第七話「失うモノと得るモノ」
「それじゃあクリアハルト、行ってくるね」
旅支度を終えたクィンクが、僕の頭を乱暴に撫でた。
背丈はそれほど変わらないのに、相変わらず僕の事を子供扱いしているらしい。
王都へと向かう馬車の中にはマリティアヌとジェイクハルトが座っている。
二人とも銀色の派手な衣装を着ていて、綺麗だけど少し下品な感じがした。
それは僕の中に前世の感性が残っている所為だろう。
なぜなら、ベルハルトは二人に「とてもよく似合ってるよ」と誉めたたえていたから。
王都ベルグランドにある城の中は、獣人やハーフエルフなどの他種族は入る事が出来ない。
唯一竜人のみが許可されているので、バルサではなくクィンクが護衛する事となった。
一応城内に立ちいると言う事で銀色の衣装を着ているが、護衛できるようにドレスではなくズボンを穿いている。
「クィンク。気を付けてください」
気を付けろ。
僕の言葉の矛先は、盗賊やオルアルク家に嫉妬した貴族の凶行に向けた訳ではない。クィンクほどの実力者なら、何があっても二人を守る事ができるはずだ。
「うん、大丈夫」
クィンクは僕の気持ちを察したのか、ジェイクハルトの顔をチラリと見て頷いた。
僕が心配なのは涼しげな表情で馬車に座っている兄の事だ。
もちろん兄の安全が心配なのでもない。
兄が“何をしでかすか”心配なのだ。
「クリアハルトこそ、寂しいからって泣いたら駄目だよ」
それは無理な相談だが、一応頷いておく。
「あなた、アネスタの事……」
「ああ、全力で探しておく」
ベルハルトが力強く頷き、出発するよう御者に伝えた。
王都まで馬車で二日ほどかかる。
衛生観念が前世よりも緩い世界だけど、あんな仰々しい服装のままで大丈夫だろうか。
「バルサ。君はクィンクの代わりにクリアハルトの家庭教師を頼む」
「はい」
バルサが小さく頷く。
彼女は以前に比べて健康的な身体付きになっていた。
いや、元が痩せすぎてたのでちょうど良い感じになったのだろうが、スタイルが良すぎて目のやり場に困る。
ハーフエルフだからと言って必ずしも貧弱と言う訳ではなさそうだ。
変わったと言えば、オルアルク家にとってもっと重大な変化がある。
メイドのアネスタがいなくなって、はや二週間が経つのだ。
ベルハルトがすぐに代わりのメイドを用意したが、アネスタはオルアルク家に尽くしてくれた特別なメイドだ。
絶対に黙っていなくなるはずがない。
僕もいっぱいお世話になっている。
だから思いつく限りの場所を探したけど、手がかりさえ見つからなかった。
バルサが言うには獣人が給仕を嫌がって失踪するパターンはこの国でよくある事らしい。でも、本当にアネスタはそんな人じゃないのに……。
◇
◇
◇
翌日、僕の部屋へ訪れたバルサが深々と頭を下げた。
寒がりなのか、マントの下にはいつもセーターを着ている。胸のラインが出てて目線のやり場に困るな……。
「クリアハルト。しばらくの間よろしくお願いします」
「あ、はい。よろしくお願いします」
ちょうど良いタイミングだし、あれを渡しておこう。
「バルサ、これをどうぞ」
「これは……」
僕が渡したのは兎の銀細工。
ジェイクハルトが言うにはエルフと兎は非常に相性が良く、古くからの友人らしい。
どこにもそんな説明文は載っていなかったけど、エルフ大好きな兄が言うなら間違いない。それに兎自体可愛いし嫌いって事はないだろう。
「少し遅れましたが誕生日プレゼントです。受け取ってください」
本当は先週こっそりと渡そうと思っていたのだが、アネスタの件があって渡しそびれていた。ジェイクハルトもいない事だし、今がベストのタイミングだろう。
「……ありがとうございます」
バルサはペンダントを受け取り、マジマジと眺めた。
嬉しそうでもなく、迷惑そうでもない。状況が掴めていない様子だ。
彼女は自分の事を三十と言っていたので、三十一歳になったと言う事か。
見た目はもっと若くて二十代に見える。
竜人にせよハーフエルフにせよ実年齢より若く見えるのは羨ましい事だ。
