1話
かたり、と音がした。
その瞬間反射的に悠陽の身体は起き上がり、目は音の発生源の方へと向く。
その反応はとても素早く、長年取り続けてきた反応だからか少しのブレも隙も無い。
恐らくこの状態の悠陽に近付けば、反応する暇もなく地へと転がされるだろう。悠陽も反射的に投げ飛ばしてしまう自信があった。
それ程までに今の悠陽は全力で警戒している。
意識を音の方へと向け、身体をいつでも動かせるようにする。これは長年悠陽に向けられていた悪意によって、無意識の内に身体に染み付いてしまった反応だ。
いつも通りちゅんちゅんと鳴く鳥の鳴き声も、今は警戒対象に過ぎない。少しでも悠陽に近付こうとするならば、その時は容赦なくその存在を撃退するだろう。
その反応が染み付いてしまう程に、悠陽は長年悪意に晒されてきたのだ。
暫くしてその音がただの家鳴りだと認識した悠陽は、ふぅと息を吐き警戒を解いた。
些細な事で警戒する癖が出来たのは何も今日だけじゃ無い。昔からだ。
家族に庇護されていた昔は危険は家族が排除してくれていたから、そんな警戒は必要なかった。でも本当の家族はもういない。悠陽が殺してしまったから。
今お世話になっている親戚の家では悠陽の存在は無いようなもの。まるで空気かのように扱われているのだから、庇護されていると感じるには無理があるだろう。
だが悠陽はその扱いに何の感情も抱いていなかった。愛情を欲しがろうとも、あの人たちが与えてくれるわけが無いと知っているから。
能力で家族を殺してしまったという事実があるにしろ、まだ9歳の悠陽を道具のように扱う人達なのだ。期待するだけ無駄だろう。
それに期待という感情は今はもう分からない。期待なんて感情は、とっくの昔に枯れ果ててしまった。
(そういえば昔は───⋯。⋯⋯昔は、何があったっけ⋯?)
悠陽はこの頃昔の記憶を思い出すが、昔と比べたらハッキリと思い出せなくなっている。それは時間のせいか、それとも脳に異常が起こっているせいか。一体どちらなのだろうか。
もし悠陽がどちらがいいかと聞かれたならば、悠陽は間違いなく後者の方を選ぶ。脳に異常が起こって記憶が思い出せなくなっているが、嬉しいのだ。
悪い記憶を思い出せない事の何と幸せなことか。
(そんな事別にどうでもいいか⋯)
はふ、と気持ちを切り替えるように一つ息を吐く。次に布団に座ったまま腕を上へと思い切り伸ばし、固まってしまった身体をほぐす。
日課になりつつあるその行動に悠陽は何となく嬉しさを感じる。だがそれに気付いた悠陽は、すぐにその感情を削ぎ落とした。
嬉しいなんて感情はいらないと言わんばかりに、悠陽は顔から感情を削ぎ落としていく。そして削ぎ落とした後の顔にあったのは「無」。
何も感じず、何も思わず、何も求めない。ただただ無の表情。その顔に感情が浮かぶ事は、あの日の出来事から一切無いのだ。
まるで自分が起こした罪の罰だと言わんばかりに。
あの日から悠陽は感情を出す事を止めた。最初は苦しかったが、今ではもうすっかりと慣れたものだ。むしろ感情が無いと大分楽だと気付いた。
今はもうこの状態が悠陽の普通なのだ。
改めて今いる場所を見てみる。悠陽が今いる場所は、屋根裏部屋なだけあってやけに天井が低い。
天井は159センチの悠陽の頭のギリギリ真上の高さで、少しでも背筋を伸ばせば頭が天井にぶつかってしまう。
そんな屋根裏部屋に置いてあるのは、敷布団とほんの少し衣類。天井にぶら下がっている小さな電球と、横30センチ程の小さなミニテーブルだけ。
だが屋根裏部屋は広さもあまり無いので、それらのものを置くだけで部屋の半分以上が埋まってしまう。
残った場所はかろうじて布団を敷く事が出来る程度と言えば、どれだけ屋根裏部屋が狭いか分かるだろう。それでも雨風防げる場所にいることを許されているのは、まだ良い方だ。
他の親戚にお世話になっている時にまだいいのは、物置とか倉庫とかに置かれる事。だけど悪ければ家に入ることや滞在すら許されない時もある。
それに比べたらまだ狭いとはいえちゃんとした部屋に住まわせてくれて、尚且つ部屋に家具も置かせてくれるこの家の人達はとても優しい人達だ。
着ていた白のワイシャツと黒のプリーツスカートを軽く叩いて埃を落としながら服の皺を伸ばし、黒色のボブの髪を手櫛で整えた。
悠陽は衣類が少ないからパジャマという概念が無く、普段着で寝ている為毎朝服を整える事から始まる。
