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帝国直属霊媒師の心霊事件簿ー夜に泣く木のひみつー  作者: 水瀬カフカ
第3章 闇を抱く木、揺れる想い
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7.

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 湯気の向こうから聞こえる細かな水音に、久世は思わず顔を背けた。

「湯加減は?」

 御影の声が、静かに浴室を満たす。

「お前が整えたんだろう? 文句があると思うか?」

 久世は慌てて、「いえ……」と答え、顔を赤らめた。

 御影は無言で浴槽の縁に手をかけ、ゆっくりと湯に身体を沈める。白い肌が湯の中に溶けていき、湯気の中でぼんやりと浮かび上がった。

 ほんのさっきまで、その肌に触れていたはずなのに――湯けむりの向こうで、静かに瞼を閉じる御影の姿は、まるで手の届かない場所にいるように思えた。

 


 この人を、閉じ込めてしまいたいと思うときがある。

 誰にも見せたくない。誰にも触れさせたくない。

 柔らかな布に包んで、自分以外の者の目に触れぬよう、そっと仕舞い込んでしまえたのなら……ただ自分だけが甘やかし、慈しみ続けていられたなら、それはどんなに幸福なことだろうか。

 

 

 けれど、それは叶わない。

 御影という存在は、誰かの手の中に大人しく収まるような人ではない。

 どれほど堅牢な檻を用意したところで、扉などたやすく破壊し、外へ羽ばたいてしまうだろう。

 知恵も、力も、そして何よりも強く揺るがぬ意志が――彼にはある。


 それに、そうして自由に在る彼こそが、本来の姿だった。

 傷ついた魂がある限り、手を差し伸べる。

 例え、どんなに自分の身がぼろぼろになり、命を削れられようとも。

 なんて無謀で、傲慢で、愚かなのだろう。けれど、それ以上に……神のように、美しい。


 傷ついて壊れてしまうくらいなら、いっそ閉じこめてしまいたい。

 その反面、人を救う気高き御影を、いつまでも見ていたいと願う自分がいる。

 

 

 でも、それでいい。

 御影がそう望むのならば、自分が御影を守ればいいだけの話だ。

 彼がどこへ行こうと、どれほど危うい場所へ身を投じようと。

 その背中を追い、盾となり、命を懸けて支える。

 そのために、自分は学術も武術も、霊能の修行も礼儀作法すらも、ありとあらゆること身につけてきた。

 御影のためならば、この手を汚すことさえ厭わない。


 御影が、御影であり続けるために。

 誰にも壊させないはしない。

 かつて自分が救われたように――今度は自分が彼を守る。

 自分が生きる意味は、御影であるのだから。




 

 湯気の向こう、湯に半身を沈めるその姿を見つめながら、久世は喉の奥で熱を呑み込んだ。胸の奥で暴れまわる衝動、焦がれるような独占欲――すべてを噛み殺すように、深く沈める。

 そして、いつものように。静かに、従順に――ただ、それだけを選んだ。

「……御影さま。任務のことですが」

 声をかけると、御影は湯に身を預けたまま、ちらと視線を向けた。

「帰りませんか? 奥方の霊はともかく、あの禍々しいモノは危険すぎます。帝も、命に関わるとなれば中断して戻れと言うはずです」

「まあな」

 御影は淡々と応じる。

「だが――あの木は、もう限界に近い。もし倒れたら、この程度の怪奇現象じゃすまない」

「……!」

「それに」

 濡れた手で前髪を払いながら、御影はにやりと口元を緩めた。

「あの程度のモノに俺が負けるとでも? お前くらい守ってやる。ついでに、モモタローもな」

 冗談めいた口調のはずなのに、そこには確かな覚悟が宿っていた。久世の心臓が、大きく跳ねる。

「……ずるいです」

 わずかに唇を尖らせ、拗ねたように見つめる久世。

「は? 何がだ」

 御影が無造作に振り返る。その視線と正面からぶつかった瞬間、久世の瞳に宿る熱のような光に、御影は居心地の悪さを覚えた。水面がゆらりと揺れ、立ち込める湯気の向こう……久世の視線がまるで、自分の肌をそっと撫でているように感じる。

