7.
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湯気の向こうから聞こえる細かな水音に、久世は思わず顔を背けた。
「湯加減は?」
御影の声が、静かに浴室を満たす。
「お前が整えたんだろう? 文句があると思うか?」
久世は慌てて、「いえ……」と答え、顔を赤らめた。
御影は無言で浴槽の縁に手をかけ、ゆっくりと湯に身体を沈める。白い肌が湯の中に溶けていき、湯気の中でぼんやりと浮かび上がった。
ほんのさっきまで、その肌に触れていたはずなのに――湯けむりの向こうで、静かに瞼を閉じる御影の姿は、まるで手の届かない場所にいるように思えた。
この人を、閉じ込めてしまいたいと思うときがある。
誰にも見せたくない。誰にも触れさせたくない。
柔らかな布に包んで、自分以外の者の目に触れぬよう、そっと仕舞い込んでしまえたのなら……ただ自分だけが甘やかし、慈しみ続けていられたなら、それはどんなに幸福なことだろうか。
けれど、それは叶わない。
御影という存在は、誰かの手の中に大人しく収まるような人ではない。
どれほど堅牢な檻を用意したところで、扉などたやすく破壊し、外へ羽ばたいてしまうだろう。
知恵も、力も、そして何よりも強く揺るがぬ意志が――彼にはある。
それに、そうして自由に在る彼こそが、本来の姿だった。
傷ついた魂がある限り、手を差し伸べる。
例え、どんなに自分の身がぼろぼろになり、命を削れられようとも。
なんて無謀で、傲慢で、愚かなのだろう。けれど、それ以上に……神のように、美しい。
傷ついて壊れてしまうくらいなら、いっそ閉じこめてしまいたい。
その反面、人を救う気高き御影を、いつまでも見ていたいと願う自分がいる。
でも、それでいい。
御影がそう望むのならば、自分が御影を守ればいいだけの話だ。
彼がどこへ行こうと、どれほど危うい場所へ身を投じようと。
その背中を追い、盾となり、命を懸けて支える。
そのために、自分は学術も武術も、霊能の修行も礼儀作法すらも、ありとあらゆること身につけてきた。
御影のためならば、この手を汚すことさえ厭わない。
御影が、御影であり続けるために。
誰にも壊させないはしない。
かつて自分が救われたように――今度は自分が彼を守る。
自分が生きる意味は、御影であるのだから。
湯気の向こう、湯に半身を沈めるその姿を見つめながら、久世は喉の奥で熱を呑み込んだ。胸の奥で暴れまわる衝動、焦がれるような独占欲――すべてを噛み殺すように、深く沈める。
そして、いつものように。静かに、従順に――ただ、それだけを選んだ。
「……御影さま。任務のことですが」
声をかけると、御影は湯に身を預けたまま、ちらと視線を向けた。
「帰りませんか? 奥方の霊はともかく、あの禍々しいモノは危険すぎます。帝も、命に関わるとなれば中断して戻れと言うはずです」
「まあな」
御影は淡々と応じる。
「だが――あの木は、もう限界に近い。もし倒れたら、この程度の怪奇現象じゃすまない」
「……!」
「それに」
濡れた手で前髪を払いながら、御影はにやりと口元を緩めた。
「あの程度のモノに俺が負けるとでも? お前くらい守ってやる。ついでに、モモタローもな」
冗談めいた口調のはずなのに、そこには確かな覚悟が宿っていた。久世の心臓が、大きく跳ねる。
「……ずるいです」
わずかに唇を尖らせ、拗ねたように見つめる久世。
「は? 何がだ」
御影が無造作に振り返る。その視線と正面からぶつかった瞬間、久世の瞳に宿る熱のような光に、御影は居心地の悪さを覚えた。水面がゆらりと揺れ、立ち込める湯気の向こう……久世の視線がまるで、自分の肌をそっと撫でているように感じる。