ペンダントを胸に着けたバルサが、
「どうでしょうか」
と、聞いた。
恥ずかしがっている様子はないが、感想が聞きたそうだ。
紺のセーターに銀で出来たペンダントがよく映えた。
「うん、凄く綺麗だよ」
「ありがとうございます」
バルサは若いと言っても大人の容姿だったので、誉め言葉の一つ言うにもクィンクに対してより恥ずかしくない。
彼女の方も子供に誉め言葉をぶつけられてもどうとも思わないのか、全く動揺を見せていない。少しだけ、ほんの少しだけそれが悔しかったりする。
「ところで、誕生日プレゼントとは何でしょうか?」
「え、誕生日のお祝いだけど」
僕の言葉にバルサは首を傾げた。
「誕生日を迎える事は喜ばしい事ですか?」
「うん、僕はそう思うよ。無事に一年間過ごす事が出来たんだから」
前世で家族以外と誕生日を祝った事はない。
他人の祝福がまるで“まだ生きてるのか”と言っているように聞こえたからだ。
今思えば、あの時僕の為に集まってくれた人達は絶対にそんな事を考えるはずがなかった。
……ちゃんと彼らの優しさに甘えるべきだったな。
「ですが、私達が生きる為に消える命もあります」
「うん、そうだね。動物とか」
どうやらバルサは誕生日を祝う事自体が納得いかないようだ。
無表情のまま否定的な意見を述べた。
「それに望まれて生まれた命ではない場合もあります」
「うん、分かるよ。場合によってはあるよね」
「では、どうして私に対してこんな仕打ちを?」
「仕打ち……」
そうか、バルサは自分の事を望まれて生まれた命ではないと思っているのか。
理由は分からないけど、ハーフエルフにも色々あるのだろう。
日本でも外国人やハーフは色々と苦労していた。
見た目だけでなく文化や言語の違いにも苦しんでいた。
魔法や魔物のいるこの世界では、さらに複雑な事情があるのだろう。
だけど――、
「生まれてきた事、それ自体を望まれなかった命があるのは分かる。だけどね、バルサ」
僕は多くの親戚に邪魔者扱いされた。
両親のいない所で殴られた事もある。
金を返せと叫ばれた事も、早く死ねと言われた事も。
……それでも、父も母も誕生日は泣いて喜んでくれた。
一年間楽しかったね、これからもよろしくね、と。
「僕は君と過ごした一年間。殆ど喋らなかったし、オセロの件もあったけど。
それでも君と一緒にいられる事を望んだ。望まれた命なんだよ、君も」
難しい話ではない。
大事にする話でも、隠すような話でもない。
軽々しく口走ってはいけない話でも、生涯一人だけにしか言ってはいけない言葉でもない。
当たり前の事実。
どこにでも転がっている答え。
ジェイクハルトの家庭教師とはいえ、一年近くを同じ家で過ごした。
バルサはもはや、僕の家族だ。
「……訳が分からない」
バルサはボソリと呟くと、僕から逃げるように部屋から出て行った。
僕の言っている事の意味が分からなかったのだろうか。
いや、違う。
あの表情はどこかで見た事がある。
どこかで……。
◆
◆
◆
翌日からバルサ指導の下、剣の稽古が始まった。
彼女は相変わらず無表情だったが、ペンダントは胸に着けたままだった。
その事が嬉しくて、僕のやる気も倍増した。
「クィンクは竜神一刀流を取り入れているので、どちらかと言うと対人向けの剣術を教えているようですが、私が教える剣はもう少し荒くて魔物狩り向きです」
「何故ですか?」
どちらかと言うと生真面目そうなバルサの方が対人向けの綺麗な剣術を教えそうだ。
「クリアハルトは剣士としての階級については教えてもらいましたか?」
「はい、大剣士の事も」
「剣士の階級は魔法使いの階級と違い、全て“一人で魔物を討伐できるか”にかかっています。それは暗黒の時代と呼ばれた魔物の勢力が最も強かった時代の名残と言われていますが、剣士ギルドの判断基準も暗黒時代から何一つとして変わっていないのです」
つまり剣士は技術や精神ではなく、実績を重視した階級制と言う訳か。
「だからバルサは魔物向けの戦いを教えるのですね。“名門に進学させる為に”」
