3.
家令に案内され、御影たちは領主館の蔵書室へと足を踏み入れた。重厚な扉の奥には、古い書物がびっしりと並んでおり、かすかに埃と革のにおいが漂っている。
「……当然のようについてくるよな、お前」
御影は肩を落とし、うんざりしたした顔で振り返った。
「記録係ですので当然です!」
桃原は誇らしげに胸を張った。御影は小さく溜息をつき、観念したように背を向けた。久世は黙々と書物を繰りながら呟く。
「……やはり、領主の言った通りのことしか記されていませんね。加えるならば――」
指で一箇所を示しながら、御影と桃原に目を向ける。
「乱世の中で一度完全に焼け野原になり荒れ果てたとある。その後、領主が替わってから、農地の復興、治水工事、交易路の整備が進められて……百年近く、大きな争いもなく、安定した支配が続いているようです」
「なるほど、領主としては有能だったんだな」と御影は軽く目を伏せて呟いた。
「書物に記されたことに間違いはありません。我々文官が神明に誓って書いているんですから」
桃原が得意げに言う。
その言葉に、御影はくつくつと喉を鳴らして笑った。桃原はそんな御影を不思議そうに見上げる。
「何かおかしいですか?」
「歴史書に書かれていることが真実だなんて、能天気にもほどがある」
「な、なんですって?」
桃原は目を丸くする。
「はあ……いいか」
久世が面倒くさそうに言う。
「歴史ってのは、常に勝者が語るものだ。勝者にとって都合の悪いことは隠され、都合のいいことだけが残る。それが現実だ」
「まあその通りだな」
御影が書物から目を離さずに続ける。
「混乱の世を治めるには、都合の悪い真実は“処分”せざるを得ないこともある」
「処分……?」
桃原は少し顔を青ざめながら首を傾げた。
「この地は焼け野原だったんだ。当然、畑も潰れ、食べるものもない。そんな中で新たに領主になった男が簒奪者だったとして……民が素直に従うと思うか?」
「う……」
「当時は下克上が横行していた。各地で血の雨が降っていたような時代だ。そんな中でこれから民を守っていくであろう“新しい領主”を国が否定したら、秩序が保てない。だから、記録は処分される。真実よりも安定を取る。――そういうことさ」
桃原は口を開いたまま、言葉を失っている。
「しかも、あの男は“乳兄弟”で“いとこ”だ。血筋としても正当性は持てる。……証拠もない。“殺った”と決めつけるには弱い。それに国にとっては――そのまま治めてくれるなら、それでよかったのさ」
「だ、だからって……そんな、殺された領主様のお気持ちはどうするんですか」
桃原が絞り出すように言った。
その一言に御影の視線が一瞬、鋭く光った。それから御影は指をパチンと鳴らして、桃原を指差した。
「それだよ。それが――奥方が浮かばれない理由だ」
ひとたび結ばれた想いを、歴史の闇の中に独りきりで取り残されたまま、誰にも見つけてもらえなかった。
「簒奪されたのに、真実を知る者はほとんどいない。語り継ぐ者もいない。苦しみを理解してくれる者もいない。……無念だったろうよ。木を真っ黒に染め上げるほどの怨念なわけだな」
しんと静まり返る蔵書室。
やがて、桃原がおずおずと訊ねた。
「本当に、奥方が……いらっしゃるんですか?」
「ああ。あの木の元にな」
「ええぇ……」
桃原はうさんくさそうな視線を御影に向ける。その瞬間、久世が口元に笑みを浮かべながら言った。
「その頭、叩き割りましょうか」
「い、います!奥方はいらっしゃいます!はい!当然です!」
桃原はぴしっと直立し、勢いよく答えた。御影は肩をすくめる。
「別に信じなくてもいい。見えないものを信じろってのは、酷な話だ」
その言葉に、桃原はふと御影の横顔を見る。作り物めいた美しい横顔は、どこか寂しそうに見えた。
――別に、霊魂の存在を信じたわけじゃない。
でも、あんなふうに真剣に語られたら……否定するのも、なんだか違う気がした。
「……信じないけど、否定はしません」
ぼそっと呟いた桃原の声に、御影の口元に柔らかな笑みが浮かんだ。