5.
御影が一歩、舞台へと足を踏み出す。その手には、金色に縁取られた白木の扇が静かに握られていた。
背後で太鼓が一打、低く響く。
久世の打つその音は、空気を断ち切り、ざわめきを一瞬にして沈黙へと変えた。
集まった村人たちは息を呑み、御影に全神経を集中させている。
陽光が御影の白衣を淡く照らし、銀の装飾はまるで聖なる光の粒のように煌めく。
御影はゆっくりと扇を開く。
扇の開閉に伴う風が、空間に清浄な波紋を広げるように感じられた。
足取りは軽やかにして淀みなく、一歩ごとに大地と呼吸を交わしているかのようだった。ひとつひとつの動作が精緻で、まるで祈りの言葉が形となって紡がれているかのようだった。
御影の舞は単なる個人の祈りだけにはとどまらない。
かつての高円宮の霊媒師が受け継いできた技と覚悟、時空をこえて幾代にも築きあげてきた「型」と、今この瞬間、御影という一人の霊媒師が命を懸けて捧げる「真」とが、舞台の上で重なり合っている。それは単なる所作でも、形式的な信仰でもない。積み重ねられた魂の記憶と、いまここに生きる者の祈りが交わるその一点にこそ、御影の舞の本質があった。
扇が奏でる風は、淀みを払い、闇に巣食うものを寄せ付けないかのように、空気を祓い清めていく。その舞は、霊魂へ捧げる神聖な儀礼であり、観る者の心を深く震わせた。
御影の表情は静かで、祈りにも似た真摯な覚悟がその瞳に宿っている。
まさに、舞いながら己の魂と向き合い、ここに集うすべての生命の安寧を願うかのように。
領主は御影と目が合うと、静かに手を合わせ、深い畏敬の念を込めて祈りを捧げた。
その姿を見つめていた村人たちも、訝しげな表情を解きほぐされ、やがてひとり、またひとりと目を閉じ、慎ましく手を合わせ始める。
初めは戸惑い、ただ見ていた人々の胸にも、いつしか言葉にならない何かが宿りはじめる。
静かに、手を合わせる――それは命を奪われた者たちと、残された者たちが、ようやく互いに向き合う最初の一歩だった。
やがて祈りは、音もなく丘を満たす柔らかな波紋となり、黒い木の梢の先までも届いていくようだった。
丘の上に集った人々の祈りは、やがてひとつの静謐な波となってゆっくりと広がっていった。
――どうか、安らかに鎮まりますように。
――どうか、想いが報われますように。
――どうか、無念が癒えますように。
御影は深く息を吸い込み、身をゆるやかに揺らす。まるで風に舞う羽根のように優雅に旋回し、その指先からは静かな光が零れ落ちるかのように繊細に広がっていく。その所作は祈りの舞とも言える、神聖な調べを奏でていた。
やがて御影の動きが静かに緩やかになり、最後の一歩を踏みしめる。扇を伏せ、胸元でそっと両手を添えたその所作は、まるで大いなるものへと身を捧げるような静謐さに満ちていた。
その瞬間、空気がわずかに震えた。
風は囁くように静まり、草葉のざわめきは夢のように遠のいていく。
ひとすじの光が雲間から差し込み、まるで舞台の上だけを選んで照らしていた。
空の青ささえも薄れ、音のない帳が世界を包み込む。
丘の上に漂うのは、現と幻の狭間――
この場が、ひととき神域と重なったのだと、誰もが無意識に悟っていた。
ひと息、風が舞台を撫でる。
御影はわずかに顔を上げ、御神木のほうへ向き直る。そこで足を止めると、静かに身を折り一礼を捧げた。長い裾が揺れ、髪飾りが微かにしゃらしゃらと鳴る。
御影は静かに身を折り、深く、深く礼を捧げたまま、時の流れさえ忘れているかのように動かなかった。
やがて――
その沈黙を破ることなく、空気がそっと波打つような感覚が走る。
草葉のあいだから、淡い影がいくつも揺らめいた。大柄の兵士を先頭に、この地で斃れた若き兵士の亡霊たち。ただひとつ、主を守れなかった悔いを胸に、長い間この場所に留まっていた、忠義の者たち。
やがて彼らの足元に、細やかな光の粒子が舞いはじめた。その光は静かに広がり、兵士たちの輪郭をやさしく包み込んでいく。淡く、柔らかく、その姿が少しずつ透けていく中で――彼らの表情には、確かに穏やかな笑みが浮かんでいた。
さらなる光が降り注ぎ、影たちはやがて境を失い、ふわりと舞い上がる粒子の一部となって、天へと導かれていく。
誰に名を呼ばれることもなく、それでも確かに、祈りに抱かれながら。
彼らはようやく、ひとつの光となって還っていく。
その光景を、木のそばで暁と綾女は厳かに見守っていた。肩を並べたまま、静かに頷き、迷える魂たちの旅立ちを見送っている。その横顔は、かつての悲劇を超えて、どこか安らかな光を宿していた。
御影はゆっくりと顔を上げる。
目の奥に浮かぶのは感情ではなく、ただ確かな気配を見つめる霊媒師のまなざし。
舞を終えた彼の前に広がるこの光景が、祈りと舞の果てに結ばれたものだと――確かに受け止めていた。
裾を静かにたぐり寄せるようにして、御影はふたたびひと息つく。
もう言葉は要らなかった。
ただ、祈りの余韻だけが静かに広がっていった。