「はい、その通りです。雇い主が子供を剣士にしたい場合、私は教え子を牙象級まで合格させます。どれだけ剣の才能がなくても牙象との戦い方さえ知っていれば合格する事ができます」
何だか夢のない話。
まるで大手塾の運営理念を聞いているようだ。
試験に出る所だけ押さえておけば大丈夫。
無駄な事は一切やらなくていいよ、と言った感じか。
「才能ない子が剣士として学校に行ってもついていけないのでは?」
「……それはいけない事でしょうか?」
「うーん、どうだろ……、分からないや」
家庭教師と言う立場を考えると、バルサの方が正しい気がする。
学校のように受け皿に飛び込むシステムではなく、こちらからノルマを押し付けるのだから。
それでも、もう少し身も蓋もある言い方はないものか。
これじゃあバルサは教え子を教えるだけの道具みたいじゃないか。
「ちなみにジェイクハルトの剣の技術ってバルサから見てどれくらい?」
「ふ……」
「ふ?」
ふで始まる階級なんてあっただろうか。
「ジェイクハルト様は体格さえ大人になれば剣鳥級の実力を持っております」
「剣鳥級……?」
何だか今までの話の流れから逸れた発言に聞こえた。
バルサはあくまでも現実的な指導をしている。
それなのにジェイクハルトに関しては希望的観測を述べる。
大人になってからの話をされても正直意味がない。
「もしかして……」
「っ!?」
バルサの顔が強張った。
やっぱりそうだ。
間違いない。
「ジェイクハルトの事が好きなんでしょ!」
「………………は?」
バルサの表情が曇った。
何言ってるんだこいつ状態だ。
それも今までで一番困惑している。
僕の発言はそれほどまでに的外れだっただろうか。
「いや、バルサってジェイクハルトに甘いから、好きなのかなって……」
「そう見えますか?」
バルサの問いに僕は頷く。
お金で雇われた家庭教師とはいえ、ジェイクハルトに命令されて水龍を飲みこもうとしたくらいだ。普通の教師と教え子の関係だとは思えない。
「異性としてはどちらかと言えばクリアハルトの方が好きですけど」
「は、はぁ!?」
突然浮上した僕の名前。
なななな、何言ってだこの人。
「だってペンダントをくれましたし」
「そ、それだけ」
「ええ、それだけ」
「………」
少しだけ期待した自分が恥ずかしい。
剣に打ち込む姿がカッコ良かったとか、オセロをしている姿がカッコ良かったとか思ってくれてたのかと勘違いしたじゃないか。
「ふふっ、クリアハルトもお年頃なんですね」
「……………」
「……クリアハルト?」
バルサが笑った。
「……何ですか、その顔」
「……あ、い、いえ」
知らなかった。
バルサが笑ったら頬にえくぼができるのか。
口角が上がり、目尻が下がる。
当たり前の話だが、奇跡を目の当たりにしたくらいの驚きだ。
「もしかしてバカにしていますか?」
「全く、一センチも、一ミリも」
不覚にも見惚れてしまった。
僕がこの世界に来て一番困っている事。
それは僕の周りの人達が“美しすぎる”と言う事だ。
バルサも、マリティアヌも、クィンクも、ジェイクハルトも。
まるで絵画から飛び出してきたかのような美しさがある。
ハーレムなんて絵にかいた餅だと馬鹿にしていたが、美しいモノを集めたいのは人間の性じゃないんでしょうか。
「バルサって誰かと付き合った事あるの?」
「あるように見えますか?」
「普通に見えるかな。美人だし、スタイル良いし」
「………」
おや、バルサの様子が……。
もしかして無表情バルサからデレバルサへと進化するのだろうか。
なんて思っていたら、
「クリアハルトって意外と女たらしなんですね」
と、クィンクと同じ言葉を頂きました。
これで母上以外のオルアルク家にいる女性全員に言われた事になる。
もしかして僕って本当に女たらしなのだろうか……。
◆
◆
◆
バルサはあらゆる意味で〝効率的“だった。
「基礎魔法六種と応用魔法の違いは分かりますか?」
「応用魔法は基礎魔法を複合させて使う魔法……」
