2.
なんて、哀れな姿なのだろう。
久世は、無表情という仮面の裏に、かすかな憂いを宿していた。
叶わぬ恋情。一方通行の愛。独占欲。
それでも尽くさずにはいられない、報われぬ想い。
あの男――笹舟柊の歪み切った姿に、自分自身の影が重なって見えた。
自分と、あの哀れな鬼と。
何が違うのか。
もしも、御影様の心を得られなかったなら。
もしも、この想いが、どこかで捻じれていたなら――
あれはきっと、自分の行き着く先かもしれない。
「き、木が……!」
桃原が震える声で呟いた。
聖なる木。その幹に深々と走った亀裂から、黒い霊気がじわじわと滲み出している。空気は淀み、吐く息すら重く感じるほどだった。
「・・・もう限界だ」
御影は厳しい表情で答える。
「あいつは堕ちた。魂は、もう救えない――祓うしかない」
「ま、待って! 鬼ころりんの結界は!? あれで足止めは……!」
「そんなもの、簡易的なものだ。鬼の足止めになればいいな」
「えええええーっ!? よく分かんないけど、すごい怖いやつがこっち来てるんですよね!? こっち来てるんですよねぇぇ!?!?」
桃原が半泣きで後ずさる。御影は冷ややかに一瞥をくれ、言い捨てた。
「うるさいな。狙いは綾女殿だ。だから俺の出番だ。お前は下がってろ。邪魔だ」
「うう……」
すごすごと桃原が木陰へ退く。御影は隣に立つ久世へ振り返った。
「――久世?」
返答がない。
「おい、久世!」
「……はい!」
弾かれたように返事をする久世に御影が鋭く目を細めた。
「ぼーっとするな。荷物から刀を出せ。準備するぞ」
「はっ!」
久世はすぐに駆け、荷を解き始めた。
そのときだった。
黒き鬼影――笹舟柊が、じり、と歩を進め、地に撒かれた日本酒の境界線へと足を運ぶ。
――バチッ!
足元で何かが弾けたような音。瞬間、結界の光がにわかに強く発光し、鬼の足が止めた。
「……クッ、これしきの……!」
柊が苦悶の声を漏らし、じり、と一歩下がる。白い結界の光が鬼の足元で波紋のように揺れ、侵入を拒み続ける。黒き角の男は牙を剥き、獣のように唸った。そして首を仰け反らせると、叫んだ。
「オオオオオオオオオオオオ――――ッ!!」
禍々しい咆哮が夜空を裂く。呪詛のようなその声に、周囲の木々がざわりと揺れ、夜の空気が震えた。咆哮とともに、闇がざわめく。深い森の奥、誰もいないはずの暗がりから、ぞろり、ぞろりと、異様な気配が迫ってくる。
吐き気を催すような、どす黒い瘴気。血のような、鉄のような、腐臭すら混じった霊気の渦が風に乗り、辺りを覆いはじめた。
「な、なんか……すごく寒気が……春なのに……」
桃原はぶるりと身を震わせ、思わず両腕で自らの体を抱きしめる。彼の目には、何も映っていない。耳にも異音は届いていない。ただ、肌が、背筋が、内臓が――人間としての本能が、得体の知れない“異質な何か”の接近を告げていた。
その桃原の震えに、香煙の向こうで綾女が低く呟いた。
「……暁様を裏切った外道たちを、呼び寄せたのね……」
「っ……!」
久世は眉をひそめ、無意識に刀の柄に手をかける。御影は鼻で笑いながら言った。
「はっ。仲間を呼んだってか。大層なことで……」
その声は皮肉めいていたが、口調の裏には静かな怒気が滲んでいた。
「冥府から仲良くご登場とは、さぞ仲睦まじい亡者たちだな。――仲良し同士、まとめて送ってやるよ」
夜の森が、ざわりと揺れた。人とも獣ともつかぬ蠢きが、地を這うように迫る。
この場にいるのは、生者がわずかに三人。
対するは、百年前に己が欲のままに主を裏切り、地獄すら拒んだ外道たちの無数の亡霊たち。
満ちる月を覆い隠すように、黒い雲が空を這い始めた。
地上と冥界が交わる夜――決戦の刻が、音もなく、迫っていた。