1.
ふと御影は目を伏せる。霊視で見せられた過去が、靄のように意識の底へと沈み、現実の空気が戻ってくる。
目の前に立つ奥方の霊が、どこか寂しげに微笑んだ。
「……これが私に起きた事の顛末です」
その姿は、哀しみを超えて静かに凛としていた。御影はゆっくりと頷いた。
「許可を頂けますか。弟子たちにこのことを話しても」
「ええ。私の言葉として、伝えてくださって構いません」
奥方が目を伏せると、その気配がふわりと後退する。御影は背後を振り返り、久世と桃原に語りかけた。
「百年前、この地では――」
御影は端的に事実を述べる。久世は目をつぶって静かに聞き、全て話を終えたところで桃原がしゃくり上げながら泣き崩れた。
「な、なんて悲しいんだぁぁ……!」
彼は顔を上げると声を震わせて続ける。
「奥方様っ、よくお一人で……頑張りましたねぇぇぇ……!」
だが、桃原の顔は見事に綾女とは反対方向を向いていた。
「おい、綾女殿はこっちだぞ」
と、御影が呆れたように突っ込む。桃原は慌てて向きを修正し、平伏した。そのやり取りの最中、御影の脳裏にふと疑問が浮かぶ。
(……そういえば)
同じく思い至ったのだろう、久世が声を低くして問う。
「御影様……あの禍々しいものの、正体はお分かりになりますか」
「初めて綾女殿の霊と対話した夜に現れた……“あれ”か」
御影は綾女の背後に立つ黒々とした木を見つめる。静かに、しかし確かに呼吸しているかのようにだった。
「あの木は、霊たちのための“鎮め”だ。綾女殿が堕ちぬよう縛るためでもある。兵士たちの魂も……」
言いながら、御影は眉をひそめた。
「だが、アレが動き出しているということは、もう――」
地の底からドン、と響くような重い音が鳴り、続いて、ずん、と空気が押し潰されるような圧が辺りを包んだ。息苦しさが襲い、カァァ……と、鴉の不吉な鳴き声が響く。
見えないはずの桃原ですら、何か異常を察し、そわそわと落ち着かない様子を見せた。
「……また、来たわ」
綾女が呟いた声は、震えていた。御影が口をへの字に曲げる。
「死んだのにしつこい奴だな」
「え? え? 何が起きたんです??」
桃原が声を上ずらせる。久世はじっと、森の奥――あの黒い木とは反対側、かつての領主館跡を睨みつけた。
「この前、御影様との対話を邪魔してきた存在と同じ気配だ」
「い、一体、何が……?」
その時、綾女が振り向いた。
霊とは思えぬほど強い怨念のこもった声で叫ぶ。
「なぜ……私が死んでも、こうして私をつけ狙うの! 裏切り者の柊!」
その名が告げられた瞬間、空気がさらに重く、濁っていく。
綾女の視線の先――木とは反対側、森の奥にぽつりと現れた影。軍服風の外套をまとった男の姿だった。だが、黒い霧のような瘴気がその体を包み、まともに直視できないほど禍々しい気配を放っている。
生前は目鼻立ちの整った男であったのだろう。だが今は、血の気のひいた真っ青な顔はところどころにヒビが入り、目は真っ黒に染まり、形のよい唇にはいやらしい笑みが浮かび、その面影はもはや薄れていた。
――本当に、それをまだ“人”と呼べるのだろうか……
「……くくく、すべてはあなたのためだったというのに」
男が口元を吊り上げて嗤う。その声は、生前の記憶すら食い尽くされたかのような濁声だった。
「私はただ……あなたの幸せを望んだだけなのに」
ぞっとするようなその言葉に、御影はすぐさま印を切って霊気を集めた。久世も構えを取り、男を視ることができない桃原も腰を抜かして地面にしがみつく。
「私の……幸せですって?」
綾女の顔に怒りが浮かぶ。
「暁様を斬り捨て、民を殺戮して? 私の幸せを、返してよ!!」
「そうしなければ、あなたは私を見てくれなかったでしょう?」
男――笹舟柊の目が狂気に染まりながら、まっすぐ綾女を見据える。
「でも……もう、あなたは逃げられない。あの忌々しい木の結界も、長くは保てまい……!」
――ドンッ。
地の底から響くような重低音が鳴り響く。
そして――バキィッ、と甲高い音を立て、聖なる木に深い亀裂が走った。
「やっと……やっと……!」
橘の輪郭が揺れ始める。骨がきしみ、体が軋む。霊気が濁り、全身から黒い瘴気が吹き出す。
「あの木のせいで近寄れずにいたが……
私はようやく――あなたを迎えに行けるのだァァァァ!!」
絶叫と共に、男の纏う邪気はさらに増した。
その頭には角が生え、目は血のように赤く染まり、唇の奥からおぞましい牙がのぞいた。
――裏切り者は、ついに鬼へと堕ちたのだ。




