2.
御影は懐から銀の香筒を取り出し、静かに蓋を外した。中に仕込まれていた香材を小さな香炉に落とすと、ぱち、と乾いた音を立てて火が走る。焚き上がった煙は、伽羅の奥ゆかしい香りに、どこか異国めいた甘さと薬草の苦みを含んでいた。
空気が変わる。辺りの空間が、ひとときだけ静かに張りつめたようになる。
「……うわあ、いい香り……」
思わず漏れた桃原の声に、御影はちらと目をやる。
「伽羅に、乳香と没薬をわずかに混ぜたものだ。俺専用の調合でな」
御影は香炉を地に置き、その傍で膝をつく。
「伽羅だけじゃ、霊をこちらに呼び込む力が弱い。異国の香を混ぜると、迷える魂が近寄りやすくなる」
立ちのぼる煙は月光に照らされ、淡い霧のように揺れた。風がやみ、木々のざわめきが止まり、辺りは静寂に包まれる。
やがて――その中に、白い影が現れた。
香の煙の向こうに現れたのは、昨日と同じ、上品な衣をまとう女の霊だった。こちらを不安げに見つめている。
御影は小さく息をつくと、傍らの荷から銀色の筒を取り出した。それは小ぶりな保温壺で、軍用の携行水筒を上品に改良したような造りをしている。丸みのある蓋の内側は、そのまま杯として使える仕様だった。くるくると蓋を外し、御影は中の液体をとくとくと注ぐ。湯気が立ちのぼり、甘やかな柑橘の香りがふわりと漂った。
「……ずっと泣いていたから、喉も乾いただろう。蜂蜜は、喉に効く」
杯を、そっと香炉の前に置く。
「ゆず蜂蜜茶だ。温かいうちにどうぞ」
その一言に、女の霊の震えがぴたりと止まった。伏せられた顔の奥で、涙のような霊気がすっと流れ落ちたように見えた。
桃原はその光景をじっと見守っていた。
霊媒師として冷静にふるまう御影が、女の霊にゆず蜂蜜茶を差し出す姿を、不安そうに見つめる。
「幽霊さん……それ、飲めるんですか?」
御影はちらりと桃原を見て、呆れたような声で言う。
「お供え物という概念を知らないのか、お前は」
その言葉に、桃原は一瞬言葉を失った。霊にお供えをすることが、当たり前のようにふるまう御影は、まるで何も特別なことをしていないかのように見えた。
女の霊は湯のみの前にそっと座ると、どこか不思議そうに言った。
「あなた……変わってるわね」
御影は肩をすくめて返す。
「そう?」
女の霊は、静かに涙を浮かべながら言葉を続けた。
「“霊媒師”と呼ばれる人は何人か来たけど、みんな祓うことばかりで……こんなお茶まで用意してくれるなんて……」
御影はふと口元を緩め、冗談のように言った。
「その辺にいる似非霊媒師と一緒にすんな。こっちは帝お抱えだ」
女の霊は目を丸くし、ほんの少し笑みを浮かべる。
「あなた、すごい方だったのね。ちゃんとご挨拶するべきだったよかしら?」
「別に……死んだら爵位も肩書きも関係ないだろ」
「それもそうね」
ふたりの間に、ふっと柔らかな空気が流れた。その言葉に、女の霊もくすっと笑う。女は少しだけ姿勢を正し、慎ましく微笑みながら名乗った。
「……私は、笹舟伯爵の妻、綾女と申します。夫の暁はかつてこの笹舟領の領主を務めておりました」
「高円宮 御影。公爵家の次男にして、帝直属の霊媒師を拝命しております」
御影も一拍置いて、柔らかく微笑む。
「綾女殿――ようやく、お会いできましたね」
「ありがとう……温かい、甘い……なんて、すっかり忘れていたわ」
御影はしばらく黙ってその様子を見守ると、小さくつぶやいた。
「百年も経つとな」
綾女は不思議そうに首をかしげる。
「そんなに……? 私、それらしきこと言ったかしら」
御影は少し間を置いてから、問いかけた。
「薄紫色の着物を着た中年くらいの女性、知ってるだろ?」
綾女は目を見開いた。
「まさか……志乃が? あの人は私の乳母よ!」
御影は静かに頷いた。
「やっぱりな。彼女が見せてくれた記憶と、あとは推測だ」
綾女はうっすらと涙を浮かべ、震える声で言った。
「志乃は? まださまよってるの? ああ、なんてこと……私のせいだわ」
その言葉に、御影は穏やかな声で応じた。
「落ち着け。君の感情の起伏が木に影響するって言っただろ? 君の乳母は俺が送った。無理やりじゃない。彼女が望んだからだ。そして彼女に託された。だから俺はここにいる」
その言葉に、のただ黙って頷いた。
「なんてお礼をしたら……」
すすり泣きながら、綾女は静かにつぶやいた。
桃原は、御影と“誰か”とのやり取りをじっと見つめていた。
霊は見えない。声も聞こえない。けれどその空気、その場に流れる真剣さが、静かに胸を締めつけた。
――本当にいるのかもしれない。
見えないだけで、そこに“誰か”が確かにいるのかもしれない。
御影が見ている世界を、いつか自分にも少しだけ、理解できる日が来るのだろうか―…