「ええ、そうです。ですが、そもそも基礎魔法とは何でしょう?」
「えっと……、言葉にするのは難しいですね」
ざっくりと言えば脳内で想像した事象を現実に持ち出すことだ。
火を放ちたいと思えば、火が点いている光景を想像する。
相性の良い魔力の色はあるものの、事象を呪文や魔法陣に変換させる事ができれば魔法として放てる……はず。
「実は厳密な違いを理解している人はこの世界に、……いえ、〝歴史上“誰一人として存在していません」
「えっ!?」
そんな馬鹿な話が合っていいのだろうか。
基礎魔法やら応用魔法やら、火やら水やら分けているのも全部デタラメ?
「一見すれば私達が開発したように思える魔法。でも本当は元々存在していた魔法を見つけたに過ぎないのです」
「やっぱりそれっておかしいと思うんだよね」
魔法の中には自然界では絶対に発生しない現象を起こすことができる。
例えば、クィンクが使う創造の魔法。
応用魔法の一つだけど彼女はそれを使って銅像や彫刻、絵画まで作り出す事ができる。
僕は一度、ヒマワリの絵を作り出して貰ったことがあった。
クィンクは基礎魔法より十行ほど長い呪文を唱えて実際にヒマワリの絵を作り出した。
まさかそれも最初からこの世に存在していたというのだろうか。
「クリアハルトの疑問こそが基礎魔法と応用魔法を分ける差です」
「……つまり?」
「基礎魔法はこの世が生まれてから今までの歴史上で起こった事象の結果を持ち出す技術です。火、水、風、雷、土、光。自然に関わる事象ばかりなのはそう言う事なのです」
「なるほど……」
「魔力量によって引き出せない場合があるのは、向こうの方がエネルギーが大きいからだと言われています」
「じゃあ応用魔法は?」
「応用魔法が基礎魔法を複合させる理由は、事象を脳内で疑似的に一度起こし、〝この世に存在している”事にしてから魔力によって現実に引き出す必要があるからです」
「ああ……、なるほど」
腑に落ちた。
すごくかなりめちゃくちゃ理解してしまった。
僕達は何の知識がなくてもボールを作り出す事ができる。
紙や木の皮でバットもグローブも作り出す事ができる。
だけど、野球をする事は絶対にできない。
何故なら野球にはルールがあるからだ。
少なくともピッチャーとバッターがいて初めて成立する。
これは無意識の積み重ねで起こす事は出来ない。
ボールとバットとグローブが置いてある部屋で、野球を知らない三匹の猿が一年間過ごせばあるいはボールを投げてバットを振るかもしれない。
でもそれは野球とはいえない。
野球をする為には参加者同士でルールを作らなくてはならない。
もしくは三回空振りしたらアウトとか共通の認識を持たなくてはならない。
つまりはそれが応用魔法の入口だ。
基礎魔法六種をほとんどの人間が使えるのに、応用魔法を使える人間が限られているのは、知識だけでは足りなかったからなのだ。現象を全て頭の中に描き、呪文に書き換え、魔力を乗せる。
発想力を問われる何でもアリの魔法だったのだ。
「逆に言えば基礎魔法はどんな馬鹿でも呪文さえ覚えて必要量の魔力があれば使えます。たまに呪文や魔法陣が合っていても何故か魔力が合わなくて基礎魔法すら使えない人もいます。そういう人を魔法アレルギーと呼びます」
「グラン将軍も?」
「よく知っていますね。彼は魔法アレルギーの中でも特に酷い症状ですね。光魔法しか使えないなんて異例中の異例です」
「でも、その光魔法がすごい威力なんですよね」
「ええ、それはもう。光魔法は主に身体強化の魔法なんですが、彼が使うとドラゴンよりも強靭な身体になります。彼の功績のおかげで最近は魔法アレルギーが病気ではなく一種の進化ではないかと言われ始めているんですよ」
「へぇ……。確かにかっこいいよね」
「まぁ、あなたは〝大好きな“クィンクの為に大賢者にならなくてはいけませんからね。基礎魔法は完ぺきに使いこなさないと」
「……は、はぁ!? なななな、なんでそんな事になってるんですか!?」
僕がクィンクを大好きだなんて、誰から聞いたんだ!?
