川辺にて
水の流れは優しい。
ゆったりとした流れは、ちょろちょろと可愛い音で耳を楽しませてくれるし、見る者の気持ちを穏やかにする。
一方激流であっても、胸の中のモヤモヤや苛立ちを、勢い良く洗い流してくれる気がする。
だから私は川を眺めるのが好きなのだ。
「アンタいつも一人だね」
高架下の土手沿い。川面に反射する光が、緑の草叢を綺麗に照らしている。
私のお気に入りのこの場所に、来訪者は突然やって来た。
高校生だろうか?学ランを着て、しかし髪は明るい茶色に染められていて。よくこんな格好が出来るもんだと感心する。普通なら即刻、指導が入るに違いないのに。
「オレもココ好きなんだ」
彼は私の返事を聞かずに、同じように土手にしゃがみ込んだ。此方を気にする様子も無く、目の前の川面を眺めている。
「ねえ、コレ知ってる?」
その問いかけに。反射的に、彼の方を向いてしまった。
切れ長が印象的なその瞳は、私の姿を捉えて眦を下げた。そうしてゆっくりと、口を開く。
「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて…」
彼は、誰もが一度は聞き馴染みのある、そのフレーズを口にし始めた。
「えーと、続き、何だっけ…」
「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし…、でしょ?」
「そうそれ!って、よく知ってるね」
彼は満面の笑みで、手を叩いて私を見る。私が続きを知っていたこと、余程嬉しかったらしい。
彼につられて、こちらも思わず頬がニヤけた。
「そっちもね」
しかし、驚いた。茶髪の彼から、まさか方丈記が紡がれるとは。
「オレ、方丈記好きなんだよね〜」
「ふっ…」
「ナニ笑ってんの」
「ごめん」
私は唇に手を当てたまま、視線を足元に落とした。
笑うなって、無理な話だ。笑うに決まっている。その見た目で?高校生のくせに、方丈記が好きだって?
意味が分からない。面白すぎる。
「ほんとだよ」
「べつに疑ってないけど」
「あー、待って。その続き言えるから」
私の言葉を左手で遮り、彼は目線を上向けながら、小さく頷く。
思い出しているようだ。
「えと。…世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。だね」
正解。
私は彼を見つめながら、ニッコリと頷いた。
「授業で習ったばっかりとか?」
「まあ、それもあるけど。オレ、単純にここの文章が気に入ってるんだ。諸行無常…世のコトワリだね」
難しい言葉を無理矢理使ったような言い方に、子供らしさを感じた。やんちゃな見た目だが、案外普通の高校生なのかもしれない。
方丈記、暗記しているくらいだし。
単純な結論。
けれど私自身、この川を眺めながらその文章を思い出したことがあったから、妙に嬉しかったのだ。
『行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず』
「世の常だね。全ては移り変わって行くの」
適当に、相槌を打った。
突然現れた男の子と、川を見ながら方丈記を語り合う。
なかなかオツなものだ。
「でも鴨長明はさ、決して悲観的じゃないんだ。変化ある現実を受け止めて、その上で生きようとしているから」
思わず、隣を見つめた。
川面を眺め続ける彼の表情は、キラキラの光に包まれてあまりハッキリしない。
「朝に死し、夕に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける」
「…なに?」
「少し後に、この文章もあるんだ。人の死を、受け入れようとしているような気がしない?」
ある者が朝に死んで、ある者が夕方に生まれるという世の常は、まるで水の泡に似ている。
水の泡ですら、変わらずとどまっていることはない。人の生死など、当然である。
「あの…誰か、亡くなったの?」
口にして、やっぱり聞くべきでは無かったのかも、と後悔した。彼があまりにさらりと告げるものだから、つい気になってしまったのだ。
しかし彼は、口元に笑みを浮かべたまま、さぁね、と首を傾げるだけだった。
「ごめん、変なこと聞いたね」
「別に。それより、アンタはいつもここで何してんの」
よく見かけるんだよね、通学路だし、と続ける。
「私は…趣味で歌作ってて。よくここで詞とか考えるんだ」
静かで、何も無い場所だけれど。
一人で考え事をするにはうってつけで、意味も無く足を運んでしまうこともある。
「へえ!バンド?」
「ううん。弾き語り。たまにストリートで歌ったりしてる」
すると彼は、途端に目を輝かせて、私にぐいと近寄った。
「聞きたい!聞かせてよ、オレそーいうの好き」
そーいうのって何だよ、曖昧だなぁ、と思いつつ、右手を軽く振った。
「ダメ。今日はギターも持って無いし、そんな気分じゃないし」
「マジ!?そこまで言っといてひでぇ〜」
そっちが聞いたから答えただけだし。というか、超タメ口だけど私大学生でアンタより年上なんですけど。
なんて色々なことが一気に頭の中に浮かんでは来たけれど、口に出す前にそれは溜息となって消えてしまった。
そんなこと、どうでもいいか。
「じゃあさ、今週土曜日、そこの駅前でまた歌う予定なの。良かったら来てよ」
「やった!行く行く!友達も誘う!」
「うん、よろしく」
こうして知り合ったのも何かの縁だ。
客が増えるし、少しは賑やかになるかもしれない。
彼はまた嬉しそうに笑って、ゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ、行かなきゃ」
「うん、気をつけて…、って、あれ?」
「ん?」
彼の姿に、違和感を覚えた。
よく考えたら、今日は日曜日だ。今更ながら、そんなことを思い出す。日曜の昼間なのに、彼は何故、学ランを着ているのだろう。
私の視線に気付いたのか、彼はあぁ、と呟いて、学ランの胸元を掌で軽く叩いた。
トントン。
「これ、喪服なんだ」
「え?」
「今日、母親の葬式」
彼の声色は、先程から少しも変わることは無い。けれどほんの少しだけ、瞳がパチリと開かれた気がした。
「そうなんだ」
「そう。抜け出して来たけど、もう戻るよ。アンタに話しかけて、良かった。…楽しみが出来たから」
「…うん。早く、行ってあげな。心配してるよ」
「だね」
踵を返し、彼は土手を登って行く。
少し歩いて、軽く振り返り、手を上げた。
「またね!」
そう声を掛けると、彼は僅かに唇を上げて、また歩き出した。それから先は、学ランの背中が見えなくなるまで、少しも立ち止まることは無かった。
私は再び水面に目を移した。
今日の流れは緩やかで、波が立つことは無い。ゆらゆらと揺れながら、日差しを受け止めている。
この川の水も、何も変わらないようでいて昨日のそれと同じでは無い。それでも水の流れは優しくて美しい。
彼はそれを知っている。彼の涙はこの川が受け止めるだろう。川の流れに混ざり、そして移ろいながらも、消えることは無い。ただ形を変えて、彼の中に居場所を作るだろう。
強いと思う。
彼のことを想いながら、目を閉じた。自然とメロディを口遊む。
いつもとは違う、新しい音楽が生まれてくる予感がした。