6.
静寂がゆっくりと解けていく。遠くで鳥のさえずりが戻り、草葉がかすかに揺れ始めた。その柔らかな気配に誘われるように、御影はゆっくりと視線を巡らせる。祈りの余韻がまだ肌に残る中、丘の上の御神木は、かつての闇をうつすような黒ではなく、やわらかな白い輝きを帯びていた。
「そうか・・・白樺の木だったんだな」
御影は、誰に向けたでもなく、ぽつりと言葉がこぼれたようだった。
静かな白い光に包まれた御神木を見つめながら、御影はふと考え込むように目を細める。長らく覆っていた影が祓われ、本来の姿を取り戻したその木は、どこか神々しささえ湛えていた。
しばらくの静寂ののち、御影は舞台の上から、丘の下に集まる人々へと声を投げかける。その声音は、遠くの鐘の音のように柔らかく響き渡った。
「黒い木は浄化され、土地も浄められた。迷える魂は天に還り、奇怪な現象も時期に収まるだろう」
一息ついて、御影は続ける。
「丘の木はこの土地を守護する御神木であられる。感謝と敬意を忘れるな。さすれば御神木の加護は強まり、この地の安寧となるだろう」
その言葉に呼応するように、領主は前へ進み出て、厳かな声で誓った。
「御影様、その通りでございます。御神木として、この地を守り続けるため、私どもも祈りを絶やさぬよう努めます」
御影はわずかに頷いた。一人ひとりの祈りは、やがて大きな力となるのだから。
舞台を降りた御影は、しばし足を止めた。丘の上には、柔らかな白光を宿す御神木と、それを静かに見守る人々の姿を見つめながら思う。
この地を覆っていた淀みは、たしかに祓われた。けれどそれは、決して誰か一人の力ではない。
祈った村人たち、静かに頭を垂れる領主、涙を拭う桃原。そして、傍らに寄り添う久世。
祈りは、誰の胸にもそっと息づいている。
誰かの幸せを願う心、忘れられたものを悼む心──
たとえ小さくても確かな思いが重なりあえば、やがて闇を和らげていく。
そしてーー
暁と、その妻が互いの手を取り合い、微笑みながら穏やかに村人たちを見つめていた。その表情は、深い悲しみの向こうにたどり着いた者だけが纏える、安らぎに満ちた微笑だった。
御影はそっと目を伏せ、重くため息のような息を一つ吐き出す。
語られぬまま埋もれていくものも、世には数多ある。
だが、忘れないと決める者がいる限り、それは確かに祈りとしてこの世に残る。
そうして生まれた祈りがまた、誰かを守る力となっていくのだ。
儀式を終えた御影たちは装束を脱ぎ、久世と共に領主の待つ応接室へ向かった。
部屋の中では、蝋燭の炎が穏やかに揺れ、木の壁にやわらかな陰影を描いている。しんとした空気の中、領主は静かに立ち上がり、深く一礼した。
「御影様、誠にありがとうございました。御神木の加護を、今後も大切に守り続けます」
御影は静かに頷き、丁寧に礼を返す。
「この地の祈りは、御神木を疲弊させることなく続けてほしい。御神木もまた、生きているから」
その声には、どこか労わるような慈しみの色が滲んでいた。言い終えると、御影は窓辺へとゆっくり歩み寄る。外はすっかり夜となり、雲の合間に星がいくつか、かすかに光っていた。
御影は、夜空を仰ぎながら静かに言葉を紡ぐ。
「歴史は、表に語られるものだけではない。忘れられた物語にも意味はある」
そこでふと、声がわずかに低くなる。彼は静かに目を伏せ、そのまま数拍、言葉を選ぶように沈黙した。
「……都ではこの出来事はなかったことにされるかもしれない」
その言葉に、久世は眉をひそめたまま御影の横顔を見つめる。領主はわずかに目を逸らし、唇を引き結んだ。
「だが、名もなく消えた者にも、確かに想いがあった。だからこそ、直系の者には忘れずにいてほしい。語り継ぐことは、その魂を慰める弔いになるのだから」
言葉を紡ぐごとに、御影の声音は澄み渡り、深みを帯びていく。そこに宿るのは、怒りでも嘆きでもない。けれど、ただ通り過ぎるには惜しい、誰かの人生が紡いだ静かな祈りだった。
沈黙ののち、領主は静かに頷いた。やがて、決意を込めて口を開く。
「私の先祖の過ちは教訓として、この土地を継ぐ子孫に伝えて参りましょう。二度と、同じ過ちを繰り返さぬように」
御影はわずかに微笑んだ。けれどそれは、どこか遠くを見つめるような、少しだけ寂しげな笑みだった。
「……そう、それでいい。歴史に拾われなかったものほど、人の記憶で支えるしかないのですから」