7.
森の小道を、一行が夜気を裂くように進んでいく。濃い香の煙は揺らめく灯火のように、静かに周囲を包んでいた。
「はあ……この香りが、唯一の癒し……」
満身創痍の桃原は、荷を背負わされた上に、お香の台を手に抱え、ふらふらと歩を進めていた。鼻をひくつかせながら、久世の背中に向かっておそるおそる声をかける。
「えっと、今……久世さんのそばに、領主様の霊が……?」
視線は、久世のすぐ横――だが、そこにはただ、いつもと変わらぬ涼やかな面持ちの久世がいるだけだった。少しばかり泥と煤に汚れ、背中の着物には焦げ跡があったが、その端正な顔立ちには、戦いの疲れもさほど感じられない。
「うん……いつもの久世さんですね……」
小声でぶつぶつと呟く桃原の頭上を、ふわりと香煙が通り抜けた。
御影は一瞥もくれず、前を向いたまま静かに言い放つ。
「黙って歩け。線から外れるな。置いてくぞ」
「は、はいっ!」
桃原は背筋をぴんと伸ばし、慌てて歩幅を速める。香の煙の輪郭が、闇にひそむ何かを押し退けるように濃くなってゆく――その先に、森の闇を割って浮かび上がる、丘の影が見えてきた。
丘の上、黒い木の根元に、その人影はいた。青白い月明かりが届かぬ闇のなかで、ひとり膝を抱え、細くすすり泣く声が微かに響いている。それはまるで、百年という時の底に沈み込んだ、寂しさの音色だった。
御影がそっと歩み寄り、静かに告げる。
「……約束通り、帰ったぞ」
その声に、影ははっと顔を上げる。うっすらと涙に濡れた面差しには、長い時を超えても消えなかった想いが刻まれていた。
「お、お待ちしておりました……! このまま、お戻りいただけなければ……私はまた、一人ぼっち――」
その焦りが言葉に滲むのを、御影は笑みで宥める。
「俺は必ず帰ると言っただろう。――約束は、守る主義なんでな」
優しく告げながら、御影は視線を落とし、続ける。
「“あの者”はすでに地に還った。己の罪を償うまで、冥府の門に繋がれたままになる。――未来永劫、あなたを脅かすことはない」
その言葉に、綾女は目を見開き、そして、静かに跪いた。
「暁さまの仇を……討っていただき、ありがとう……ございます……」
震える声とともに、頭を深く垂れる。御影は小さく手を振った。
「礼を言うには、まだ早い」
ふっと肩を揺らし、口元にわずかな笑みを浮かべる。
「……綾女殿に会いたいという客を連れてきた。感謝はその後でいい」
言いながら、後ろに控える久世へと顎をしゃくる。奥方は顔をあげ不思議そうに久世を見つめる。久世は一歩静かに前に出ると、目を伏せ、祈るように口を動かした。
その瞬間――揺らめく香煙の中から、淡い光に包まれ、一つの人影が彼の背に寄り添うように浮かび上がる。
「……あ、あ……暁さま……!」
綾女の声が、細く、涙を含んでこぼれた。まるで夢を見ているかのように目を見開いた綾女は、次の瞬間、袖口で口元を押さえ、震えるように一歩、また一歩とにじり寄った。
やがて足が自然と駆け出し、転びそうになりながらも、そのまま暁の胸元へと身を投げるように飛び込む。
「待たせて……すまなかった。辛い思いを、させた……」
暁の低く震える声に、綾女は首を横に振りながら、胸元に顔をうずめる。
「いいえ……いいえ……お待ちしておりました……ずっと、この身が果てても……」
暁はその細い身体を、二度と手放すまいと言わんばかりに、強く抱きしめた。
「約束が果たせず……すまなかった……」
互いの頬を伝う涙が、衣に、肌に、静かに染みてゆく。
ひとしきり抱き合ったのち、ふたりはゆっくりと顔を上げた。
暁は、綾女の頬を伝った涙をそっと親指で拭う。綾女もまた、彼の顔にそっと手を添え、その温もりを確かめるように、静かに微笑んだ。
「ただいま、戻った」
静かに告げられたその声に、綾女は涙を湛えた瞳のまま、柔らかな笑みを浮かべる。
「お帰りなさいませ――」
空はまだ淡い藍に包まれ、東の地平がうっすらと白みはじめていた。
長く重く垂れこめていた夜の帳が、静かに、静かにほどけていく。
寄り添うふたりの霊魂に、朝の光がそっと降りそそぐ。
それはまるで、永き時を越えて届いた祝福のように――
叶わぬまま潰えた約束が、
百年の時を越え、
ようやく静かに終わりを告げた。