3.
綾女は、ふと湯のみを見下ろしたあと、静かに顔を上げた。御影をまっすぐに見つめるその瞳には、どこか懇願にも似た想いが宿っている。
「……あなたのように、ただの亡霊に心を傾けてくれる方なんて、他にいませんでした。だから、お願いです――どうかこの話を、聞いていただけませんか」
彼女がそっと口を開くと、御影の視界に、ふわりと光が差し込んだような感覚が広がる。
――これは、記憶。彼女の魂が語る、かつての真実。
***
「私は、近隣の豪族の娘として生まれました。家は古くから笹舟領と縁があり、領主のご両親とも親しい間柄でした」
視界が霞み、淡い光景が浮かび上がる。
小高い丘の上――今よりずっと幼く、笑い声をあげて駆け回る三人の子どもたち。
「領主、暁様と彼の乳兄弟、そして私は幼い頃から共に過ごし、兄弟のように絆を深めてきました。剣に引いで、学問では優秀な成績を収め、誠実で誰よりも優しい暁様は誰からも慕われる存在でした。その隣には、いつも暁様のよき理解者である乳兄弟がいました。言葉数は少ない彼でしたが、いつも私たちを温かく見守ってくれて、私にとっては頼れる兄のような存在でした。
丘の上で剣術の稽古をする二人を眺めたり、時には厨房から盗んだ果実を三人で分け合って食べて叱られたり、どれもが宝物のような思い出です。
私たち三人は、よくこの丘を駆け回り、この木の下で語り合いました。この丘からは領地が一望できるでしょう? だから私たちは、ここを“誓いの丘”と呼んでいたんです」
“この領を、三人で守っていこう”――
「『この三人がいれば、きっと大丈夫だ』――そう言って、私たちは笑い合っていたんです」
無邪気な声が風に乗り、御影の耳に届いた気がした。
「年頃になり、家格も釣り合うと判断され、私は暁様と婚約することになりました。嬉しかった。私は幼いころから彼が好きで……きっと、彼も同じ気持ちだったと信じています」
ゆっくりと場面が移り変わる。
婚礼の前夜、夕焼けの中、三人で並んでこの木の下に立つ姿が見える。
「婚姻の前夜、私たちはもう一度この木の前に立ち、誓いました――共に手を取り合い、深く愛し合いながら、この領地を慈しみ、育て、末永く守り抜こう……と、そう誓い合いましたの」
その場にいたもう一人。乳兄弟の青年が真剣な面持ちで頭を垂れていた。
「それを見ていた乳兄弟もまた、暁さまに忠誠を誓いました。どこまでも共にあると、心から」
御影の胸に、ひとときの安らぎが流れ込む。
彼女の“幸せ”が、あまりにもまっすぐで、あたたかくて――。
「幸せでした……けれど、それは長くは続きませんでした」
空が翳り、風が吹き抜ける。
霊視の中に、時代の変わり目が忍び寄る。
「黒船が来航し、世の中がざわつき始めた頃。領内でも不穏な噂が立ち始めました。暁様は、若くして領主を継ぎ、帝に忠誠を誓っておられました。先代に倣い、民のため、国のためにと」
繁栄する城下町、堂々と歩く若き領主の姿。だが、その背後には妬みと敵意が芽吹いていた。
「暁さまは、よくも悪くも目立つ方でした。立派で、賢くて……格好よくて。ご婦人方の人気者でしたのよ、ふふ」
その微笑みに潜む影が、次第に濃くなっていく。
「ある日、鎖国派の武装集団が我が領に迫りました。暁様は冷静でした。相手は多くとも、勝てぬ数ではないと……そう仰って、出陣されました」
──その朝、暁様は出陣前に、私にひと目会うために足を運んでくださいました。
出征の支度で慌ただしい中、それでも私のために時間を割いてくださったのだと思うと、胸が少しだけ温かくなったのを覚えています。
「すまない。すぐに行かねばならないのだが……渡しておきたいものがある」
そう言って暁さまが懐から取り出したのは、小ぶりな布に丁寧に包まれた、ほっそりとした小刀でした。
「これは……?」
「護身用だ。戦のさなか、何が起きるかわからない。できるなら使わずに済むのが一番だが……」
暁様は、ほんの少しだけ寂しそうに微笑まれました。
「君には、どうか――ちゃんと生きていてほしい」
私はそっと布をほどきました。そこに現れた小刀の鞘には、紫と白の花が織りなす繊細な蒔絵──あやめの花が咲いていました。私の名に因んで、あつらえてくださったのでしょう。
「……これ、私の……?」
「ああ。君の名には『信じ合う心』という意味があるそうだ。あやめの花もまた、誠実と高潔を象徴する。まさに、君にこそふさわしい」
その言葉に、胸がきゅうっと締めつけられました。どこまでも真っ直ぐで、誰よりも優しく、誠を貫く方。そんな暁様だからこそ、私は……。
「ありがとうございます、暁様。必ず……必ず帰ってきてくださいね」
「あぁ……約束する。たとえ、どんなことがあっても必ず君の元へ帰ろう」
私の手をそっと包み込んでくれた、大きくて温かい掌。
そのぬくもりを最後に、暁様は静かに、そして何も告げずに去っていかれました。
私は小刀を胸に抱きしめ、何度もその蒔絵に指を滑らせました。
──まるで、あなたが私のそばにいてくださるようで。
――必ず帰る。
――私が必ず、お守りします。
二人の男が、それぞれに、綾女へと約束を交わした。
「なのに――」
綾女の声が震えた瞬間、霊視の中の空が、墨を流したように黒く染まっていく。