思わず、御影は視線を逸らした。
「……俺が守りたいのに」
その呟きは、いつになく低く、微かに震えていた。熱を帯びたその声が、御影の胸の奥をふわりと撫でていく。
「ははっ。弟子を守るのは、師匠の義務だろ」
御影は涼しげにそう返したが、その口元には、僅かな綻びがにじんでいた。久世の瞳に映る自分が、妙に色気を帯びて見えることに、気づいてしまったからだ。――それが、癪だった。
「……ほら、ずるい」
久世は静かに、湯の中を一歩近づく。御影の肩を伝う水滴が、なだらかな腕の曲線に沿って滑り落ちる。その一瞬の光景に、久世はわずかに息を呑んだ。
濡れた前髪が頬にかかっていたのを、久世がそっと耳にかけてやる。
触れた指先が、ほんのわずかに耳朶をかすめた。
「っ……」
御影の肩が、ぴくりと揺れる。だが、それを悟らせまいと、無表情を装って低く言い放つ。
「お前は、俺のモノだ。俺は……自分のモノを傷つけさせない。そういうものだろ」
久世の表情がふっとやわらぎ、目の奥に安堵の光が灯る。
「……ええ。私はあなたのモノです。だから……忘れないでくださいね」
その言葉が、湯気の中で静かに沁みわたる。
張り詰めた空気が、濃密に、そしてどこか甘やかに二人を包み込んでいく。御影はその空気に耐えかねるように、わざとぶっきらぼうに言い捨てた。
「……もういい、出る」
そう言って、そそくさと湯船から立ち上がった。
湯上がりの蒸気がまだ肌に残るような空気の中、御影は屏風の陰で一人、浴衣の紐を手にしていた。まだ湿った髪がうなじに張りついている。
「御影様、こちらをどうぞ」
背後から久世が手際よく着物を差し出す。言われずとも分かっている。だが、手を伸ばそうとした途端、袖ごとやんわりと包まれた。
……囲まれた。
腕の中に閉じ込められるようなその距離に、思わず御影は眉を寄せた。
「ふふ。霊媒師としては勇ましい御影様も、こうして囲ってしまえば──案外、私に敵わないでしょう?」
「……何だ? 背の高さでも自慢したいのか?」
「ええ、霊力では敵いませんが、御影様を押さえつけるくらい、本気を出せば簡単にできますよ?」
久世の声は穏やかだが、どこか本音をにじませる熱がある。
「……はあ? お前……いいから早く着せろ」
す、と――まるで自然の流れのように、久世の腕が御影を囲う距離をわずかに詰める。指先が、袖を直すふりをして、御影の肩先をなぞるようにして滑る。背中越しに伝わる熱と、御影の髪先が久世の胸元をかすめた。ほのかに香る湯上がりの匂いが、鼻先をくすぐる。わずかに身を屈めると、耳元に呼吸が掛かるほどの近さ。肌が粟立ち、空気が張りつめる。
逃げられない。抱きしめられる寸前の、静かな緊迫。
「御影様……その……」
久世の声が、喉の奥から零れた。熱がにじむだけの、未完成な言葉。思いが形になりきる前に──
トントン。
「すみませーん、桃原ですー!」
間の悪いノックが部屋に響いた。御影はすかさず久世の手から着物を奪い取ると、慌ただしく袖を通し始めた。
「何だ? 入れ!」
「失礼しまーす。えーっと、領主様が会合のご準備が整ったとのことです……」
すっと現れた桃原に、御影はくるりと振り返り、満面の笑みを浮かべた。それは――あまりにも整いすぎていて、むしろ不気味な程に完璧な笑みだった。
「お前がいて初めて役に立った。褒めてやる」
肩に手をポンと置かれ、御影はそのままドアから出ていった。
「え? はい……光栄です?」
桃原は引き攣った笑みを返しながら、思わず一歩だけ後ずさった。何が起きたのか察しきれずに首を傾げる桃原を、久世は鋭く睨みつけるしかなかった。
「え、えっ? なんで睨むんですか……?」
無自覚に“危機”を救った桃原は、今日も平和だった。