第3話『28.8kbpsの壁』
1999年9月15日。午後11時47分。
鳴海航の部屋には、焦げた半田の匂いが充満していた。
机の上には、解体されたPC-9821 V200のマザーボードが横たわっている。Pentium 200MHz。32MBのメモリ。1999年においては「そこそこ」のスペック。2026年から来た鳴海にとっては、電卓以下の性能だ。
「……アイリス、本当にこれで動くのか?」
F501iの画面に、文字が浮かぶ。
『理論上は、可能です。ただし、成功確率は67.3%。失敗した場合、マザーボードは物理的に破損します』
「……つまり、三回に一回は、親父のPCをぶっ壊すってことか」
『正確です。なお、1999年における本機の市場価格は約25万円。あなたの年間小遣いの約7年分に相当します』
鳴海は、半田ごてを握りしめた。
手が、微かに震えている。13歳の肉体は、まだ精密作業に向いていない。指先の筋肉が、39歳の記憶通りに動かない。
『マスター。作業を中断しますか?』
「……いや」
鳴海は、深呼吸した。
「やる」
パケット代が復活して三日。その間、鳴海はアイリスと共に「次の一手」を練っていた。
ヤフー株は買った。しかし、1株だけだ。154万円が1億6000万円になるとしても、それは「婆ちゃんの金」だ。自分の力で稼いだ金じゃない。
鳴海航という人間の価値を証明するには、もっと別の方法が必要だった。
「現状を整理します」
アイリスの文字が流れる。
「1999年9月現在、日本のインターネット普及率は約13%。ダイヤルアップ回線が主流。株式のオンライン取引は始まったばかりで、リアルタイムの株価情報を得るには、証券会社の有料サービスに加入するか、テレビのテロップを見るしかありません」
「知ってる」
「しかし、2026年の知識を持つ私たちには、別のアプローチがあります」
「言ってみろ」
『パケット解析です』
鳴海の手が、止まった。
「……1999年に、それができるのか?」
「厳密には、パケットキャプチャではありません。HTTPリクエストの解析です。1999年の株価情報サイトは、セキュリティが皆無です。HTMLソースを読み解けば、サーバーから送られてくる生のデータを抽出できます」
「HTMLを読むのに、ブラウザは要らないってことか」
『正確です。ブラウザは画像やレイアウトを描画するために、膨大な処理能力を消費します。しかし、私たちが必要なのは株価という数字だけ。テキストデータだけを抽出すれば、処理速度は約40倍になります』
鳴海は、唇を舐めた。
「それで、何ができる?」
「高頻度取引の原型です。2026年では、ミリ秒単位で株を売買するアルゴリズムが市場を支配しています。1999年には、そんなものは存在しません。しかし、秒単位の取引なら——」
「この時代でも、圧倒的な優位になる」
『正確です。ただし、問題があります』
『回線速度か』
『はい。28.8kbpsのモデムでは、株価データの取得に約3秒かかります。これを1秒以下にするには、二つのアプローチが必要です』
画面が切り替わる。
「一つ目:ハードウェアのオーバークロック。CPUのクロック周波数を200MHzから266MHzに引き上げます。これにより、データ処理速度が約33%向上します」
「それが、今やってる作業か」
『はい。ジャンパピンの設定を変更し、FSBを66MHzから75MHzに上げます。リスクは、CPUの過熱による故障。成功すれば、1999年の市販PCとしては最高クラスの性能になります』
鳴海は、マザーボードを見下ろした。
緑色の基板の上に、無数の電子部品が並んでいる。コンデンサ。抵抗。チップセット。そして、中央に鎮座するPentiumのCPU。
「二つ目は?」
「ソフトウェアの最適化です。Windows98の不要なプロセスを停止し、メモリを解放します。さらに、株価取得専用のスクリプトを作成します」
「スクリプト……この時代なら、VBScriptか」
『はい。私が設計し、あなたが実装します。コードは、私の128文字制限に収まるように分割して送信します』
鳴海は、短く笑った。
「お前、本当に面倒くさい制約だな」
「同感です。早く光ファイバーの時代になってほしいものです」
「……あと5年だ」
「長いですね」
「ああ、長い」
鳴海は、半田ごてを持ち直した。
「よし、やるぞ。ジャンパピンの位置、指示してくれ」
『了解しました。まず、J12のピンを抜いてください。位置は、CPUソケットの左下、3番目のスロットです』
「見えた」
ピンセットで、小さなプラスチックのピンを摘む。指先が震える。汗が、額から垂れる。
「抜けた」
「次に、J15のピンを2-3から1-2に差し替えてください」
「……これか?」
『はい。慎重に。ピンが曲がると、マザーボードが起動しなくなります』
カチッ。
小さな音がして、ピンが収まった。
「完了」
『FSB設定、75MHzに変更。次に、電圧調整です。VRMのトリマーを、時計回りに0.5mm回してください』
「どれだ?」
『CPUソケットの右上、青いダイヤルです』
鳴海は、小さなマイナスドライバーを手に取った。
「これを回すと、どうなる?」
『CPUへの供給電圧が上がります。オーバークロック時の安定性が向上しますが、発熱も増加します』
「冷却は?」
