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国狼  作者: 壇狩坊
3/7

       2013/08/08 AM12:00

「全く、何をしているの」

 朦朧とした意識の中、聞いたその声に僕はハッと目を覚ます。

 目の前には、淡麗な顔つきに、長身という美形の女性が一人、ソファに横たわった自分の隣に立っていた。

「…誰ですか」

 丁重に、僕は聞いた。

「人に物を尋ねる時は」

「鎌ヶ谷。鎌ヶ谷宗太。僕の今の名前だ」

 僕は即刻答えた。警戒していることを彼女にわざと伝えるためだ。

「ん…」

 言いたいことを速攻で悟られたためか、美形の女性は微妙に眉をひそめる。

「今ってのが気になるが…まあいいか。

 アタシの名前は、天井いろは」

「天井…いろは、だって?」

 少々僕は自分の記憶を探った。だが、どうやってもあの時見ていた彼女とは容姿と口調が違いすぎる。同姓同名などという都合のいいトラブルはもっと考えにくいはずだ。

「落ち着けよ…」

 と、彼女は自分へと湯気の立つコーヒーカップを差し出した。

 さすがの僕も、手放しにそれを口にすることは憚られるため、横へ置く。

「毒なんか入っちゃいないよ」

「僕、ブラックは飲めない」

「おこちゃまかよ」

 フフン、と彼女は適当に笑う。

「順をおって説明するが…私は天井いろは、本体だ」

「本体?」

 そう、と彼女はズズ、とコーヒーを啜る。

「さっき…ま、たった二時間前のことね。浪白渉平とカウス・クラウスに付いて行った方の天井いろは…アレは偽物だ」

「偽物…?」

 それは、おかしくないか?

「僕は覚えているよ…。八人が集まった、あの七月二〇日に、彼女…そう、浪白たちに付いて行った彼女が確かにいたことを」

「そうだな。何も間違っちゃいない」

 彼女は、言う。

「だから、もう天井いろはの持つ百万の札束は、もうない」

「…申し訳ないけど、ちゃんと順をおって説明してくれない?」

 前置きも何もあっちゃいない。

「…浪白とカウスに付いて行った方の天井いろは…彼女の本名は秋川楓といってね。とある事情で私と変わって、楓が天井いろはとしてこの最終国狼試験に出場してんのさ」

「はぁ…」

 どういった理由なのかはともかく、そういう事情なのだろうと僕は無理矢理に納得した。

「札束は被試験者が常に肌身離さず持っていることが、ひとつの例外をのぞいて絶対だからね。呆気無く、楓は一日目――八月一日――に完膚なきまでにやられたよ」

「なるほどね…つまり」

 僕は身を起こし、切り出す。


「開始早々、僕たちは負けたんだ」


 数秒の沈黙が、部屋の中を包み込む。

「まー勝機がどう考えてもねぇとは思っていたからな…。序列最下位のアタシ…いや、私らと四位のアンタとじゃあ、ハッキリ言って二位三位のコンビにゃ立ち向かえっこなかったてことさ」

「そうか…」

 僕は、小さく答えた。

 と、いろはは僕の隣へと座り、不意にフッと笑った。

「アンタも、そんな感じじゃないね」

「え?」

 僕は驚き、彼女の目を見る。

「ほら、国狼試験っつーのは誰もが憧れ、その誉れを手にしようとして生まれた時からそのために育てられたやつだって居るっつー話しだろ?」

「あぁ…まぁ確かにそういう家系もあるらしいね」

「それで、…まあアンタがどういう事情を抱えてるのかは知らんが…。

 せっかくこんな最終国狼試験にまで辿り着いてこんなあっさり落第だなんて。鎌ヶ谷、と言ったか。アンタ、そういう落胆が見えないんだよ」

 言われ、僕は今の僕の心のなかを鑑みる。

 落胆…か。それは。

「…ないね」

「だろう?」

「でも、君だってそうみたいだけど」

 ハハハ、と彼女はから笑う。

「ま、アタシは…アタシらは、とにかく楽しけりゃなんでもいいからね。

 さっきのごちゃごちゃの説明の続きになるんだけどさ、アタシこと天井いろはと、連れ去られた秋川楓。…なんだけどさ、実は、あと四人くらいスペアがいるんだよ」

「スペア?」

 スペア、という試験には縁のなさそうなワードに僕は首を捻る。

「ほら、試験ってさ毎年四月に始まって、日毎に分けて長期間で審査するだろ? だからアタシらは、「一人の名前で七人がそれぞれ得意な分野の時に出場する」っつー明らかな不正を行っていたんだよ」

