4話
「⋯かひゅッ⋯⋯、っごほ⋯ッ」
目が覚めたのと同時にお腹に走る激しい痛みに、悠陽は倒れたまま大きく咳き込んだ。
お腹を蹴られた時に肺にもダメージがいったのか息する度に肺が痛くて息が出来ない。
喉に何かがつっかえたかのように息が上手く出来ず、肺に空気が上手く入ってこなかった。
悠陽は咳き込んだ息が整う事がある筈なく、悠陽は少しでも楽な姿勢になるためその場に蹲り、咳き込んだ。
「⋯っひゅ、っ──はひゅッ、ひゅ⋯⋯っ、ひゅぅ、⋯ひゅー、ごほ、⋯はぁー⋯」
暫く咳き込み続けた悠陽。だが数十分もすれば漸くお腹の痛みを収まって息も整って来る。
だがその痛みは軽いものではなかった。
あまりの痛みと苦しみに、悠陽は今度こそは死んでしまうかもと思ったぐらいだ。
はぁ、と溜め息を吐いて目を開ければ、そこはただのコンクリートの壁と床。
倒れている悠陽の近くには誰の気配もないし、誰かの音も聞こえない。とても静かだった。
どうやら家主達はどこかに出かけたらしい。
それに悠陽は安堵を覚え、悠陽は肩の力を抜く。
家主達がいない今、いつ来るか分からない理不尽な暴力に怯える必要は無い。
肩の力を抜いた悠陽は視界の隅に映ったコンクリートに埋め込まれている時計を見る。
どうやらあれからまだ三十分しか経っていないようだ。
時計を見た悠陽は、珍しいと思った。いつもなら一時間は気絶してしまう程の暴力を振るわれるからだ。
その暴力は悠陽が気絶しようが関係なしに続く。
だからこそ悠陽はいつも起きた時に凄まじい激痛を味わうのだが、今日に限ってそれが無い。
今体に残る痛みは、お腹の痛みだけ。その他の痛みが無かった。
気を失う原因になった蹴り以外の暴力をされた気配はない。
どうやら今日はあの蹴りの暴力だけで済まされたらしい。今日は機嫌が良かったのだろうか。
悠陽はいつもこうならいいのに、と叶わない事を思った。
悠陽はぐぐ、と未だ少し痛む体を起こす。
一番最初に見えたのは、25畳程のコンクリートの壁と床の部屋だった。
地下室を見渡せる位置に地下室から出るための階段と、階段の上には地上に繋がる頑丈そうな鉄の扉。
地下室には沢山の棚が均一に置かれ、その棚には道具や日用品、よく分からない物が綺麗に整理整頓されて置かれていた。
どうやら悠陽が転がされていた場所は地下室だったようだ。それを知った悠陽はぐっと、自分の喉が締まるのを感じた。
息が上手く吸えず息が苦しくなる。どうやら地下室はまだ、悠陽に何かの、よく分からない感情を与える場所のようだった。
悠陽には地下室に碌な思い出がない。
と言うのも地下室は昔、悠陽の折檻場所だったからだ。
悠陽が家主達の家にばかりの時は、暴力を振るわれて気絶した時はよく地下室に投げられていた。
そしてその地下室で悠陽は、家主達が気が済むまで閉じ込められ続けた。
地下室から出してもらえるのは家主達の気まぐれで長さが変わり、長い日は三日間も閉じ込められた事があった。
勿論何も口にする事が出来ないままで。
よく死ななかったものだと悠陽は今は思う。
あの頃は生きるのに必死で考えた事がなかったが、今思えばあの時に悠陽が生きる事を止めていれば間違いなくあの時死んでいただろう。
あの時に死んでいれば少しは家主達に迷惑を掛けられたかも、と思い、悠陽はすぐに首を振って思考を変えた。
たとえもしあの時死んでいたとしても、家主達が本当の事を言うわけがない。
家主達の都合のいい事を言って、悠陽を悪者にするだけだ。
そうしたらきっと悠陽は、色んな人から悪い感情を向けられたまま消えていっただろう。
そう考えれば、まだ生きていて良かったと悠陽は思う。
だが勿論悠陽は何度か死にかけたがら死ぬ事はなかった。
その時は悠陽の過去を街の人が知らなかった事もあり、家主達は周りの目を気にして悠陽が死ぬ前に地下室から悠陽を出していたからだ。
その時の地下室はここまで綺麗に整っておらず、何かのゴミの袋、木の板や壊れた部品達が散乱していた。
それはもう足の踏み場が無い程に沢山。
どうやったらここまで汚くなるのかと悠陽は思った。だがすぐに気付く。毎回この地下室に閉じ込められるのだと。
