婆豆腐を炒めた中華鍋もない。
白昼夢……って訳でもなさそうだ。
目の前の皿に残る豆板醤の赤が、確かに麻婆豆腐はあったと証明していた。
あれは一体何だったんだろう?
『豆腐』が抜き出された時の感覚。
今思い出しても、ゾッとする。
それに、抜き出された後の自分もおかしかった。
感受性を喪失し、不安感も危機感もなく、感じるのは漠然とした不快感だけ。
何事にも揺れないとかではなく、揺れるもの自体ない感じ。
今は違う。
麻婆豆腐を食べるたびに戻っていった。
いつもの自分に戻っていた。
そう、いつもの自分だ。
失恋して沈み込んでいる自分ではない、いつもの自分。
麻婆豆腐の中に僕の恋の味はなかった。
客観的な記憶としては残っている。
でも、その時の想いはわずかな疼きを残して消え去ってしまった。
僕の一目惚れも失恋もあの女に食べられてしまったのだ。
悲しむべきなのだろう。
けれど、もう、どのくらい大事だったかも分からなくなってしまった。
ふと、机の上を見るとメモ用紙が一枚置かれていた。
美味しそうに食べてもらって料理した甲斐があるとか。
今日みたいな、グダグダなメンタルの匂いで、もう一度『呼んで』くれるとうれしいとか。
その時には、もう少し、出来れば半分くらい食べさせてもらいたいとか。
そんなことがつらつらと書かれていた。
僕はそのメモ用紙をびりびりと破き、ゴミ箱へ捨てる。
あれは、あの女は呼ばれたから来た、そして呼べばまたくると言いたいらしい。
しかも、『豆腐』を半分も食べさせろなんて、冗談じゃない。
このメンタルは僕のものだ。
豆腐として食べて、その時の想いと一緒に取り戻して。
これは大事なものだと気づいたのだ。
とにかく、あんなのがまた来るなんてのは勘弁願いたい。
自己嫌悪でぐだぐだになったり、いつまでもくよくよ落ち込んだりしなきゃいいんだろうか?
無理な話だ。
僕は筋金入りの豆腐メンタルなのだ。
……。
とりあえず、次の契約更新の前に引っ越そう。
最低限、インターフォンは欲しい。
あの女が来たときに、うっかりドアを開けないために。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
僕は気分転換に外に出ることにした。
日はだいぶ傾いてきている。
あんなよく分からない目にあったのに、心が軽い。
失恋を食べられてしまったせいなのかもしれない。
あるいはヤケクソでハイになっているだけなのかもしれない。
しばらく歩いて、大通りに出ると、向こうの方に浴衣を着た女の子たちが歩いている。
高校生だろうか。
今日は花火大会の日だったっけ。
楽しそうに歩くその子たちが、なんだかとても魅力的に見えた。
彼女だけが女の子って訳じゃないんだよな。
当たり前のことが新鮮に感じられた。
このまま、立ち止まっていたくない。
よし、決めた。
ナンパしてやる。
僕は今日ナンパデビューすることにした。
九割方、玉砕するだろう。
それでもいいのだ。
自分の殻を破りたい気分なのだ。
がむしゃらに走り出したい気分なのだ。
……。
しかし、いきなり女子高生の集団はハードルが高い。
あの子たちをナンパするのは、やめておこう。
他の、もっとこう、難易度が低そうな子を探そう……。
がむしゃらにとか思ってるくせに、相変わらずチキンな自分に呆れながらも、
僕は花火大会のメイン会場へ向かった。
結局、知らない女の子に声をかけるなんてできなくて、
人ごみの中、不審者一歩手前になってしまったのはまた別のお話。
そこで、高校時代のクラスメイトの子とばったり再会したのも
なんだかんだで、今、その子が僕のとなりにいるのも
あれから、三年経っても『あの女』はやってくる気配がないのも
それらもまた、別の話だ。