「そ、それは流石にバレなかったのかい?」

「準々までは細かい審査も無かったしな。だから、特筆して全てが出来るわけじゃないアタシらが、こうして何とか最下位ながらも最終国狼試験にまで立ち上ることが出来た。

 言っちゃなんだが、半分お遊びで始めたようなもんなんだよ。

 だから」

 と、彼女は諦めるような表情を浮かべ口端を浮かべた。

「…だから、アタシらは負けてもいいのよ」

「…ふうん」

 と、僕は適当に相槌を打った。

「で、どうして最終的に正式に「天井いろは」として選出されたのが、その秋川楓って人なんだい? 君の名前でこの国狼試験に出てるってことは、君はいわゆるリーダー格なんじゃないのか?」

 だとしたら、目の前にいる彼女こそが正式に表立つはずだ。

「む…意外と興味を示しているのね。

 それに関しては単純かつ迂闊な話さ。準最終国狼試験の内容が楓ちゃん向きの内容でね。そこまではよかったのだけれど。

 …生まれえた誤算は、その試験が終了した流れのままにその日最終試験の説明、候補者の選定に移行しちゃったってこと。

 仕方なしに、私たちは楓ちゃんに国狼になるその権利を譲ったのよ」

 簡単にまとめると。

 天井いろはの名前で出場したものの、秋川楓が今はいろは役として出てしまっているということ。そして、目の前にいる彼女こそが、本物のいろはだということ。

「しかし、国狼試験もずさんだね…そこまでそんな大いなる不正に気付かないとは」

「まぁそれは、こっちのとあるトリックがあるってわけよ」

 だとしたら、と僕は思う。

 この目の前にいる彼女の他五人をまとめるカリスマ性も、もしかしたら国狼たるに十分の素質なのかもしれない。

 ましてや、その七人の統率力は一般の国狼以上なのだろう。

 なればこそ、個々の弱さを他で補っているのだとしたら。

「君たちは、本当にこの最終試験とはことごとく相性が最悪だったね…」

「そうゆうこと」

 ルールの一つに記載されている。片方のタッグに、直接的攻撃を持って第三者が加担することを禁ずる。

 これは、明らかな膨大数を用いて圧倒的な偏りをどちらかのタッグへと与えないようにするため与えられたルールだ。

「聞いた限りの情報を纏めるとさ…」

「うん」

 僕は冷徹に言い放つ。

「君が本物の天井いろはだったとしても、この試験においての天井いろはは秋川楓。

 つまり君は、全くの部外者ってわけだ」

 ベシッ、といろはは僕の頭を叩く。

「正直に言い過ぎだ」

 ハハ…と僕は小さく笑う。

「オブラートに包むべきだった?」

「デリケートな乙女心に気づくべきだったな、鎌ヶ谷」

 とまぁ。

 僕から言わせてもらえば。

「まだ勝機は、あるよ」

「え…?」

 言わせてもらおう。全ては、国狼になるために。


「この試験ってさ」

 僕は、勝負はまだ続いている事実を提示しつつ、この試験そのもの、始まり方についての意見を述べていた。

「八人の中でお互いの敵とタッグ仲間の名前だけは知っていても、八人の内どれが自分の敵とタッグ仲間の顔なのかわからないっていう、ちょっと不思議な始まり方だったんだよね」