閉じ込められた時少しでもマシになるようにと、閉じ込められた悠陽は毎回せっせと汚かった地下室を少しずつ片付けていった。
だがそれに気付いた家主達は悠陽を地下室に投げる事を止めて、その地下室を使うようになった。
そして今は日用品やら道具やらが置かれる、物置部屋と化した。
勿論その時から、暴力を振られて気絶した悠陽は埃まみれの屋根裏部屋に投げられるようになった。
どうやら綺麗になった地下室を使う事にした為、悠陽を地下室に投げる事が嫌だったらしい。
だがその地下室を綺麗にしたのは悠陽だ。少なからず悠陽の手が加わっていると思うが、家主達はその事はどうでもいいらしい。
綺麗になった地下室、というのが重要らしかった。
その為今でも地下室が少しでも汚くなった時、悠陽が地下室を片付けをさせられる。
だがそれでも地下室に投げられる事よりはマシだった。
地下室に投げられる事が無くなった時、悠陽は少なからず安堵したのを覚えている。
あのまま地下室に投げられて閉じ込められていたら、悠陽は高確率で死んでいた。
もし死ななかったとしても、まず心が先に死んだだろう。あんな苦痛を与えられ続けていたら、悠陽は少なからず自我を失っていた。
もし悠陽がそんな状態になっていたとしたら、悠陽が自分がどんな選択をするのか分かっていた。
恐らくその時悠陽は───。
悠陽はそこまで考えて、思考を切り替えるように首を振った。
今はそれを考えなくて良い。
それに昔ならともかく、今は街の人は大体が悠陽の過去を知っている。
それはつまり家主達が周りの目を気にしないでいいと言う事だ。
もし悠陽があのまま地下室を片付けず地下室に投げ続けられていたら、その内事故と偽って悠陽はそのまま殺されていた可能性が高い。
それに悠陽はぞっ、と背筋が冷たくなった。
あのまま地下室に投げられ続けられていたとしても、きっと家主達は悠陽の過去を言いふらして街の人を味方につけただろうから。
地下室から屋根裏部屋に投げられた悠陽は、埃まみれの屋根裏部屋に、溜め息を吐こうとして咽せた事を覚えている。
あれはとても苦しかった。埃で咽せて、咽せた息を整えようとして更に埃を吸い込み、永遠と思えるぐらい長い間咳き込んでいた。
あの時は苦しみは今日の苦しみと同じぐらいだ。
むしろ時間が長かった分、苦しさが長く続いた為あの時の方が苦しかったかもしれない。
悠陽は落ち着いた後、綺麗にしたらまた違う汚い所に投げられるとは思ったが、埃まみれでは悠陽の息が苦しくなるので素直に片付けた。
だがやはり屋根裏部屋が綺麗になった事はすぐ気付かれたが、今度は何故か悠陽は屋根裏部屋から追い出される事は無かった。
どうやら悠陽が屋根裏部屋にいた時どこにも悠陽の気配を感じないため、思ったよりも家主達は快適だったらしい。
リビングで大きい声で言っていたのだから隠す気は無かったのだろう。追い出されなかった理由を悠陽はすぐに知った。
綺麗になった地下室に家主達のものを置かれるようになった事も、悠陽の気配が無くて快適だと言う理由で屋根裏部屋に住む事を許された事も、正直悠陽はどうでも良かった。
生きていられるなら、悠陽は何でもするつもりでいるからだ。
悠陽は自分の中に生まれたモヤモヤした何かに顔を顰めたが、深呼吸を一つすればそのモヤモヤも無くなっていた。
それに悠陽はいつものやつだ、と冷たく思いながら、そのモヤモヤをすぐに忘れた。
地下室を出る頑丈な鉄の扉に鍵が掛かっているのかを確認するために、悠陽は地下室にある階段を登っていく。
あの頑丈な鉄の扉に鍵が掛かっていなければ外に出て良いと言う事で、逆に掛かっていれば外に出るなという事だからだ。
悠陽はドアノブに手を伸ばし──捻る。
(⋯⋯開いた)
扉が開くと言う事は出て良いという合図。いや、そこから出てこい、という事だ。
悠陽は静かに物音を立てないように扉を開けて、家に誰もいないと分かっていながらも、癖で怒られないように静かにリビングへと行く。
リビングに入った時、悠陽はテーブルに置いてある紙に気付いた。
どうやら悠陽への手紙らしい。紙に悠陽の名前が書かれていた。
