4.
丘の上、黒ずんだ巨木が空に向かって枝を広げている。
その黒い木と対面するように、簡易的な舞台が設けられていた(御影の命で領主に作らせたものだ)
舞台と木の間には、村人たちがぎこちなく集まり、ざわざわと声をひそめ合っている。
「儀式って、いったい何をするんだ?」
「さあな……黒い木に近づいて、無事で済むのか?」
「木がすすりなくらしいじゃないか。こんなところいたくないね」
「祟りだよ……今更清めるたって効果あるんか?」
不安を滲ませたささやきが、あちこちで重くこだました。
舞台の袖――幕の影から、その様子をこっそりと覗いていた桃原が小声で呟いた。
「……本当に、大丈夫でしょうか……」
「大丈夫だ、バカめ」
不意に背後からかかったその声に、桃原は振り向いて――言葉を失った。
そこに立っていたのは、白の装束をまとった御影だった。
その姿は、神前に降り立つ巫のようであり、まるで、この世の理から半歩だけ外れたような存在感があった。
淡く揺れる衣の裾、濃紺の髪には銀の装飾が美しく編み込まれ、顔にはほんのりと薄化粧が施されている。中性的な顔立ちはさらに研ぎ澄まされ、人ならざる気配すら漂わせていた。
そんな御影の裾を、久世がそっと手に取り、踏まぬように慎重に支えている。気づかれまいと久世は視線を逸らしながらも、舐めるように白い衣の流れを見つめていた。禁欲的なまでの清廉さの中に秘められた色気が、じわりと彼の心に染み渡り、理性を揺さぶる。
……あまりにも神聖で、触れることさえはばかられる。それでも、目を離すことはできなかった。
本当は、この姿を誰にも見せたくない。
だがそれと同時に、世界中の人たちに見せつけたくもなる――これが御影様なのだと。
そして、その美しさと気高さに触れることを許されているのは、この瞬間、世界で自分ただ一人だけだ。
久世は、自分だけがこの距離で御影に触れられるという甘美な独占欲と、痛みのような陶酔感を噛みしめながら、そっとその白い裾を支え続けていた。
無意識のうちに久世の胸は高鳴り、抑えきれぬ熱が身体の奥底から込み上げるのを感じる。
「な……なんと……」
思わず見惚れた桃原に、御影はちらりと視線を送り、口の端だけで微かに笑った。
「なんだ、モモタロー。惚れたか?」
その瞬間、背後から突き刺さるような視線――
ギンッと睨む久世の眼光に、桃原はビクッと肩をすくめた。
「ち、違いますっ違いますっ! た、たしかに……咲耶姫のごとく、お美しいとは思いますが!」
「知ってる」
ため息をつきながら御影は重たげな頭飾りを小さく揺らし、
「重いし、動きにくいし……形式ばった装いは嫌いだが……今回は、こうして“演出”した方が効くからな」
その声にはどこか静かな決意が滲んでいる。
舞台袖から、御影の眼差しは――観客の先、遥か丘の上。黒い木の根元をまっすぐに見据えている。そこには、暁と、その妻の姿があった。二人は肩を並べ、無言のまま御影を見守っている。これからの儀式に、自らも立ち会う意志を示すかのように。
その二人の姿に、御影はわずかに首を傾け、そっと一礼するように頷いた。その傍らで、久世が懐からひと振りの扇を取り出し、無言のまま御影へと差し出す。金色の地に繊細な文様が浮かび、白木の骨が陽の光を受けて淡く輝く、簡素ながらも格調のある一振りだ。御影はそれを受け取り、わずかに眉を上げて微笑んだ。
――かつて師である父が教えてくれた。
「舞台に立つ霊媒師は、時に役者でもある」と。
ならば今は、大いに見せつけてやろうじゃないか。
村人たりの恐れも、暁と綾女の無念も、木の穢れも……全て、この身ひとつで飲み込んで。
丘を吹き抜ける風が、舞台の幕を優しく揺らした。
静寂の中、確かに――何かが、動き出そうとしていた。