「…確かに。だけど、その程度、そのくらいのルールの壁をアイツは…浪白は悠々に飛び越えてきたぞ」

「それなんだけど…一体、どうして浪白はそんな条件下であの秋川楓という女の子を、この中小市街区の一角の中からピンポイントで見つけ出すことができたんだ?」

 それなんだが、といろはが取り出したのは、一枚の書類だった。

「…ハッカー…ね」

 紙に書かれていた情報を見る限り、浪白の正体は、多彩な才能を発揮しつつもその最大の長所はこの世界に循環する情報網をかいくぐるそのハッカーとしての才能らしい。

「これはどこで?」

「あ…えっと、…新聞だ」

「新聞?」

「あぁ」

 いろはは声色を潜めていく。

「随分前に、浪白渉平っていう名前自体は聞いたことがあったんだ。五年近く前だったかな…その時の世間でニュースになった内容っつ―のが」

 これだ、といろはは書類の下部へと指をさす。

「浪白渉平。わずか一三才ながらもそのハッキング能力と格闘技能力を持って、金融機関を襲った数十名に及ぶ強盗グループをたった一人で撃退…。

 国からの賞を受け取るも、それを受け取るやいなやそれ以来身を潜め、一切として世間に自分の姿をしらしめることはなかった…と」

 要約するならば、いわゆる科学、武道共に優れた天才というわけか。

「若いねー」

 僕は気さくに呟く。いろはが言ったことが確かならば、今現在は一八才ということだろう。

「そんなことはどうでもいい。

 とにかくそのハッキング能力…いわばここら一帯の監視カメラを通じて、アイツは楓のことを見つけたんだろうな」

「でもそれって、随分と無理がないか? 監視カメラをハックして、それら全てを閲覧できるとして、その中から秋川楓たった一人を見つけ出すだなんて…」

 そうだな、といろはは肯定する。

「ただ…そういった情報収集力をもってして楓のことを見つけ出したことは明白。

 となれば、勝つための機会ってのは結局格闘スキル第一位であるはずの鎌ヶ谷宗太、アンタの腕っぷし一つにかかっていたわけだが…」

「負けてしまっていた、と」

 まるで、他人ごとのように僕は言う。

「で、なんなんだよ、お前の言う勝機ってのはよ」

「あぁ…そうだったね」

 いつの間にか、論点がずれてしまっていたようだ。既に終わってる秋川楓とやらの事情などどうでもいいというのに。

 だが、浪白渉平の最大の武器が情報収集力だということが知れたのは大きい。彼女との邂逅も、何も無駄ではなかったようだ。

「その前に、聞きたいことがある」

「…なんだよ」

 うんざりするように、いろははこちらを鑑みる。

「君はまるでこの勝負に負けても、一切合切問題がなく、全く後悔が残らないとさっき入っていたけど」

 僕は、いつものように彼女の目を睨みつける。


「本気で言っているのか?」


 ブルリと、天井いろは身を震わせた。彼女は何かはわからない、得体の知れないそれに畏怖を覚えてしまったのだ。

「…ほ、本気っつーか…結果が見えちまったら、もうどうにでもなれっていうか」

「そうか」

 僕は、失望し、立ち上がる。

「僕は、絶対に負けたくないけどね。

 惨めに見栄だけを張り続ける、君と違って」

 途端。

 ガタン! と鈍い金属同士がぶつかり合う音がその一室に広がる。

「んだと…もう一度言ってみろ」

 天井いろはは、その大人びていた態度とは一変し、立ち上がった僕を追うようにして胸ぐらをつかみ、バンッと壁へと叩きつけた。

「そうだ…そうやって、見かけだけを取り繕って、最後の最後にプライドが高いことでボロを見せる…。

 まるでクズの典型じゃあないか」

「クズねぇ…! 言ってくれる!」

 ググッ、とそのつかむ手は上へと上がり、僕はいつの間にか彼女の手にぶら下がる形になっている。

「人は例えどんな時であろうと冷静さを失うべきではない」

「ナメてるな」

「いいや」

 僕は彼女の、力がこもり服を握った右手にゆっくりと手を添え、口にする。

「むしろ、面白い」

「は…?」

「君の本当の心の声を聞いた」

「…」

 彼女は、ゆっくりと添えられた力をゆるめ、僕を床へと下ろした。

「よかったよ。僕のパートナーが、国狼になれなくても一切の未練、後悔を残さず、明日から笑っていけるような狂気的な人間じゃあなくて」

 僕は、安堵し息を吐く。

「だ、だけどよ…もう試験は終わっちゃったんだろ? その目で見たろ、お前の札束が浪白本人の手にわたっていく、その瞬間を」

「一つ、聞く」

 僕は、一本指を立てて彼女に問う。