服を整え終えたら、音を立てないように静かに屋根裏部屋から降りて行く。
ここで音を立てればこの家の家族達は怒るので、極力音を立てない事を優先して動いている。もし家主達の機嫌を損ねれば、家を追い出される可能性があるからだ。
今の悠陽はまだ自分でお金を稼げない。仕事に付きにくいからだ。
悠陽のような危険な能力を持つ者は、誰かからの推薦や保護者がいなければ雇ってもらいにくい。
というのも、危険な能力の者は敬遠されやすい為、推薦などが無い限り、普通の仕事には着けない。だから仕事にも着きにくいのだ。
悠陽はその反応は当たり前だと思うし、敬遠されるのも仕方ない事だと思う。
もしその危険な能力を持つ能力者が能力を暴走させて仕舞えば、その被害に合うのはその能力者の近くにいる者達だから。
一階へと静かに降りれば、この家の家族たちはまだ寝ているのか誰もおらずとても静かだった。
どうやらまだ四時半らしくいつもよりは遅く起きてしまったが、家主達がまだ寝ているから大丈夫だろう。
家主達を起こさないように、音を立てず静かに行動して家の家事を片付けていく。
家主達が昨日の使った食器。家主達の朝ごはんの用意。家主達の服のほつれの縫い直し。家の掃除。食材の買い出し。
それらの仕事は悠陽がこの家にいる為の条件なので、少しの粗さえ残さず完璧に終わらせる。粗があればそれを理由に追い出されるかもしれないから、可能性があるものは最初から排除しておくに限る。
無駄な行動は限りなく排除し、効率的に家事を終わらせていく。今や家事など慣れたもので、頭が働いていなくても身体が自然に家事を終わらせてくれる。慣れって凄いな、と悠陽は毎回思う。
家事が全て終われば悠陽は少ない荷物を肩掛け鞄に入れて、家から出ていく。
家主達の邪魔をしないように、家事が終われば家を出て行かないといけない。戻ってくるのも家主達が寝静まった頃。
これもまた、家にいる為の条件だった。
静かに扉を開けて鍵を閉めて家から出ていくと、家から出た瞬間緑色がぶわりと視界を埋めた。
この街は〈木植〉街と言い、木が沢山生えているのが特徴の街。
街は木に囲まれるように存在し、木などの木材を使った品が、街の特産品だ。
この街では木を伐採する為に、早朝になると木こり達が皆森へ入っていく。
だが外はまだ五時半になったばかりで、木こり達も人もあまりいない。
といっても全くいないわけでは無いから、気を付けないと人を怖がらせてしまう。人を怖がらせれば、周囲の目を気にする家主達は悠陽を追い出す。
だからそうならないためにも、追い出す為の理由になる事には気を付けるようにしなければならない。家にも外にも、悠陽が安心出来る場所なんてないのだから。
安心出来る場所は悠陽が自分で壊したのだから、この苦しさも自業自得というものだ。
人に合わないように街を歩き街の門から出て、街から出て少し離れた廃墟へと走って向かう。
街は基本的に街の周りに防壁が造られているが、街の門から一歩でも出ればそこはもう何処までも続きそうな程の平原。
ある境までは木々が生えているが、その境以上からは綺麗に木が無くなっている。
その境からこちらは木の街の騎士が助けてくれるが、その向こう側にある場合は例え騎士達が認識しても木の街の騎士は助けてくれない。
騎士達は木の街の領域内にいる人達を助け、領域内に入ってきた魔物を討伐すると言う契約をしている人が多いからだ。
だからもし魔物に襲われたら、とりあえずは近くにある街の領域内に入れば、その街の騎士が助けてくれる。
まぁ大体の人は街と街を移動する時は、飛行船や飛行機を使う事が多い。
だが飛行船や飛行機には大体冒険者が護衛についている事が多い為、魔物に襲われても冒険者が狩るので大体は無事だ。
地上を走る自動車やバスにも護衛や防御の魔導具が使われている事が多い為、あまり魔物に襲われる人は少ない。全く無いと言うわけではないけど。
偶に魔狼などの魔物が出るが、持ち歩いていた小刀で牽制すればすぐに魔狼はいなくなってくれるから楽だ。
魔物と言うのは、人間と同じような能力を持った動物の事を言う。動物とは違い能力を持っている為、獣の獰猛さと能力の危険さに、魔物を狩る専用の職業があるぐらいだ。
魔物にも種類と順位を付けられているから、素人でもどの魔物が危険なのか分かり易い。
悠陽も魔物図鑑を読んでいたお陰で、初めて魔狼に遭遇してしまった時でも、冷静に行動出来た。