ちなみに大賢者は基本魔法六種の中で最も難しく魔力量も大量に必要な上級魔法を使いこなせた上で、応用魔法六種を全て使えなければならない。
はっきり言って大剣士になる方が遥かに容易い道である。
「子供が年上の異性に憧れるのはよくある事ですよ」
「あー、そう言う事ですか」
「ふふっ、クリアハルトは本当にマセていますね」
「うぅ……、墓穴を掘った……」
「話は戻りますが、とにかく基礎魔法は呪文と魔法陣さえ覚えれば誰でも使えます。つまりは真面目な人が勝つのですよ」
「真面目な人が……」
応用魔法が発想ならば、基礎魔法は知識か。
……ん?
「と言う事は、どれだけ才能に溢れてても知識がなければ基礎魔法は使えないって事?」
「ええ、そうなりますね」
「……じゃあなんで、
ジェイクハルトは昔から基礎魔法を使えたんだろう」
「っ!?」
この屋敷にある本を読み尽くしても、精々初級魔法でも特に簡単な魔法の知識しか得られないだろう。
だが、ジェイクハルトは家庭教師が来る前から様々な魔法が使えた。
今までの理論が正しいならば、兄に基礎魔法を使えるはずがないのだ。
「それは……」
バルサの顔色が青ざめている。
もしかして本当にジェイクハルトは転生者で魔法の知識があるんじゃないか?
少し試してみるか。
「バルサ」
「はい……」
……なんて聞けば良いんだ。
『ジェイクハルトって転生者?』
いやいや、僕の方が長く暮らしているのにこの質問はおかしいだろう。
もっと相手の心を釣るような質問をしないと……。
『もしかして、バルサもジェイクハルトの秘密を知ってるの?』
おお、それっぽい。
僕も同じ秘密を知っているかのような態度を取れば、バルサも口を滑らすはず。
「バルサ」
「クリアハルト……?」
「………」
バルサを試して本当に良いのだろうか。
僕は生まれつき転生者を隠した臆病者だ。
今更嘘を吐く事に罪悪感を覚えても仕方ない。
だけど、本来のクリアハルトは人を騙したり試したりしない真っすぐな男……なはず。
純粋で、家族想いで、少し女たらしの面があるけど素直な子供だ。
それを穢すなんて……僕にはできない。
「いや、何でもない。忘れてくれ」
ジェイクハルトはきっとどこかで知識を得たのだろう。
父上か母上か、メイド、コック、覚えるタイミングはいくらでもある。
全てを教わらなくても片鱗を聞くだけで全体像が見えたのかもしれない。
もちろん転生者の可能性の方が高いけど、それは彼に直接聞くべき事だ。
バルサを騙して得る情報じゃない。
「クリアハルト……」
僕の後ろめたい心に気付いたのか、バルサは僕の両手を強く握った。
大人の女性の手は大きくて柔らかい。
肉が付いたおかげか女性らしい良い匂いもする。
それに、バルサの口から発せられる音はマイクのエコーがかかっているみたいで聞き心地が良い。
「バルサって不思議な声だよね。安心する」
「エルフには空気溜まりと言って、上あごに小さな穴が沢山あるんですよ」
「えっ、そうなの!? 見たい!」
「良いですよ」
バルサは嫌がりもせず、あんぐりと口を開けた。
潤んだ舌は煽情的でなんだかドキドキするけど、今はそこに注目している場合じゃない。
目線を上顎に向けると、確かにぷつぷつとした穴がいっぱい空いている。
「この長耳と繋がっていて、こんな風に――」
バルサが喋っている途中、両手で自分の口を塞いだ。
『ここからも声が出るんですよ』