「もしも、最低最悪な条件下。君が裸一貫の状態で完全武装の浪白渉平とカウス・クラウスと戦い勝利することが出来たら、君が…いや、楓が国狼になれるとして!」

 僕は、彼女の目を掴む。

「君は、どう出来る?」

 いろはの息を呑む音が聞こえる。

「そんなのは…」

 不安そうな、彼女の声。痺れを切らし、僕は叱咤をかける。

「目を逸らすなっ!」

「っっ!?」

 いろははビクンとその身体を跳ねるように反応してしまい、その視線は固定される。

「ど、どんな…」

 ゆっくりと、言葉をつなぐ。

「どんな卑劣で、非人道的な手段を使ってでも」

 そして、最後にはきっぱりと口にした。

「アタシは、足掻く。負けないために」

 その目は確かなものだ。僕は確信する。

「安心した。君にとって、楓という子は、いわば自分の家族…いや、身体と言ってもいいのかもしれないね」

「…そのぐらいの感覚だね。親友だなんてありふれた表現で収めるのも酷ってもんだ。

 それよりアンタ…一体どういう人格してんだか」

 呆れるような、恐れるような。

 そんな表情で、飄々といろはは僕に言葉を投げる。

「ハハハ…二重人格とでもいえばいいのかな」

「二重人格か…」

「嘘だ」

「嘘かよ」

「でも、似たようなものだよ。僕は自分を完全に客観的に操作することが出来る…つまり、自由自在なんだよ」

「ゴメン、言ってる意味分かんない」

「まーいいよ。こんな事を他人にしゃべるのなんて、只の二回目だよ」

「それじゃそろそろ、ちゃんと教えてもらおうか」

 いろはは、形相を変え、僕を見る。

「大丈夫」

 僕はすっかり冷えきってしまったコーヒーを啜り、落ち着いた表情で口にする。

「君の言った通り、彼、浪白が情報通だというのならば、その答えはもうじきに出る」

「え?」

 と、そこでティリリリ、と電子的な音が僕のポケットから鳴り響いた。

「早かったな…天井さん」

「え?」

 ティリリリ。

「長々と話しておいてなんだけど…ここは一体どこだい?」

「ア、アタシの家…ていうか、マンションだけど」

 ティリリリ。

「そう…何階?」

 電話音が響き続ける中、僕は簡潔に問答を繰り返す。

「最上階」

「そう」

 ティリリリ、プッ。

 僕はその少し古びたケータイを開き、スピーカーホンをオンにして通話モードにする。


『姑息な真似をしてくれたな、鎌ヶ谷宗太』

 その声は、つい二時間ほど前に聞いた浪白の声であった。

「僕はたしかに持っていましたよ」

 慎重に、そして緊張を悟られることの無いよう、僕は言葉を繰り出す。

「え? え?」

 戸惑っているいろはに、手を使い合図を繰り出す。

『…被試験者が常時その百万の紙幣を持っていなくても良い、たったひとつの例外。

 本人同士の委任があれば、十分間の貸与、もとい預金が可能…とあるが』

「確かに、ルールの一つに、そんな項目がありましたね」

 この最終国狼試験におけるルールは八人全員が持つタブレットに全て収録されており、それらを全員が読み終えていることを前提として試験は進められている。

 とはいっても、そう長ったらしいものではなく、複雑なものは今浪白が言った貸与法くらいのものだ。

『俺は確かに調べたんだぞ…? お前のポケットから札束を取り出し、確かに百人の諭吉がこちらを仏頂面で見ているところを!』

「貴方が調べたのは、僕の胸ポケットだけ…そしてそこから大雑把に百枚の1万円札があることを確認すると、即座に立ち去った。

 すこし、甘いかもしれませんね」

『本当に、正々堂々と戦う気があるのか…? 小賢しい真似を…!』

 ギリリ、と歯噛みをする音がこっちまで聞こえてきた。

「保険ですよ。これからどう転ぼうとも…1対二である以上、僕に敗色の色が濃いのは変わらないでしょう」

『それでも、俺はあそこで、あの場で勝ったはずだった!』

「…」

 僕は、何を言うことも出来なかった。

 少し思い違いをしていた部分があるようだ。この浪白渉平という男は、傲慢であるようで、実のところそうではない。

 現に、彼は今あの時の軽率な行動を後悔している。後悔というものは、頭が悪い、プライドが高い、成長することの出来ない人間には、実は出来ないことなのだ。

 僕は少しだけ背中に冷たいものを感じた。それは、きっとこれから来る彼の脅威を予見してのことなのだろうけど。

『腕っぷしだけが自慢だという鎌ヶ谷とやらも…蓋を開けてみれば、こんな卑劣な行動ばかりに頼る、か。…だが、その卑劣さに気づくことの出来なかった俺も、きっと未熟さのかけらをひた隠し出来ていないということだろう』