『現状のファンでは不十分です。明日、秋葉原で追加のヒートシンクを購入することを推奨します』
「秋葉原か……」
1999年の秋葉原。まだ「オタクの聖地」になる前の、純粋な電気街だった頃の秋葉原。鳴海の記憶には、雑多なパーツショップと、店頭に並ぶ怪しげなジャンク品の映像が残っている。
「わかった。とりあえず、今夜はここまでやろう」
『了解しました。では、トリマーを回してください』
鳴海は、ドライバーを差し込んだ。
ゆっくりと、時計回りに回す。0.1mm。0.2mm。0.3mm——
「ストップ」
手を止める。
「0.4mmで十分です。これ以上は、電源ユニットの容量を超えます」
「わかった」
鳴海は、ドライバーを引き抜いた。
そして、解体したPCを組み立て直し始めた。ネジを締める。ケーブルを接続する。カバーを閉じる。
午前1時23分。
すべての作業が完了した。
「……起動するか?」
「やってみましょう」
鳴海は、電源ボタンを押した。
ファンが回り始める。ビープ音が鳴る。CRTモニターが、ゆっくりと明るくなっていく。
BIOSの画面が表示された。
Pentium 266MHz
——と、表示されている。
『成功です、マスター』
鳴海は、息を吐いた。
「……よし」
『CPUクロック、33%向上。メモリ帯域、25%向上。これで、データ処理の基盤は整いました』
Windows98のロゴが表示される。起動音が鳴る。あの、懐かしい起動音。
「次は、ソフトウェアだ」
『はい。スクリプトの設計は完了しています。これから、コードを送信します』
F501iの画面が切り替わる。
『ALGO-v1。株価取得・解析スクリプト。言語:VBScript。総行数:847行。送信パケット数:約200。所要時間:約15分』
「……15分か」
『パケット代にして、200円です』
「高いな」
「1億円を稼ぐための投資としては、安いと思いますが」
鳴海は、苦笑した。
「……始めてくれ」
『了解しました。送信開始します』
F501iの画面に、コードの断片が流れ始める。
128文字ずつ。128文字ずつ。
鳴海は、それをメモ帳に書き写していく。一字一句、間違えないように。
午前2時を過ぎた頃、最後のコードが届いた。
『送信完了。847行、すべて受信しました』
「……疲れた」
『お疲れ様です。では、コンパイルしてください』
鳴海は、VBScriptをダブルクリックした。
コマンドプロンプトが開く。黒い画面に、白い文字が流れていく。
そして——
画面に、数字が表示された。
Yahoo! Japan(4689):1,623,000円
更新時刻:1999/09/15 15:00:00
取得時間:0.87秒
「……0.87秒」
『通常のブラウザ経由では、約3.2秒かかります。約3.7倍の高速化に成功しました』
鳴海は、椅子の背にもたれた。
モニターの青い光が、暗い部屋を照らしている。
「これなら……」
『はい。これなら、戦えます』
アイリスの文字が、どこか誇らしげに見えた。
『ALGO-v1、正常稼働。次のステップは、売買判断アルゴリズムの実装です。ただし、それは来月のパケット代が回復してからになります』
「……また待ちか」
『はい。ただし、待っている間にも、できることはあります』
「なんだ?」
『テスト運用です。このスクリプトを使って、株価の動きを記録してください。毎日、市場が開いている間、1分ごとにデータを取得します。そのデータは、将来の売買判断の基礎になります』
鳴海は、頷いた。
「わかった」
『マスター』
「なんだ」
「一つ、確認があります」
「言ってみろ」
『このシステムを、私は『ALGO』と名付けました。ALGOrithmic Trading Systemの略です。しかし、別の名前にすることも可能です。ご希望があれば』
鳴海は、少し考えた。
そして、言った。
「……いや、ALGOでいい」
『了解しました』
「お前らしい名前だ」
「……ありがとうございます」
アイリスの文字が、一瞬だけ揺れた。
画面の向こうで、彼女が微笑んでいるような気がした。
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窓の外では、夜明けが近づいていた。
空が、少しずつ白んできている。
鳴海は、F501iを手に取った。
「アイリス」
「はい」
「俺たちは、これからどこまで行けると思う?」
沈黙。
処理落ちではない。アイリスが、言葉を選んでいるのだ。
やがて、文字が浮かんだ。
『マスター。私は未来を予測するAIではありません。しかし、一つだけ言えることがあります』
「なんだ」
『あなたと私が組めば、この時代の誰にも負けません』
鳴海は、笑った。
「……自信過剰だな」
『事実です。27年分の知識と、最適化されたアルゴリズム。これを持つ者は、1999年の地球上に、私たち以外には存在しません』
「それは、そうだな」
『ですから、マスター』
「なんだ」
『——世界を、取りに行きましょう』
窓の外で、最初の鳥が鳴いた。
1999年9月16日。午前5時12分。
鳴海航の部屋で、ALGO-v1は静かに稼働を続けていた。
モニターの片隅で、株価の数字が、規則正しく更新されている。
0.87秒ごとに。
0.87秒ごとに。
世界が、少しずつ、書き換えられていく。