思わず、御影は視線を逸らした。

「……俺が守りたいのに」

 その呟きは、いつになく低く、微かに震えていた。熱を帯びたその声が、御影の胸の奥をふわりと撫でていく。

「ははっ。弟子(ペット)を守るのは、師匠(飼い主)の義務だろ」

 御影は涼しげにそう返したが、その口元には、僅かな綻びがにじんでいた。久世の瞳に映る自分が、妙に色気を帯びて見えることに、気づいてしまったからだ。――それが、癪だった。

「……ほら、ずるい」

 久世は静かに、湯の中を一歩近づく。御影の肩を伝う水滴が、なだらかな腕の曲線に沿って滑り落ちる。その一瞬の光景に、久世はわずかに息を呑んだ。

 濡れた前髪が頬にかかっていたのを、久世がそっと耳にかけてやる。

 触れた指先が、ほんのわずかに耳朶をかすめた。

「っ……」

 御影の肩が、ぴくりと揺れる。だが、それを悟らせまいと、無表情を装って低く言い放つ。

「お前は、俺のモノだ。俺は……自分のモノを傷つけさせない。そういうものだろ」

 久世の表情がふっとやわらぎ、目の奥に安堵の光が灯る。

「……ええ。私はあなたのモノです。だから……忘れないでくださいね」

 その言葉が、湯気の中で静かに沁みわたる。

 張り詰めた空気が、濃密に、そしてどこか甘やかに二人を包み込んでいく。御影はその空気に耐えかねるように、わざとぶっきらぼうに言い捨てた。

「……もういい、出る」

 そう言って、そそくさと湯船から立ち上がった。


 

  湯上がりの蒸気がまだ肌に残るような空気の中、御影は屏風の陰で一人、浴衣の紐を手にしていた。まだ湿った髪がうなじに張りついている。

「御影様、こちらをどうぞ」

 背後から久世が手際よく着物を差し出す。言われずとも分かっている。だが、手を伸ばそうとした途端、袖ごとやんわりと包まれた。

 ……囲まれた。

 腕の中に閉じ込められるようなその距離に、思わず御影は眉を寄せた。

「ふふ。霊媒師としては勇ましい御影様も、こうして囲ってしまえば──案外、私に敵わないでしょう?」

「……何だ? 背の高さでも自慢したいのか?」

「ええ、霊力では敵いませんが、御影様を押さえつけるくらい、本気を出せば簡単にできますよ?」

 久世の声は穏やかだが、どこか本音をにじませる熱がある。

「……はあ? お前……いいから早く着せろ」

 す、と――まるで自然の流れのように、久世の腕が御影を囲う距離をわずかに詰める。指先が、袖を直すふりをして、御影の肩先をなぞるようにして滑る。背中越しに伝わる熱と、御影の髪先が久世の胸元をかすめた。ほのかに香る湯上がりの匂いが、鼻先をくすぐる。わずかに身を屈めると、耳元に呼吸が掛かるほどの近さ。肌が粟立ち、空気が張りつめる。

 

 逃げられない。抱きしめられる寸前の、静かな緊迫。


「御影様……その……」

 久世の声が、喉の奥から零れた。熱がにじむだけの、未完成な言葉。思いが形になりきる前に──


 トントン。


「すみませーん、桃原ですー!」

 間の悪いノックが部屋に響いた。御影はすかさず久世の手から着物を奪い取ると、慌ただしく袖を通し始めた。

「何だ? 入れ!」

「失礼しまーす。えーっと、領主様が会合のご準備が整ったとのことです……」

 すっと現れた桃原に、御影はくるりと振り返り、満面の笑みを浮かべた。それは――あまりにも整いすぎていて、むしろ不気味な程に完璧な笑みだった。

「お前がいて初めて役に立った。褒めてやる」

 肩に手をポンと置かれ、御影はそのままドアから出ていった。

「え? はい……光栄です?」

 桃原は引き攣った笑みを返しながら、思わず一歩だけ後ずさった。何が起きたのか察しきれずに首を傾げる桃原を、久世は鋭く睨みつけるしかなかった。

「え、えっ? なんで睨むんですか……?」

 無自覚に“危機”を救った桃原は、今日も平和だった。

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