長耳が微妙に震えていて、そこから声が漏れていた。
口から発せられる声よりも小さかったが、確かに言葉を紡いでいる。
「クリアハルト、手を出してください」
「こう?」
手の甲を上に向けて、バルサの前に移動させる。
するとバルサは僕の手をぱっくりと口の中に入れてしまった。
「ちょ、ちょっと!? ……え?」
何をするのか焦っていると、バルサの上顎からプシュプシュと無数の空気が漏れた。
それだけではない。
上顎がポコポコとマッサージ機のように様々な場所で僕の手を押したり引いたりした。
時折舌のように指をくるんだりもしている。
『さて問題です。上顎の進化はどういった理由で起きたでしょう』
長耳から繰り出された問題に僕は首を捻る。
エルフがエコーのように声を出せるようになった理由。
上顎に空気溜まりと呼ばれる特殊な器官ができて、長耳を通して喋る事の出来る理由。
うーん、生態を考えるとやっぱり魔法に関連した進化だろうな。
エコーを掛けることで魔法の威力が上がるとか……。
いや、それはない。
魔法は魔力量で威力や効果範囲が決まる。
声は呪文を放つための手順に過ぎない。
魔法に関わる進化だと仮定すると、この進化は手順の進化と言える。
例えば口を塞がれた状態でも魔法を放つため。
でも、進化って何世代にも渡って起きる現象だから、何世代にも渡って口を塞がれるなんて考えにくい。仮にそうだとしたら呪文より魔法陣に頼った方が良いだろう。体のどこかに魔法陣を写し出せるとか。
同時に二種類の音を出す為だろうか。
二つの呪文を同時に繰り出せば、一度に二つの魔法を使えるかもしれない。
「ちなみに同時に違う言葉を喋れたりするんですか?」
『無理かな。器用な人はできるかもしれないけど、そもそも同時に二つの事なんて考えられないから』
確かにそうだ。
僕なんて一つの事でも滅茶苦茶になる時があるのに。
他に考えられる事があるとすれば……。
エルフは兎と密接な関係がある。
兎は耳が長い。
そして寂しがり屋で臆病。
もし僕が兎だったら、エルフみたいな大きな種族と出会ったら一目散に逃げるだろう。
例え仲良くなっても、声の大きさに怯えるかもしれない。
「分かった! 分かったよバルサ!」
『どうぞ?』
って、いつまで口に入れたまんまなんだこの人。
さっきからモグモグして心なしか美味しそうな顔してるし。
「兎さんと仲良くなるためでしょ!?」
『………』
「兎さんは臆病だから、大きな声が怖い。エルフがあんぐりと口を開けたら食べられるんじゃないかと思って怖いはず。エルフは兎さんと仲良くしたいから長耳で喋れるように進化したんだ!」
ありえない話ではない。
動物はコミュニケーションを図る為に様々な進化を遂げてきた。
超音波、ドラミング、鳴き声、羽の色や模様、バリエーションは無限にある。
エルフの空気溜まりが森の仲間である兎の為であっても、何ら不思議ではない。
これは正解だ。間違いない。
バルサは僕の手を口から離した。
ねっとりとバルサの唾液が付いている。
……な、舐めたりなんかしないからな。僕は紳士なんだ。
「クリアハルトって……」
「う、うん……」
何だろう。
天才って言うのかな。
そりゃエルフの進化をたった数分で解明したんだから、天才という言葉では足りないかもしれない。
バルサの口から放たれた言葉は――、
「けっこう馬鹿なんですね」
一言だけだった。