ブラッドムーンの遺産
「お前たちーっ、今までの献身、褒めてつかわす! この景色、俺様は絶対に忘れないぞー!」
モニターには狼耳を生やした不遜な美少女『緋月みいす』の大袈裟な泣き顔が映っていた。
登録者48万人、人気ヴァーチャルライバーの卒業配信。同時接続数は20万を超え、チャット欄はこれまでの活動への感謝と称賛、卒業への嘆きと行かないでという懇願が止まることなく流れ続け、高額を示す赤色の投げ銭が次から次へと飛び交う。
狭い防音室の中、本音と演技の入り混じる奇妙な心地で声を震わせながら水瀬文音はその光景を眺める。
配信上ではたった数分間で数百万円もの金が動いていた。
しかしそのうちライバーである文音の懐に入ってくるのは、プラットフォームの手数料と事務所の取り分を差し引いたほんの端金に過ぎない。
時給換算すればコンビニの深夜バイトと大差ないほどであった。
本当はこの場ですべてをぶちまけてやりたかった。事務所の中抜き、繰り返される不払い案、搾取されながらも活動を盾にされれば反抗できない同期たちの過酷な現状。
だが、できなかった。配信機材も2Dモデルも、キャプチャーソフトも、このキャラクターでさえも。
この世に『緋月みいす』が存在しているのは事務所の力あってのこと。下手に刃向かって事務所が炎上でもすれば、同期もまた煽りをくらい、文音自身が名誉毀損の違約金で一生を棒に振る。
文音がこの牢獄から逃がれるには、「神は細部に宿る。生まれて死ぬまで緋月みいすたれ」という天命にも等しい事務所の指定に従うほかないのだった。
画面の中の緋月みいすは台本通りのトークテーマで長年のリスナーへの感謝を述べ、事務所が指定した歌を披露し、最後にほんの短い彼女自身の言葉を付け加えた。
「皆既月食、お前たちと一緒に見たかったなー。もし俺様が生まれ変わったら……またあの赤い月を見上げるぞ。ブラッドムーンの約束だよ!」
月下に燃え盛るような赤い森を背に、狼少女がにこやかに手を振っている。緋月みいすは封印の森で眠りにつく。そういう設定だった。
荘厳なBGMのもと、いつものエンディングテーマに乗せて告げられる彼女の「おやすみーす」をリスナーが復唱する。
配信が終了し、緋月みいすは文字通りに活動を停止した。
OBSを閉じると文音はヘッドセットを投げ捨て、天を仰ぐ。
――生まれ変わったら。
その言葉が熱狂的なファンの間でどう解釈されるか、文音は正確に理解していた。
みいすの卒業配信の直後からSNS上でブラッドムーンの約束についての憶測が駆け巡った。
“あれ事実上の転生予告だよね!?”
“次の皆既月食は2026年の3月3日だって”
“電撃卒業ガチ泣いてたけどまだ生きるわ”
彼女が最後に残した言葉は、文音の目論見通り「転生先でのデビュー日」として受け止められたのだ。
そして迎えた2026年3月3日の夜、緋月みいすが去った配信プラットフォームの急上昇ランキングは異常な様相を呈する。
転生の瞬間を待ち構えていたリスナーの眼前に、数十人もの新人ヴァーチャルライバーが現れたのだった。その誰もが決して緋月みいすを想像させない独自のキャラクターを持ってデビューを飾った。
かつての48万人のみいすリスナーは、いつか彼らのうちの誰かから前世が垣間見られるかもしれないという淡い期待に胸を膨らませ、新人たちの配信を訪れた。
界隈は空前の転生特需に沸き、デビューしたばかりの全員が配信初日から万単位のチャンネル登録者を獲得することとなった。
すでに防音室を撤去したマンションの一室で、文音はデュアルモニターに映し出される新人たちの初配信を眺めながら微笑む。
彼女は転生などしていなかった。
「全員、トラブルなし。同接も予想以上」
文音が行ったのは個人勢ライバーを支援するエージェントの設立だった。
あの日、あえて転生を匂わせる発言をして市場の期待を限界まで煽った。そしてその受け皿となる「新人」を募り、自らプロデュースしたのだ。
今日という日に便乗したブラッドムーン・デビュー勢には、文音の知らぬ個人ライバーや弱小事務所所属の新人も混じっていたが、特段気にしなかった。
彼らが実際に緋月みいすの転生体である必要はない。ただリスナーがそう信じ、あるいは可能性に賭けて集まりさえすれば、それでビジネスは成立する。
このヴァーチャルライバー戦国時代、文音は最も重要なファーストインプレッションの機会を彼らに贈りたかったのだ。
「ここからの伸びは本人次第だけど」
いくら才能あふれるエンターテイナーでも、どんなに素質があっても、血が滲むほど苦労していても、無名の新人は所詮大手事務所の鳴り物入りの新人には勝てない。
逆に言えば、そこさえ乗り越えればあとはすべて彼ら自身が作る配信の形次第だった。
プラットフォーム手数料が30%、文音の取り分となるマネジメント手数料は10%、そしてライバー受取は60%、不当な契約縛りは一切なし。
「神は細部に宿る。そしてあなたを作るのはあなたであること。自由と自己責任をモットーとしております、っと」
窓の外、月が赤黒く染まってゆく。ブラッドムーンの光のもとで何も知らないリスナーが彼女の影を追いかけて、熱狂的に新人を注視する。
緋月みいすという人形の所有権は事務所が握り締めて離さないが、文音自身の知識と業界で長年かけて積み上げた人脈までは――事務所には、返せと言われていない。
彼女は一度だけ窓の外を見て、すぐにカーテンを閉めた。牢獄から逃げおおせた人間には幻想の月を眺めるよりもやるべきことがある。




