3.
領主館を出た御影は、裏手へ回るよう久世に軽く目配せした。人目を避けた石垣の陰に立つと、懐から銀装の煙管を取り出し、手慣れた仕草で火を灯す。細長い管の先から立ちのぼる紫煙は、夕暮れの冷気に溶け込みながら、ふわりと甘い香りを漂わせた。それは、まるで溶けかけのショコラのように濃密で、どこか切なげな甘さだった。
煙の筋を細く吐きながら、御影がぽつりと口を開く。
「お前は、あの黒い木をどう思う?」
少し間を置いて、久世が答えた。
「もし“木が泣いている”というのが本当であれば……伯爵がおっしゃった通り、伐採されかけた祟りの可能性もあるかと。ただ、その現場を目撃したわけではありませんから、現時点では何とも……ですね」
「ふぅん……」
御影は煙管の先をわずかに傾け、葉を詰めた小さな火皿を指先で軽く弾いた。乾いた音とともに、燃えかすの灰がぽとりと足元に落ちる。
「木は、多少怒ってはいたが……どちらかというと、悲しんでいたような気がする」
その声音には、煙のように朧げではない確信と、霊媒師としての研ぎ澄まされた直感が滲んでいた。
「先ほどご覧になっただけで……もうお分かりになられたんですか?」
久世の問いに、御影は肩をすくめる。
「なんとなく。あの木、祟るって感じじゃない。……どちらかというと――そう、悲しい」
煙管をふかしながら、ゆっくりと目を閉じる。思考が内へ沈んでいく。
「何が悲しいんだ……?」
沈黙が、まるで深い水の底のように御影を包んでいく―― と、そこへ無粋な声が割り込んできた。
「す、すみません! ちょっと、よろしいでしょうか!」
御影は薄く目を開け、視線だけで振り向いた。
「あれ、いたの?」
「ずっといました!後ろに! 高円宮様、質問よろしいでしょうか!」
「御影でいい。名字で呼ばれるの、好きじゃない。……で、何?」
「えっと……では御影様……あの、木って……喋るんですか!?」
御影は煙管をくわえたまま、訝しげに眉をひそめた。
「喋るわけないだろ。馬鹿なの?」
ぴしゃりと放たれた一言に、桃原は目を白黒させ、言葉を失う。
(えっ……さっき“悲しんでた”って言ってたじゃん……)
その心の声が表情に滲み出て、ガラスのように繊細な桃原の心は砕け散りそうになる。そんな桃原を見かねたように、久世が静かに口を挟む。
「御影様は……動物や植物の“感情”を感じ取ることができます。それも、霊視の一種です」
「へぇえ……」
感心したように目を輝かせる桃原を、御影は横目で冷ややかに一瞥した。
「……もういい。行くぞ」
煙管の火皿を再び軽く弾くと、燃え残った灰がさらりと地面に落ちた。それを合図に、御影は長い袖を翻し、石垣の陰からさっさと歩き出す。久世が一礼してから静かに後を追い、桃原も慌ててその後についた。久世が唐突に足を止め、後方を振り返った。
「……だから、なぜついてくるんですか?」
冷たい声に、後ろをついてきていた桃原がビクリと肩を跳ねさせた。だが、足は止めない。
「じ、邪魔はしません! 協力したいんです!」
その目は必死だ。覚悟というより、半分以上は追い詰められた小動物のような気配を放っている。
(……じゃないと、帰れないので!!)
御影は懐から取り出した扇子をひょいと片手に回しながら、面白そうに目を細める。
「へぇ? じゃあ、役に立ってもらおうか」
桃原の背筋に悪寒が走った。
村役場は、小さくて飾り気のない建物だった。白木の柱にくすんだ瓦屋根、入口の引き戸は少し軋む。まるで、何十年も時が止まっているかのような佇まいだ。そこへ、場違いなほど洗練された足音が響いた。
御影が一歩足を踏み入れた瞬間、室内にいた職員たちの動きが止まった。
手にした書類を持ったまま固まり、視線は一様に御影に釘付けになる。木の机、煤けた壁、日に焼けた書類の山、そういった現実の中に、彼だけが異物のように鮮やかに浮かんでいた。まるで、田んぼの真ん中に白馬が立っていたかのように……誰もが言葉を失っていた。
「……お貴族様……?」
誰かがぽつりと呟く。その声がやけに大きく響いたほど、空気は静まり返っていた。
桃原は、内心で苦笑いしながらも思わず頷いてしまう。
(……そりゃ、見ちゃうよね)
当の御影は、視線を浴びていることなど一切意に介さない様子で、すたすたと建物の奥へと進んでいく。久世がそれに続き、周囲を睥睨するように警戒しながら歩を進める。その迫力に、職員たちがざわめいた。
「……すみませんが」
低く唸るような久世の声に、ピリリと場の空気が張り詰めた。職員たちは一様に肩をこわばらせ、数人は思わず目を伏せた。
(こっっっわ)
桃原は内心で悲鳴をあげつつも、慌てて久世の前に立ちはだかる。
「ちょ、ちょちょっと! 久世さん、何してるんですか! 皆さんを睨みつけてどうするんです? これから聞き取り調査ですよね? そんな怖い顔されたら、話せるものも話せなくなりますって!」
「……御影様を見すぎです」
「……は?」
思わず絶句した桃原は、久世の真顔に凍りつく。
(な、何言ってんだこの人……こわ……)
まるで吹雪でも吹き抜けたかのような寒々しい沈黙だった。先ほどまでのうっとりとした空気は一掃され、職員たちは居心地悪そうに視線をそらしていく。桃原は思わず額に手を当ててため息をついた。
「モモタロー、役立て」
御影が振り返らず、手元の扇子の骨を指でなぞりながら言い放った。
「えっ、まさかの丸投げ!?」
心の中で叫びながらも、桃原はすぐに自分の立場を思い出す。悲しいかな、ここは厳然たる身分社会。上位者の命には逆らえないのだ。
「……はい」
引き攣る頬を叱咤し、桃原はなるべく柔らかい笑顔を貼りつけて前に出る。
「えーっと、皆さん! 本日はご協力いただき、まことにありがとうございます! ご安心ください、まずは僕がお話をうかがわせていただきますので!」
(うん。まあこういうときは、見た目が地味で平凡な僕の出番だよね)