魔物図鑑を最初に作成した人は本当にすごいと思う。
そんな風にどうでもいい事を考えていれば、気が付かない内に木の街の領域外に出てから数十分経っていたみたいだ。遠くの方に目的地の灰色の建物群が見えた。
そのまま走る速度を上げ、建物群へと近付いて行く。近付いて行けば行くほどに、建物の大きさを実感出来た。
建物群があるこの場所は〈廃都〉と呼ばれているが、昔はとても栄えていた街らしい。だが今は見ての通り廃れ崩壊した街となっている。
この街が廃れた理由は時代の波に持って行かれたのか、どの文献にも無い。だから未だこの廃都が廃れた理由は不明のまま。
再建しようにもこの廃都がある場所は災害が起きやすく、半端な素材感だとすぐに建物が崩壊してしまうらしい。
しかもこの廃都に使われている素材は災害にも耐えうる強度がある古代のもので、その素材の作成の仕方も分からないと言う。
その為この場所は再建される事もなく、古代の未知の材質の素材を捨てるわけにもいかず、このままになっていると言うわけだ。
建物の素材に価値はないが、だからといって雑に扱っていいわけでも無いらしい。だから現状維持という形で残されている。
廃都の門を通って領域内に入って数十分。暫くして一番大きな建物が見えてきた。他のビル群の建物達とは違い、その建物は洋風の屋敷に近い。
横に大きいその屋敷は、多分この廃都の領主の屋敷だったものだと思う。フベルト家と書かれた看板が門の横に立っているから多分そう。
しかも中にはまだ豪華な家具が比較的綺麗に残っているから、浄化や洗浄などの類の魔導具を設置していたのだろう。
廃都になってからも暫くは機能していたのだと思う。だからこんなに他の建物と比べて綺麗なのだ。
あとは毎日この屋敷に来ている悠陽が掃除しているのも、綺麗な理由の一つだが。
何故なら悠陽は毎日、家へと戻ってもいい時間になるまでここで暇を潰している。もはやこの屋敷が悠陽の家みたいなものだ。
屋敷に入って二階、三階と階段を上がっていくと、左右と中央へと三つの通路が広がっている。
その三つの通路の内真ん中の道を進んで行き、また現れた少し豪華な装飾がされた階段を上がっていく。
そうすると次第に階段に様々な色の光が差し込んでくるが、この美しい光景はもう見慣れてしまった。今じゃもう悠陽は何も感じない。
いつも通りのその光景に何の感情も感じないまま、足は進めて階段を上がっていく。
次第に見えて来たのは、小さな協会。
小さな教壇に、三人がけの長椅子が四つ。教壇の後ろには大きなオルガン。左右の壁には何かの像に、ステンドグラスの壁。
年月により壊れている現在のこの広間でさえ、とても美しいのだ。この広間が年月により損傷していなければ、これよりももっと美しい光景を見れただろうなと思う。
天井部分が崩れ落ちているが天井から入って来る光が広間に差し込む。その光を唯一残っているスタンドグラスの壁が反射して、広間に様々な色の光を放つ。
きっとこれが神秘的というものなのだろう。何も感じない悠陽が毎回ここに来てしまうのは、きっとこの神秘的な光景に何らかの力があるからなのだ。
「⋯あれ? こんな所に人?」
じゃり、と音がして、人の声が聞こえた。
居るはずのない人。あるはずのない声。鳴らないはずの音。
それらの情報が頭に入って来てすぐに、悠陽は警戒態勢を取る。その誰かに背を向けながらも、いつでも行動出来るように。
今までこの場所で悠陽以外見たことは無かった。〈廃都〉は興味を持つ程の価値はないから、この場所は誰にも興味を持たれない。
だからこそ今まで悠陽は誰にも会うことなく、この場所で一人時間を潰すことができたのだ。
だからもし、この場所に何らかの価値が見つかったとしたら、その時は───。
じゃり、と更に音が鳴る。その音と同時に、警戒しながら勢いよく振り向いた。
振り向いた先にいたのは、とても美しい少女。
光を受けてキラキラと輝く腰まである金の髪。髪と同じ色の長いまつ毛。色っぽく感じる甘い桃色の瞳。
身体つきがよく分かる白のハイネックノースリーブに、大きくスリットが入った肌色のロングスカート。黒いタイツに白のブーツ。
少女は悠陽を認識したのか、目を輝かせて唇に笑みを浮かべた。
悠陽が家族を殺してしまってから初めて見る───。
「やっぱり人じゃん」
悠陽に悪意を持たない少女だった。




