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序章 運命の再会

眼下に広がっている色とりどりの花々。どれもが見事に咲き乱れ、自分の存在を主張しているかのようだった。小さい花も大きな花も、青々とした葉を天に向かって一生懸命に伸ばし、陽の光をいっぱいに浴びている。

李音(りおん)は花畑の中をゆっくりと歩きまわっていた。李音はきれいな花を見つけては、丁寧に摘み取ってゆく。

李音の手には、すでにたくさんの花が握られていた。

ちょうど、美しい霞草を見つけたとき、にわかに強い風が吹き、漆黒の腰まである長い髪があおられた。

乱れた髪を押さえながら、李音は手に持っていた花束を抱え込み、風に背を向けて体を丸める。

強風が去り、李音は周りを確認しながら、そろそろと立ち上がった。ずいぶん持っていた花を飛ばされてしまったようだ。がっかりしながら衣の裾に付いた土を払い、先ほど見つけた霞草に手を伸ばそうとしたとき、鋭い視線を感じた。

恐る恐る気配をたどり、気配の主に目を向けた。

丘の上に人がいる。よく見ると、若い男であった。男は李音を射るような眼差しで見ている。李音はその視線に身を強張らせた。

男と視線が合い、李音は身動きがとれなくなった。睨んでもいないのに、この威圧感は何なのだろうか。

(怖い……。誰?)

「お前は何なのだ? なぜ、このようなところにいる?」

 いつの間にか、男はすぐ目の前に立っていた。低く落ち着いた声で李音に問いかける。

「私は……り……」

 男の威圧感に負けて、うまく話せなかった。どうしてか声が出ない。

 顔を上げて男の様子をうかがうことすらもできなかった。

「どうした? お前は何だと聞いている。答えよ」

 男はさらに声音を低くして問う。

 李音はまた口を開こうとした。しかし、声が出ない。

「話せないのか?」

 李音は慌てて首を横に振る。答えなければ、声を出さねばと強く思うほど、余計に体は硬直し、舌がもつれる。

 男は腰に長剣を携えていた。それを見て、李音の体はさらにかたくなった。

 李音が硬直していることに気づいた男は小さく溜め息をつく。

「お前の名は?」

 口調が少しだけ柔らかくなった。しかし、圧迫感が消えたわけではない。

 李音はゆっくりと顔を上げた。せめて、顔だけでも確認しようとする。

頭一つ分ほど高い男は、ずいぶんと整った顔立ちをしていた。ただ立っているだけなのに、それだけで絵になっている。

今もなお、切れ長の目は李音をまっすぐ見つめていた。再び視線が合い、今度は目が離せなくなる。

男の濃紺の瞳は闇のように濃く、感情の起伏がわからなかった。

「名は?」

「李音」

 李音は問いかけに無意識に答えてしまっていた。

「李音というのか?」

 李音は操り人形のようにこくりと小さくうなずいた。

 男は瞳と同じ色の綺麗な長い髪を頭のうしろで高く結い、綾紐で結んでいた。

軽装ではあるが鎧を纏う体は、華奢であるが弱々しくはなく、ほどよく鍛えられた

体躯が衣の上からでもよくわかった。

 そよそよと緩やかに流れる風が二人の髪をさらってゆく。

 二人は無言のまま、しばらく見つめあっていた。

 いつの間にか、まだ明るかった空は黄昏初めていた。陽はすでに山々の間に隠れ始

め、丘は見る間に朱色に包まれてゆく。

どこからか鐘の音が聞こえる。その音で李音は、はっと我に返った。頭にいつもの

冷静さが戻り、慌てて丘の上に目をやる。丘を少し登ったところに李音の住む琥珀(こはく)村があるのだ。先ほどの鐘の音は、おそらく琥珀村の鐘だ。仕事の終わりを告げる鐘だろう。これが鳴り響けば忙しい一日が終わる。そして、それぞれの時間がやってくるのだ。