 つまり彼は。

 自分の弱さを知っている。

『どうしてああも、カウスに圧倒的に負けた?』

 その時、少しだけ音声が乱れたようにも思えたが気にせず応答した。

「…知っているでしょ? 僕が彼女に君への裏切りを図っていたこと」

『分かっていたんだろう? 本当は。お前が、逆に裏切られる側になることなど』

「想定はしていたけどね」

 と、僕は声色を少し変える。

「だけどそんな事言ったらズルいのはソッチじゃないか! 僕がいない間に、いろはのことをフルボッコにするなんて!」

 と無邪気に言ってみるものの、浪白は冷静に受け流す。

『…貴様が期日も守れないような未熟者だからいけないのだろう。

 それに、俺は勝つための方法は選ばない主義だ』

「だったら、僕の手段だって、れっきとした手段じゃないか」


『だから、否定はしていないだろう』


 ハハハ、と。僕は、少し大袈裟に笑った。

「面白いこと言うね」

『今のは俺も好きな部類だ。

 だが言い得て妙ではないか。人間都合のいい時に手段を選ばないなんて口にはするが、そんな、人が取ることの出来る手段の数なんて、せいぜいしれていると思わないか?』

「同感。選べるほどの手段の数があるんなら、それは選べないほどの危機ではないように思えるね」

 いわば自分がそのような自体にあることを敵に悟られぬよう、口にする。

『ところで、どうだ』

 不意に、彼は声のトーンを落とす。


『今俺は、お前らのいるマンションの最上階、それもドア前にいるわけだが?』


 ドガアアァァァン! と、重い、カギのかかっていたはずのドアが壊れる音がマンション中に響いた。

『流石カウスといったところか…さて、大人しく残りの1万円札を差し出した所でタダじゃあ済まさないが…』

 カツカツ、と土足で上がる彼の足音に、僕の心臓のペースは限界に達した。

 バン、と勢い良くリビングへの扉が開け放たれた所で。

『…っ、』

 電話先より、あからさまな舌打ちが聞こえる。

 そして、一つ音声が鮮明になる。

『お前が例えこれ以上俺を翻弄し、腕っぷしだけで上回るとしても。

 お前が勝てると思うな。俺の勝利は揺るがないッ!!」

 浪白は、その時目の前にあった二つの受話器を足で思いっきり踏みつけ粉々にした。

 ツーツーと閑散な音が聞こえたその時、僕は電話先ではなく、一つ上の階から勢い良く窓が開け放たれた音を聞いた。


「とりあえず、安心していいよ」

「ふぁあああああぁぁ」

「こら、あんまり大きい声出すな!」

「心臓飛び出すかと思ったんだもん」

「生物的に有り得ない」

「冗談通じないかなぁ」

「慣用句、ことわざなんてのはいわば冗談だろう? …得意気に使って楽しんでいる人間の気持ちが僕にはわからない」

 面白くもなんともない。特に読書なんかしてると作者の自慢気な顔が嫌に浮かんで気味が悪い。

「しかし、丁度下のフロアが秋川楓の住宅だっただなんて、ラッキーだったよ」

「ホント、危ないことしてくれるよ…」

 僕らの取った行動は、全て筆記でのやり取りであった。

 僕がいろはの指示したことは、まず初めに天井いろは自身の家の電話へと天井いろはの持つ携帯電話でコールをかけることであった。

 そうすることによって、掛けてきた僕の携帯電話といろはの現住宅の電話機を発声側と音声入力側を相互に重なり合わせることによって、天井いろはの携帯電話で浪白へと通話が出来るという環境づくりに二つの電話機を無駄にすることで可能にした。

 浪白が追跡しているのは僕の携帯電話だ。情報系の彼が唯一僕を追うことの出来るモノなどそれしか無い。いつどこでどのようにして僕の携帯の位置情報手に入れたのかなどは知らないが(大体の見当はつく)とにかく今僕の隣にいるいろはの存在自体を浪白が知らない、という状況を利用した手だった。

 あとは即座な追跡が不可能ないろはの携帯を手にしてどこかへと立ち去ってしまえばよかったのだが、彼女の住所はマンションの最上階。そうそう逃げ場などあるはずもない。

「よくあんな何も聞かずにしたに飛び降りたよね、鎌ヶ谷も」

「必死だったんだよあの時は」

 ブラン、といった感じに僕はとりあえず一つ下のフロアへと通話しつつ窓から飛び入った。そこで初めて知った事実がここが秋川楓の自室だった、ということは思わぬ副産物だった。