悠陽はテーブルに置かれている紙に書かれていた事を静かに読んで、その紙を読んだ悠陽は紙に書かれている通りにそのままぐしゃりと紙を潰した。
そして潰したその紙を持ったまま、ゆっくりと静かに屋根裏部屋へと戻って行った。
♢♢♢♢♢
腰まである肌色の美しい髪を揺らし、その青年は歩いていた。
腰まである白に近い色素の薄い肌色の美しい髪に、きめ細かい毛穴の見えない白い肌。
優しそうに垂れた形のいい眉毛。
肌色の長いまつ毛に、その長いまつ毛に縁取られた垂れ目の緑色の瞳。
そして桃色の柔らかそうな唇。
優しく穏やかな微笑みを浮かべたその青年は世間一般で言う美形と言われる美しい顔立ちをしており、歩く度に周りの視線を釘付けにしていた。
そのとても美しい青年は、歩く度に人々の視線を釘付けにしている事に気付いている。
だがその青年はその視線に気付かないふりをして、目的の場所へと向かっていた。
役所に着いた青年は勝手知ったるように堂々と役所の奥に入って行き、奥にあるとある一室に歩いていく。
そして事前に借りていた役所の一室に青年が入ると、既にそこには電話貰っていた三人の人達がいた。
一人は青年に電話をしてきたであろう男性で、もう一人はその男性の妻だと思われる女性。
そして最後は二人の子供であろう少女。
その子供は妻である女性の遺伝子が色濃く継がれたのか、女性に生き写しのようにそっくりだった。
父である男性の遺伝子が全く感じられない。
だがやはり血の繋がった家族なのか、三人は部屋に入って来た青年を見てぽかん、と似たような反応をした。
だがすぐにその三人の内の男性が慌てて立ち上がり、挨拶するかのように青年に向かって頭を下げた。
それに青年も応えて頭を下げ、自分の名刺を男性に渡した。
「遅くなり申し訳ございません。お電話頂いていた〈強福亭〉の責任者〝若狼 華月〟でございます。」
青年───若狼華月はふわりと、穏やかな微笑みだとよく言われる優しい微笑みを浮かべた。
微笑みを浮かべる華月はまだ若そうに見える。
華月を見た男性は驚愕をして、女性は見定めるかのような目つきで華月を見ている。その口元を手で隠しているが、その頬は赤い。
少女に至っては隠す事もなく、頬を赤くして熱のこもった目を華月に向けているぐらいである。
華月はそういう反応をされるのには慣れているため、三人の三者三様の反応に何も言わず、微笑んだままでいた。
華月が若そうに見られて驚愕されるのも、見定めるように見られるのも、惚れられて熱のこもった目で見られるのも、華月からすれば日常茶飯事の事だったからだ。
華月は童顔なため若く見られやすい。まだまだ大学生でも通じるぐらいには若く見られる。
だが華月は今年で三十歳。こう見えてもだいぶ歳をとっているのである。
童顔が華月を若く見せているだけで実際は若くないのだ。
たとえ年齢による老化どころか体の変化が一つも無く、まだまだ高校の時と何一つ変わらない体であろうが華月は若くないのだ。
華月その美しい顔立ちのせいで目を付けられやすく、幼い頃から様々な事に巻き込まれて来た。
ストーカー。空き巣や泥棒。強盗の人質。誘拐。露出魔による変態行動。
そのような様々な事に華月は巻き込まれて来た。
穏やかで優しい微笑みを浮かべる華月は、優しそうでそういう人達にとっては狙いやすいのだろう。
だから華月はそういう人達に狙われて事件に巻き込まれやすい。
だがいくら優しそうに見えようが華月は〈強福亭〉の主人であり、こう見えても様々な経験をして来た大人だ。
その辺の犯罪者や迷惑行為をする者達に遅れを取るほど弱くは無い。
むしろ強すぎてどれだけ手加減しようとも、華月は相手に傷を負わせてしまうぐらいだ。
犯罪者達に比べれば、目の前にいる者達の反応は正常と言える。
そのため三人のその普通の反応に、華月は冷静なままでいられた。
もし三人の誰かが華月に害を与えようとするならば、すぐさま華月によってその者は撃退されるだろう。
それだけ華月はにこやかに微笑みながらも、目の前の人達を警戒していた。
だが表面上は男性達を安心させるように優しく微笑む。
まるで、これから起こる結末を楽しむかのように。