「大変! もうこんな時間!? 帰らなきゃ……」

 李音は目の前に立つ男に軽く頭を下げ、摘んだ花を持って、丘の上に向けて駆け出そうとした。しかし、後ろから強い力で手首を引かれる。

「離してください!」

 李音は男を振り返り、きつく握られた手から、なんとか逃れようとする。だが、李音が男の力にかなうはずがなく、抵抗は無意味と等しかった。

「まだ話は終わっていない」

「私は帰らねばいけないのです。どうかお離しください!」

 決して離そうとしない男に李音は懇願する。

「駄目だ。話は終わっていないと言っただろう」

「私にとってはもう済んでおります」

「俺には終わっていない」

 男はぼそぼそと小さく呟いた。李音の拒絶を受け、少しだけ口調が沈んだようだ。それでもなお、感情の起伏がわからぬ瞳でずっと李音を見ている。

「では手短にお話くださいませ。できれば、三十字以内でお願いしますね」

 丁寧な態度を崩さないでいるが、内心はかなり苛立っていた。

 しかし、李音は男の話を少しだけ聞くことにした。男は聞かねば腕を離すことはないだろう。

急がば回れだ。願いを聞いてほしいなら、まずは相手の願いを聞きなさい、と琥珀村の教えにあるのだ。

琥珀村は山の部族が起こした村だ。そのため、部族の教えや習慣、儀式等は今も、村にしっかりと受け継がれている。

 李音が話せというと今度は、男が黙りこんだままだった。なんだ、この男。訳がわからない。

「あの。あなた、お名前は?」

 黙りこむ男に若干苛立ちながら、李音は尋ねた。さっさと話を終わらせてしまいたい。このまま沈黙が続くなどまっぴら御免だ。

 うつむく男を、李音が覗き込む。さっきとはまるで立場が変わっていた。

 長髪を同じ、美しい漆黒の瞳に見つめられ、男は顔を逸らした。

「……(りょう)という」

 男はぽつりと呟き、再び李音に向き直った。

「稜さまとおっしゃるのですね。よいお名前です」

 李音は心からの微笑を浮かべ、稜を見つめ返した。李音は苛立ちを抑え、言葉遣いや振る舞いまで、完璧な演技をした。李音はなんとしても、早く帰らねばならないのだ。仕事をさぼって、ここへ来ているのだから。

稜と名乗った青年は、やや照れたように、頬を赤らめて頭をかいていた。まるで子どものような反応が、さらに笑みを誘う。

「後ろを向け」

「えっ?」

 稜の突然な物言いに、李音は素っ頓狂な声をだした。

「後ろを向け。こちらに背を向けろと言っている」

 稜の言葉に、李音は首を傾げながらも素直に従った。

 手を掴まれたままだと、体の向きを変えにくい。李音は一度、稜を上目づかいに見やったが、稜は気づく様子もない。

 なぜ、このようなことをいきなり命じられるのか不思議でならない。やはりこの男、訳がわからない。

 すぐ後ろで稜が動く気配がした。静かに手首が離される。

 それに李音がほっと息をついたとき、ゆっくりと何かが髪に触れた。

「――!」

 李音の顔が見る間に赤く染まる。またもや、李音は固まってしまう。

「美しい髪だ」

 稜は優しく李音の髪に触れ、髪を簡単にまとめていた粗末な紐をほどいた。長い漆黒の髪がさらりと肩にかかる。

「何を……!」

 李音は慌てて振り返ろうとしたが、稜に制される。

「動くんじゃない」

 何をするかとはらはらしていると、壊れ物でも扱うかのように、稜が李音の髪をまとめ始めた。

「何!?」

 驚いた李音が大きく身じろぎする。

「じっとしてろ」

 稜の抗い難い声と共に一瞥され、仕方なしに李音は大人しくなる。

 なぜだろう。稜に逆らえない。剣を持っているからというのもあるが、心のどこかでそう感じさせるものがあった。

 稜は慣れた手つきで李音の長い髪を高く結い上げ、何かで結んでいる。

「これでいい。もういいぞ」

その声に李音はゆっくり振り返った。同時に稜が一歩退く。

李音はゆっくりと結ばれた髪に触れた。風になびく髪は美しい李音の色香を引き立てる。それに稜は密かに見とれていた。

 それとは違い、李音は青くなっていた。

「何よ、これ?」

 李音の目線は稜が先ほど、李音の髪に結んだ綾紐に向けられていた。薄紅と黄色の糸で編みこまれた紐は上品で、李音の漆黒の髪によくあっている。

「綾紐だ」

 稜は当たり前のように答える。

 李音の怒りはとうとう頂点に達した。拳を握りしめて怒りを抑えようとするも、もう抑えられる訳がなかった。演技のことなど、とうに忘れ李音は稜を怒鳴りつけた。

「見ればわかるわよ! そんなこと! 私が聞きたいのは何でこんな物をつけたのかってこと! さっきから訳のわからないことばかりして。いい加減にして!」

 早口でまくしたて、李音はそっぽを向く。それには稜も少しばかりむっとした。

「こんな物とはなんだ!? せっかくつけてやったのに!」

「つけてほしいとなんて、頼んだ覚えはないわ」

 稜が言い返すと、間髪いれずに次の言葉が降ってきた。女はこれだから手に負えない。

(なんて女だ……)

