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帝国直属霊媒師の心霊事件簿ー夜に泣く木のひみつー  作者: 水瀬カフカ
第5章 燃える誓い、還らぬ想い
28/42

5.



 あの人が大切にしていた場所を、私が守らなくては──。


 

 私は、瞼の奥に残る乳母の姿を振り払うようにして、燃え盛る館を背に、裏手の山道を駆け上がった。


 あの人が大切にしていた場所へ辿りつかねばならない。

 

 

 村役場へ向かうのではなく、私は、あの木のある丘を目指した。

 足元は暗く、煙と熱で喉が焼けつく。息を吸うたびに、肺の奥まで痛む。

 道の途中には、倒れた兵士たちの影が点々と横たわっていた。


 涙は止まらなかった。次から次へと零れ落ちるそれに、胸の奥が締めつけられて、息すら苦しい。

 視界は煙と涙でぼやけ、足は鉛のように重たくなっていく。


 

 それでも──あの木のもとへ向かいたかった。


 私たち三人が、未来を誓った、あの丘へ。


 ようやく木の根元にたどり着き、幹に手をついて乱れた息を整える。

 呼吸が落ち着くのを待ち、私はおそるおそる振り返った。



 

 そして、そこから見下ろした領地は──火の海だった。

「そんな……なんてこと……」

 脚から力が抜け、崩れるようにその場に座り込む。

 

 すべてが焼けてゆく。人々の暮らしも、あの人の夢も、私たちの誓いも──何もかも。


「ああああああああぁぁぁ……!」


 私は地面に這いつくばり、喉が裂けるほどの慟哭をあげた。


 

 どうして。

 どうして、こんなことに。



 


 ──そのとき、背後で枝を踏む音がした。


 はっとして、私は涙に濡れた顔を上げる。

「ここにいると思っていました。……迎えに来ましたよ」

 ゆらりと姿を現したのは、夫の乳兄弟──裏切り者の男だった。どこか暁様の面影のある端正な顔立ちは、狂気に染まり歪んでいるように見えた。うすら笑いを浮かべ、どこか嬉しげに私を見下ろしている。

「煤にまみれていようと、あなたはいつも美しい」

 私は、この男の言葉の意味がすぐには理解できなかった。

 

 

「迎え……? 何を言っているの? あなたが……暁様を殺した……裏切ったくせに! 誓ったのに……三人で、あれほど領地を守ると約束したじゃない……!どうして……なんでこんなことを!!」

「誓い? そんなもの、幻想ですよ」


 男は肩をすくめ、薄っぺらな笑みを浮かべたまま言い放った。私が睨みつけても、まるで意に介さない。


「私は彼よりも優れていた。なのに、誰もそれを認めようとしなかった……あなたもさえも、それを認めてはくれなかった。あなたは、あんな男ではなく、私を選ぶべきだったんだ」

「……っ」

「幼き頃より、ずっとあなたの側にいたのですよ。あなたは賢く、気高く、誰よりも美しかった。私は……私はずっとずっとずっと──あの男よりもあなたをお慕いしていたのです!!」


 男の拳が震える。その手には、怒りと執念がぎゅっと握られていた。

「それを……少し身分が高いからって……横から掠め取るような真似を──あいつは……ッ!」

 その顔に、怒りが滲んだかと思えば、ふいに表情が一変する。目を細め、恍惚としたように囁いた。

「でももう、暁はいない。……邪魔者は排除しましたからね。

 綾女様、私と……契ってくださいますよね?」


 

 その言葉を聞いた瞬間、私の身体は震え始めた。

 怒りとも恐怖とも違う。

 もっと冷たい、氷のようなものが、全身を這う。


 この男の妻になる──?


 ふざけないで!

 この、裏切り者が。



 

 嗤う唇を見つめながら、私は、そっと、懐に手を滑らせた。そこには、護身用にと、戦の前に夫が持たせてくれた小刀がある。刃に触れると、ひんやりとした冷たさが指先に伝わり、心が静まっていく。


「できるなら……使わないでほしいんだが……」

そう言って渡してくれた、あの人の少し悲しげな笑顔が脳裏に浮かんだ。


でも──


「お前に慰みものにされるくらいなら──」


 私はひと息に、喉元へと刃をあてた。

 驚愕に目を見開く男の顔を見て、ふふっと笑みがこぼれる。


 ──私のこの身は、すべて暁様のもの。

 あなたになど、血の一滴すらあげないわ。



 

 指先が、どんどん冷えていく。

 足元が揺れ、世界が傾いていく。


 ──最後に浮かんだのは、ただ、あの人の笑顔だった。


 ……暁様……

 あなたに、会いたかった……




 


***


 


 それから、どれほどの時が過ぎただろう。


 妻は、今日も待っている。

 十年、二十年、五十年──百年経っても、あの人はまだ来ない。


 帰らぬ夫を想い、大木の下ですすり泣くその声は、今も夜風に混じって、静かに響いている。

 


 悲しくて、悔しくて。

 裏切りに、まったく気づけなかった自分が、何よりもつらい。

 


 それでも、今日もまた──来ない。

 来ないあの人を、妻は永遠に、待ち続けている。



 




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