ここにいる
第十七話です。
人はときどき、
過去の時間に閉じ込められることがあります。
そのとき、
戻る道は見えません。
けれど、
ほんの小さな音や、
誰かと過ごした静かな時間が、
道になることがあります。
暗かった。
音だけがある。
戸を叩く音。
怒鳴り声。
皿が割れる。
壁が震える。
身体が動かない。
息を止める。
見つからないように
小さくなる。
物陰。
膝を抱える。
怖い。
怖い。
怖い。
兄の声がする。
『大丈夫』
でも
もう違う。
兄の声が怒鳴り声に変わる。
物が壊れる。
机。
皿。
壁。
全部壊れる。
兄の目が違う。
声が違う。
止まらない。
止められない。
助けたい。
でも
身体が動かない。
怖い。
物陰から
ただ
見ている。
怖い。
怖い。
怖い。
そのとき
小さな音がした。
ぱちり。
薪が弾ける音。
暗闇の奥に
小さな光がある。
焚き火。
森の夜。
火の向こうに
騎士が座っている。
静かにパンを食べている。
急がない。
同じ速さで。
風がゆっくり流れている。
呼吸が少し戻る。
そのとき
声がする。
「戻れ」
低い声。
近い。
「ここだ」
肩を掴まれる。
強い手。
身体が揺れる。
「戻れ」
呼吸が戻る。
胸が動く。
暗闇が揺れる。
そのとき
彼女は気づく。
暗闇の中に
もう一人いる。
小さな子ども。
膝を抱えている。
震えている。
小さな自分だった。
彼女はゆっくり近づく。
しゃがむ。
小さな自分を見る。
震えている。
目を閉じている。
彼女は言う。
「怖かったね」
声が震える。
涙が落ちる。
小さな自分が顔を上げる。
彼女は両腕を広げる。
そして
抱きしめる。
「怖かったね」
もう一度言う。
「ずっと」
涙が止まらない。
「一人で」
声が崩れる。
「怖かったね」
小さな自分が泣く。
「もう、大丈夫。わたしがいるから」
彼女も泣く。
慟哭だった。
胸の奥から
声が溢れる。
身体が震える。
泣きながら言う。
「大丈夫」
涙が落ちる。
「もう」
抱きしめる。
強く。
「大丈夫」
風が吹く。
暗闇が揺れる。
影が崩れる。
怒り。
恐怖。
後悔。
全部がほどけていく。
煙のように消える。
広場の風が戻る。
彼女は地面に膝をついていた。
泣いている。
騎士がそばに立っている。
剣は地面に置かれていた。
騎士は何も言わない。
ただ
そこにいる。
長い時間
彼女は泣いた。
やがて呼吸が落ち着く。
彼女が小さく言う。
「騎士さん」
騎士が答える。
「なんだ」
彼女は涙を拭く。
そして言う。
「もう」
少し息を整える。
「戻れないと思いました」
沈黙。
風が広場を通る。
彼女が続ける。
「でも」
小さく笑う。
「声が聞こえて」
目を閉じる。
「火が鳴る音が聞こえて」
焚き火を思い出すように言う。
「騎士さんの近くで」
沈黙。
「安心して眠れた夜が」
風が髪を揺らす。
「わたしを」
小さく息を吸う。
「今、ここに」
空を見る。
「戻してくれました」
長い沈黙。
彼女が言う。
「ありがとう」
騎士はしばらく何も言わない。
風が静かに吹く。
やがて騎士が言う。
「……そうか」
それだけだった。
風が
静かに
広場を通り抜けた。
第十七話を読んでくださりありがとうございます。
この回では、
主人公が過去の自分と向き合いました。
消えるわけではない記憶も、
抱きしめることは
できるのかもしれません。
物語は次回、
静かな終わりへ向かいます。




