4.
沈黙が続いていたそのとき、不意に女の幽霊が顔を上げた。
「……また……来た」
掠れた声には、はっきりと緊張をにじんでいた。
次の瞬間、ざわりと木々の葉がゆすりはじめた。風もないのに、木の枝が揺れる。そして——。
「カァァ……ッ、カァァ……ッ!」
真夜中の空に、鴉の不気味な鳴き声が響き始めた。しかも一羽ではない。複数の鴉が、黒い木の周囲を旋回しているようだった。
久世がすぐに反応し、御影を自分の背に隠すように前に出た。視線を巡らせ、気配を探る。
「……これは……。御影様、何か来ます」
だが久世の言葉を遮るように、女が叫ぶ。
「行って!早く逃げて!」
久世は女の言葉に押されながらも、警戒した目で問いかける。
「何が来るんです? 危険とは、いったい何が——」
「説明してる暇なんてないわ! 早く逃げなさい、今すぐ!!」
女の必死な声が、風のように御影の耳を打つ。御影は煙管を口元から外し、久世の腕を引来ながら言った。
「……仕方ない。撤退する」
踵を返し、来た道を駆けだそうとする。だがその前に、もう一度だけ振り返って女に言った。
「明日の夜、また来る。——久世、行くぞ」
「はっ!」
久世は御影を守るように後ろを警戒しながら、二人は闇の中へと駆け出した。背後から、どんどん悍ましい気配が強くなるのを感じ、皮膚が粟立つ。よりいっそう激しく鴉たちが騒ぎ立て、まるで警告するかのように夜の丘にその声が響く。
残された女は、夜風に長い髪を揺らしながら、御影たちの背を見送っていた。その背が見えなくなると女はゆっくり目を閉じる。近づいてくるそれが自分を追っていることを知っているからだ。
——黒く、重く、まるで深い井戸の底のような気配が、そこからじわじわと滲み出していた。
女は覚悟を決め、身じろぎもせずにそれがくる方角を見据える。その目には決意の光が帯びていた。
「……私はここよ」
* * *
森を抜ける小道を、御影と久世は足早に駆けていた。夜風が冷たく肌を撫でる中、御影の呼吸が次第に荒くなっていく。
「はあ……っ、はあ……っ」
久世は歩調を合わせながら、ちらと横目で彼の様子を伺いながら、背後の警戒も怠らない。
「一体、何が来るっていうんでしょう……生きている者でないのは確実ですが、あの気配……ただの亡霊とは思えません」
「……はあ、はぁ……さあな……ただ、良くないものなのは確かだ……」
御影は息を切らしながら、滅多に走ることのない身体はひどく熱かったが、それでも頭の中は冷えわたっていた。久世が走りながらも、いつもと同じように淡々と会話を続けているのを見て、若干イラついたのは秘密だ。
「先ほどの若い女性は、乳母の霊が見せてくれた『奥方様』と呼ばれていた人物と同じと見て間違いありませんね」
「……ああ、はぁ……間違いない……」
御影が頷いたのを見ると、久瀬は再び問いかける。
「御影様、あの木……いったい何なんです?」
問い終わるや否や、御影が足を止め、しゃがみ込んだ。肩が大きく上下し、浅く速い呼吸が漏れる。
「はぁ、っ……はぁ……っ、」
「御影様!」
慌てて駆け寄った久世が、その背中を心配そうにさすった。
「大丈夫ですか……?」
御影は久世の手を邪魔そうに振り払うと、肩で息をしながら、ようやく口を開く。
「……怪異? 木が祟っている? ふざけんな……逆だよ……」
片手で額の汗をぬぐい、煙管を懐にしまい込むと、彼は振り絞るように言った。
「——あの木はな……守り神、御神木だよ」