 稜はある目的でここへ来た。その目的の中にはこの李音という娘に会うことも含まれていた。だからこうしてはるばる山を登ってまで着てやったのに。あんまりだ。

 これ以上、言い返すと埒が明かなくなる。そう即座に判断した稜は気持ちを切り替え、声音を変えた。

「約束の証だ」

 その言葉に李音の表情が、次第に元に戻ってゆく。

「約束の証? この紐が?」

 李音の問いに稜はこくりと頷く。李音はまた、まじまじと綾紐を見つめた。よく見ると綾紐はとても繊細で美しかった。

「でも、何の約束? それこそした覚えはないわ。それに、こんな高価そうな物、つけられても困るわ」

 李音がせっかく結んだ紐をほどこうとする。しかし、李音の手は稜の次の声でピタリと止まった。

「俺がお前を守ってやる。いつでも。だから、それを肌身は離さず身につけておけ。そうしたら、いつでも俺がお前を助けてやる」

「はぁ?」

 李音はとぼけた顔をして、数拍後、ついには腹を抱えて笑いだした。

「何、笑っている?」

 稜は内心、むっとした。こっちは真面目な話をしたのに、笑われて気分のいいものか。

「ごめんなさい。あまりにおかしくて。よくそんな冗談、真顔で言えたものね。こっちが恥ずかしいわ」

 李音はなおも笑っていた。挙げ句の果てには後ろを向いて、顔を伏せている。

「冗談ではない! こちらは真面目だ! ふざけているのはそなたの方だろう!」

「え? だって、会って間もない人にそんなこと言われたって普通、信じないわよ。冗談にしか聞こえないわ。まっ、言う人がいるとも知らなかったわ。あなたって面白い人ね。」

 これでも信じてもらえず、稜は気づかれぬほど小さく、肩を落とした。ゆっくりと静かに目を伏せる。

「私は前から知っている……」

「え?」

 李音はまだ小さく笑いながら、問いかける。

「あ……いや、なんでもない」

 稜は自分に驚いていた。無意識に呟いてしまっていたらしい。

「私とあなた、前に会ったことがあるの?」

 李音がその呟きの意味を問いただそうと、大きな瞳で覗き込む。

 どうやら聞かれてしまったらしい。稜は少しためらったが、ややあって小さく頷いた。

「ああ。わからぬか?」

 李音は少し考え、悲しそうに頷いた。顔を伏せ、か細い声で言の葉を並べる。

「はい。ごめんなさい」

「いや……。でも、少しもわからぬか? 何も……?」

 李音は小さく首を縦に振る。だが、しばらくして、ゆっくりと呟いた。

「でも、会ったことは、あるのかもしれない……」

「は?」

 李音の言葉に稜は小さな希望を持った。実をいうとかなりわびしかったのだ。しかし、その希望もすぐに崩れ去った。

「私、記憶がないのよ。数年前から。気がついたら村で暮らしてた。それまで何をしていたのか、どこで生きていたのか、全然わからない。だって、母親の顔もわからないんだもの。わからなくて当然だけどね」

 李音は努めて明るく話していた。しかし、朱色の空を見つめる横顔はどこか痛々しい。稜はそんな李音にかける言葉が見当たらず、戸惑っていた。

「でも、よかったと思ってるの」

 李音は勢いよくこちらを振り返った。その顔は先ほどの悲しそうな微笑とは違い、しっかりと何もかも受け止める、決意を宿した笑顔だった。その笑顔のままで、しっかりと稜を見据える。

「なぜだ? なぜ、そう言える?」

「なぜって……。思い出せない記憶が、必ずしも良いものだとは限らないでしょう? 幸い、読み書きや算術、作法はちゃんと覚えていたし、村で暮らす分には何も苦労しないわ。              

私は今の生活に満足してるの。失くした記憶がなんだったのか、知りたいとは思うけど、過去なんか知ってもしょうがないと思うの。前を向いて歩かなきゃ。そう思って私は毎日生きてるから。だから……いいの!」

「そうか……。強いんだな」

 稜は李音を感心していた。今どきの娘でここまで考えているものはいない。しかし、同時に心に堪えがたいものが込み上げてきた。もし、李音が一生、何も思い出さなかったら。失われた記憶の中にはきっと、楽しい思い出がいくつもあったはずだ。

「私、そろそろ村に戻らなきゃ」

 李音の言葉に稜ははっと我にかえった。物惜しそうにこくりと頷く。

「ありがとう。あなたと話せて楽しかった。また、会えるといいわね。稜さん」

「稜でいい……」

 稜は気恥かしそうに呟いた。李音は一瞬、目を丸くしたが、すぐに心からの微笑を浮かべる。

「そう。じゃあ、稜。ありがとう。また会いましょう。綾紐、ありがとう。大切に使うわね」

「ああ」

 李音は軽く頭を下げ、村に向かって丘を登ってゆく。

(ああ言ったけど……。もう会うことはないんだろうな……)

 そう思うとなぜか名残惜しい。出会ってから少しも経っていないはずなのに、初めて会った気がしなかった。もしや、本当になくした記憶の中で会ったことがあるのかもしれない。

 そっと後ろを振り返ると、稜は丘の下でじっと佇み、こちらを見ていた。風に稜の濃紺の髪がさらさらと流れている。

 李音は大きく腕を振り、深く頭を下げた。そして、後ろ髪を引かれる思いで丘を去ってゆく。

 その背中を稜は一人、静かに見守っていた。


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