「全く知らない別人だったらどうするつもりだったのさ」

「そりゃ、昏倒させるしか無いだろうね」

 僕は飄々に言ってみせるが、実際そう簡単にもいかなかっただろう。

 一度でも悲鳴があげられてしまったら、それは浪白へと自分の居場所を教えていることにほかならない。本当に、ケガの功名に近いそれがあった。

 して、そこからの工作は更に巧妙でなくてはならなかった。窓から逃げたとなれば、当然上にいる浪白とカウスは窓の鍵が開いていることから、青空のもと、下を見る。

「私の友達がいなかったらどうするつもりだったのさ」

「きっと逃げられなかったかもね」

 僕はいろはへと頼み、秋川楓の部屋から電話でマンション二階に住んでいるいわば天井いろは六人衆の一人らしき人へと一つの要望を申し上げた。

「この保険は高いよ…?」

「でも無かったら死んでたかも」

 それこそ比喩でも何でも無いのだが。

 僕からいろは、いろはからその女子へと伝えられた内容は以下のものだった。

[上から落とす服を着て、フードを被り最上階から見えるよう遠くへ早足で逃げろ]

 僕が筆跡でいろはに伝えると、彼女は快く了承したらしい。やはり、これは国狼たるに相応しい団結力なのかもしれない。

 その行動が指し示すのは、「鎌ヶ谷宗太の逃走」の芝居だ。

 落とした衣服は全て、浪白渉平の前で見せた特徴的な色を使った衣服であり、それを下に辿り着いたもう一人の天井いろはが装着する。

 するとどうなるかといえば、この高層マンションの最上階から浪白はゆっくり逃走するその姿を見て歯噛みするのだ。

 何故ならば、人の先入観というのは、そう簡単には消えない。

 視界の中に「鎌ヶ谷と同じ服を着て、フードを被り丁度マンションを出て、早足に逃げる」姿を見て、浪白が「あれは鎌ヶ谷ではない」と思うわけがないのだ。

 最終的に彼はこう思う。「鎌ヶ谷はもう既に窓から一階へと降り、ほぼ逃げ終えている」と。

 人の心理へと踏み込んだ、これら一連の陽動にはあまりに不確定要素が多かった。

 それでも、今こうしてゆっくりと息を吸い、吐いている。

 勝ったのだ。いわば、防衛戦に。

「それで、これなんだけど」

 と、僕はむわんとした靴下を脱ぎ、その裏に隠された一枚の1万円札をいろはへと見せる。

「そ、そんなところに…あ、だから、まだ負けてないってことか」

 負けていない。

 その理由は、ルールの簡略化による穴を利用することによって僕は生き残ることが出来たからだ。

 ルールには「百万の紙幣を常に身に持っていなければいけない」とある。だからこそ、他の偽札を間に挟んではいけないなどというルールもなければ、一枚だけこうして靴下の裏に貼り付けておくことだって反則ではないのだ。

「臭そうな一万円…」

「そう言わないでおくれよ。手段は選べないんだから」

 選べない、彼との会話を思い出しつつ僕は口にした。

「だけど、偽札なんてどうしたの? 普通にコピーしたとか?」

「そうだけど?」

 それもカラーコピーだ。

「今紙幣ってそうゆうの出来なかったと思うんだけど」

「間にビニールを挟めば大丈夫なんだよ」

「紙質とかは?」

「似せることは可能だ。何度も何度も水を染み込ませて、乾かして…ってね。ポイントは元の百万…いや、九十九万も同じように手順を踏ませることかな」

 ハッキリ言ってココらへんの小細工がバレるかどうかは微妙な線ではあった。

 上手く言った所で、気になることが、僕にはあった。

「敵の百万を奪ったらさ…どうすればいいの?」

「そりゃ…国狼試験官に提出するんでしょう」

「だろうね…けどさ」

 僕は不敵に笑う。


「一体、偽札を提出した浪白は試験官になんて言われたんだろうね?」


 うーん、といろはは考えこむ。

「一枚違いますよ―…とか?」

「まあ順当に考えればそうなるよね…だけど」

 節目を置くように、息を吐く。

「ただ単に、「一定枚数に到達していない」と言われたとしたら、それは最高に楽しいことになると思わない?」

「…よくわかんない」

「そっか」

 二人は同時にフゥと息を吐いた。

「何にしても、これからどうするかだよな…」

 二人は再考を開始した。

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