5.
あの人が大切にしていた場所を、私が守らなくては──。
私は、瞼の奥に残る乳母の姿を振り払うようにして、燃え盛る館を背に、裏手の山道を駆け上がった。
あの人が大切にしていた場所へ辿りつかねばならない。
村役場へ向かうのではなく、私は、あの木のある丘を目指した。
足元は暗く、煙と熱で喉が焼けつく。息を吸うたびに、肺の奥まで痛む。
道の途中には、倒れた兵士たちの影が点々と横たわっていた。
涙は止まらなかった。次から次へと零れ落ちるそれに、胸の奥が締めつけられて、息すら苦しい。
視界は煙と涙でぼやけ、足は鉛のように重たくなっていく。
それでも──あの木のもとへ向かいたかった。
私たち三人が、未来を誓った、あの丘へ。
ようやく木の根元にたどり着き、幹に手をついて乱れた息を整える。
呼吸が落ち着くのを待ち、私はおそるおそる振り返った。
そして、そこから見下ろした領地は──火の海だった。
「そんな……なんてこと……」
脚から力が抜け、崩れるようにその場に座り込む。
すべてが焼けてゆく。人々の暮らしも、あの人の夢も、私たちの誓いも──何もかも。
「ああああああああぁぁぁ……!」
私は地面に這いつくばり、喉が裂けるほどの慟哭をあげた。
どうして。
どうして、こんなことに。
──そのとき、背後で枝を踏む音がした。
はっとして、私は涙に濡れた顔を上げる。
「ここにいると思っていました。……迎えに来ましたよ」
ゆらりと姿を現したのは、夫の乳兄弟──裏切り者の男だった。どこか暁様の面影のある端正な顔立ちは、狂気に染まり歪んでいるように見えた。うすら笑いを浮かべ、どこか嬉しげに私を見下ろしている。
「煤にまみれていようと、あなたはいつも美しい」
私は、この男の言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「迎え……? 何を言っているの? あなたが……暁様を殺した……裏切ったくせに! 誓ったのに……三人で、あれほど領地を守ると約束したじゃない……!どうして……なんでこんなことを!!」
「誓い? そんなもの、幻想ですよ」
男は肩をすくめ、薄っぺらな笑みを浮かべたまま言い放った。私が睨みつけても、まるで意に介さない。
「私は彼よりも優れていた。なのに、誰もそれを認めようとしなかった……あなたもさえも、それを認めてはくれなかった。あなたは、あんな男ではなく、私を選ぶべきだったんだ」
「……っ」
「幼き頃より、ずっとあなたの側にいたのですよ。あなたは賢く、気高く、誰よりも美しかった。私は……私はずっとずっとずっと──あの男よりもあなたをお慕いしていたのです!!」
男の拳が震える。その手には、怒りと執念がぎゅっと握られていた。
「それを……少し身分が高いからって……横から掠め取るような真似を──あいつは……ッ!」
その顔に、怒りが滲んだかと思えば、ふいに表情が一変する。目を細め、恍惚としたように囁いた。
「でももう、暁はいない。……邪魔者は排除しましたからね。
綾女様、私と……契ってくださいますよね?」
その言葉を聞いた瞬間、私の身体は震え始めた。
怒りとも恐怖とも違う。
もっと冷たい、氷のようなものが、全身を這う。
この男の妻になる──?
ふざけないで!
この、裏切り者が。
嗤う唇を見つめながら、私は、そっと、懐に手を滑らせた。そこには、護身用にと、戦の前に夫が持たせてくれた小刀がある。刃に触れると、ひんやりとした冷たさが指先に伝わり、心が静まっていく。
「できるなら……使わないでほしいんだが……」
そう言って渡してくれた、あの人の少し悲しげな笑顔が脳裏に浮かんだ。
でも──
「お前に慰みものにされるくらいなら──」
私はひと息に、喉元へと刃をあてた。
驚愕に目を見開く男の顔を見て、ふふっと笑みがこぼれる。
──私のこの身は、すべて暁様のもの。
あなたになど、血の一滴すらあげないわ。
指先が、どんどん冷えていく。
足元が揺れ、世界が傾いていく。
──最後に浮かんだのは、ただ、あの人の笑顔だった。
……暁様……
あなたに、会いたかった……
***
それから、どれほどの時が過ぎただろう。
妻は、今日も待っている。
十年、二十年、五十年──百年経っても、あの人はまだ来ない。
帰らぬ夫を想い、大木の下ですすり泣くその声は、今も夜風に混じって、静かに響いている。
悲しくて、悔しくて。
裏切りに、まったく気づけなかった自分が、何よりもつらい。
それでも、今日もまた──来ない。
来ないあの人を、妻は永遠に、待ち続けている。