3.
「御影様のお顔を知らない貴族がいるとは」
冷ややかな声音でそう言ったのは、さきほど桃原を容赦なく地面に押しつけた久世と呼ばれた青年だった。整った顔立ちに似合わぬ、鋭く淡々とした口調だ。
睨まれているわけでもないのに、言いようのない圧を感じて桃原は無意識に一歩身を引いた。久世はそんな反応に、目尻をわずかに緩める。人当たりのよさを装った笑みには、どこか底の見えないものがあった。
「……久世と申します。御影様の弟子で護衛も兼ねております」
久世はわずかに会釈をした。丁寧というより、礼儀を守る程度には慣れているといった風だ。桃原も改めて名乗りをあげる。
「私、地方行政局第三課所属、桃原太郎と申します! 一応、男爵家の長男です……!」
黒い大木から目を離さない御影に、久世が一歩前に出て低く報告する。
「桃原家。東辺境の小領主、男爵位。領地は山間部、戸数三十未満、と記憶しております。都への使節に一度も出たことのない家です」
御影は鼻を鳴らし、わずかに目を細めた。
「……ふうん。男爵家、ね」
御影口元には、微笑とも嘲笑ともつかない表情が浮かんでいた。
貴族とはいえ、桃原は東の辺境に暮らす貧乏男爵家の生まれだ。都に出る機会も少なく、高位貴族の顔など覚えていない。いや、覚える必要もなかった。その動揺に呆れたのか、御影はようやく黒い木から視線を外し、ちらりと桃原を見やった。
「……高円宮 御影。帝都の高円宮家・次男。帝勅命により、この地に派遣された霊媒師だ」
名乗られた瞬間、桃原の脳裏に警鐘が鳴り響いた。
――高円宮。
その名を知らぬ貴族など、この帝国には存在しない。帝の血を引く、名門中の名門。大和帝国における“高貴”の象徴ともいえる家名だ。
地方の男爵家に生まれた自分など、天と地ほどの差がある。
桃原は慌てて膝をつき、地面に額がつきそうなほど深く頭を下げた。さっきまで気安く話しかけていたことを思い出し、背筋に冷たい汗がつたう。
「しししし、失礼しましたっ!!」
「男爵家ならば霊媒師の存在を知らずとも無理はないな。下層の家にまで伝わる話でもないし」
肩をすくめた御影の口元には、微笑とも嘲笑ともつかない表情が浮かんでいた。
――霊媒師。
その言葉に、桃原の脳裏がかすかにざわついた。
帝直属で、怪異や呪詛を取り扱う特別な役目。まるでおとぎ話の中に出てくるような、現実味のない存在。
「……そういえば、そんな噂……聞いたこと、あるような……まさか、本当に……?」
ぽつりと漏れた桃原の声に、御影は興味なさげに目を逸らす。久世もその横で静かに控え、わずかに視線を木の根元に送っていた。
風がざわりと黒い葉を揺らした。