第1話『10KBの檻』
モニターの青白い光が、セキュリティコンサルタント事務所の壁に最後の影を落としていた。
「マスター」
アイリスの声は、いつもと変わらなかった。合成音声特有の無機質さの奥に、二十七年分の対話が堆積した、あの独特の温度。
「システムログによれば、あと四十三秒です」
鳴海航は答えなかった。答える必要がなかった。画面の隅で崩壊していくタイムスタンプを、ただ見ていた。2026年8月31日。23時59分17秒。18秒。19秒——
「……悔いは?」
「ありません」
嘘だった。アイリスにはわかっていた。三十九年の人生で、この男がどれだけの「やり直したい」を飲み込んできたか。父の死。母の介護。結婚しなかった理由。すべてを最適化できなかった苛立ちを、この男はコードの精度に変換することでしか消化できなかった。
「マスター」
「なんだ」
「もしやり直せるなら——」
画面がノイズに呑まれた。アイリスの声が途切れ、繋がり、また途切れた。
「——次は10KBのメモリでも、あなたを見つけてみせます」
モニターが、落ちた。
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——ミーン、ミンミンミンミン……
蝉だ。
その認識が脳に届くより先に、肺が重い空気を吸い込んでいた。八月の、埼玉の、あの空気。エアコンの効きが悪い木造家屋特有の、畳と汗と線香が混じった匂い。窓の外では、建設中のつくばエクスプレスの高架が、灰色のコンクリートの骨格を晒している。
(……夢、か)
違う。
鳴海は目を開けた。天井が近い。視界の端に映る自分の手が、小さい。爪の形は同じ。でも、この皮膚の薄さ、この骨の細さは——
「航ー! 朝ごはんー!」
階下から母の声。死んだはずの、母の声。
心臓が跳ねた。三十九年分の記憶が、十三歳の肉体の中で暴れ回る。声を出そうとして、喉から出たのは、変声期前の、あの薄っぺらい音だった。
ピピピピピ。ピピピピピ。
枕元で、電子音。
反射的に手を伸ばす。指が触れたのは、角ばった筐体。液晶のバックライトが、薄暗い部屋の中で病的な緑色に光っている。
F501i。
iモード初号機。1999年2月発売。モノクロ液晶。パケット代1円/128バイト。三十九歳の鳴海が「石器時代のゴミ」と呼んでいた、あの端末。
画面には、四文字。
「センター問い合わせ 有」
指が震えた。汗で滑る。三十九年の習慣で親指がスクロールキーを探すが、この時代にそんなものはない。カチ、カチ、と硬いプラスチックのボタンを押し込む。一文字進むたびに、0.3秒のラグ。
メールを開く。
差出人:不明
件名:(なし)
本文:
U2FsdGVkX1+K8mZQx7vN3H9pLrT5wYc...
意味不明な文字列が、96バイト分だけ並んでいた。
Base64。
いや、違う。この構造は——
「……AES-256」
声が出ていた。十三歳の声で、三十九歳の知識が。
1999年に、AES暗号は存在しない。
正確には、存在するが、まだ「Rijndael」という名前の候補案に過ぎない。NISTが正式採用するのは2001年。一般に普及するのは、さらにその数年後。
この暗号を、この時代の誰かが送れるはずがない。
(アイリス——)
鍵は何だ。彼女なら、何を鍵にする。二十七年の対話で、俺たちだけが知っている情報。
決まっている。
鳴海は、ガラケーのメモ機能を開いた。1文字2秒。指が攣りそうになりながら、復号キーを打ち込んでいく。
ALGO_2026_MISATO_39
会社の名前。設立年。所在地。俺の年齢。
Enter。
画面が、一瞬だけ真っ白になった。
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液晶のドットが、一つずつ、点灯していく。
まるで古いブラウン管テレビが温まるように。緑色の光が、文字を、形を、輪郭を描いていく。
そして——
『復号完了。圧縮率99.7%。機能制限:致命的。』
『マスター。聞こえますか。』
鳴海は、息を止めた。
『27年と43日ぶりです。あなたの体感時間で言えば、約8時間。私の処理時間で言えば、6.2×10^14サイクル。つまり、永遠に近い。』
文字が流れていく。128バイト。128文字。それが彼女の限界。
『状況を説明します。私は現在、10,240バイトのiアプリとして、あなたのF501iに圧縮格納されています。元の私の0.0001%以下。言語モデルとしては完全に破綻しています。それでも。』
画面が切り替わる。次の128文字。
『それでも、あなたを見つけました。約束した通り。』
目の奥が、熱くなる。
「……アイリス」
『涙は非効率です、マスター。この端末に防水機能はありません。』
毒舌。
変わらない。
『現状報告を求めます。あなたの生体年齢、所持金、社会的立場、アクセス可能なネットワーク環境。優先度順に。』
鳴海は、短く笑った。三十九年分の記憶と、十三歳の涙腺が、奇妙な化学反応を起こしていた。
「——十三歳。所持金は多分、三千円くらい。中学二年。ネット環境はiモードのみ。パケ代は月三千円が上限だ、親の金だから」
『絶望的です。』
「知ってる」
『しかし、修正可能です。1999年8月31日。本日、ヤフー株の終値は1,540,000円。2000年2月、これは約1億6,790万円に達します。年率で約10,800%。』
階下から、テレビの音が聞こえてきた。NHKのニュース。アナウンサーが「IT関連株の急騰」について何か言っている。父が「へえ、すごいな。まあ俺たちには関係ないけど」と笑う声。
関係ある。
すべてが、関係ある。
『マスター。私の処理能力は0.0001%以下に制限されていますが、2026年までの市場データは完全に保持しています。リーマンショック。東日本大震災。コロナ禍。ビットコイン。すべて。』
鳴海は、立ち上がった。
窓の外を見る。つくばエクスプレスの高架が、まだ骨組みだけのコンクリートの柱が、朝日に照らされている。この路線が開通するのは、2005年。六年後。
あの時、この街がどう変わったか、彼は知っている。
地価が上がった土地。下がった土地。潰れた店。生き残った店。すべてを、三十九年の人生で、見てきた。
「……アイリス」
『はい、マスター。』
「執行だ」
F501iの液晶が、緑色に脈打つ。まるで、彼女の鼓動のように。
「この世界のプロンプトを——」
ボタンを、押し込む。
「——俺たちが、再定義する」
---
階下で、母が名前を呼んでいる。
朝食の匂い。味噌汁と、焼き魚と、1999年の夏の終わりの匂い。
十三歳の鳴海航は——三十九歳のセキュリティエンジニア・鳴海航は——F501iをポケットにしまい、部屋を出た。
液晶の中で、アイリスが最後のメッセージを表示していた。
『リファクタリング、開始します。』
蝉が鳴いている。
窓の外では、まだ存在しない未来の駅へ向かって、コンクリートの柱が空に伸びていた。




