1.
夜気が冷たく湿り気を帯びて肌を撫でる。深夜の丘は、ただ暗いのではなく、闇が息を潜めているかのように静まり返っている。虫の声も、鳥のさえずりも途絶え、風に乗って揺れる木々のざわめきだけが耳をかすかにくすぐる。
道の途中、木々の合間に、崩れかけた石の階段が覗いた。かつてこの地に建っていた領主館の名残だと、村の者が言っていた。
御影は黙って歩く。細い指先には銀煙管。火皿に揺れる紅の火が、時折ふっと揺れては、彼の顔を淡く照らした。
隣を歩く久世がそっと口を開く。
「……足元、お気をつけください。ぬかるみがございます」
「分かってる」
御影は素っ気なく返しながらも、煙管を口に含んだ。くゆる紫煙が夜気に溶けて、ゆるやかに流れていく。久世は気にした様子もなく、提灯の角度を少し変えて、御影の進行方向をより明るく照らした。
提灯の明かりは、小さくゆらゆらと揺れる。周囲を照らすには心もとない明かりだが、その不確かさが、かえってこの夜には妙に似つかわしかった。不意に久世の足が止まった。
「……誰か、います」
やがて、その暗がりの中から、ぼんやりとした輪郭を持つ影が現れ始めた。一人、二人、三人──数える間にもその数は増え、五、六人の男たちが道をふさぐように並び立つ。
彼らは古びた鎧のような装束をまとい、泥と土埃が全身にこびりついていた。衣服はところどころ破れ、顔はどれも血の気を失い、死人特有の青白さを帯びている。なかには首が半ば落ちかけた者、片腕や足を欠いた者もいたが、誰一人よろめくこともなく、ただ静かに、御影たちを見据えていた。
中でも、ひときわ体格のいい一体の亡霊が、他より半歩前に出て立っていた。肩口や腹部、腿など、全身の数か所に黒ずんだ矢が深々と突き刺さったまま、それでも痛みの気配ひとつ見せず、動かない。その無言の立ち姿からは、ここを通す意思がないことがありありと伝わってくる。
「……戦で死んだ者たちか」
御影が小さく呟きながら前へ出ようとした瞬間、久世がすっとその前に立った。片腕を広げるようにして、静かに御影を庇う。
その動きに呼応するように、亡霊たちの間に緊張が走った。先頭の大柄な兵士が、音もなく刀を抜き、構える。その背後にいる者たちも、手を柄にかけ、わずかに姿勢を低くした。刃を交える気はないが、ここから先は通さぬ──そう語っているかのようだった。
それでも、久世の声はあくまで穏やかだった。
「……安心してください。私たちは、あなた方の守ろうとしているものを傷つけるつもりはありません。ただ、知りたいだけなのです」
兵士たちは動かない。空気が張り詰め、しんとした沈黙が落ちる。久世は真っ直ぐに、先頭の亡霊の瞳を見据えたまま、言葉を重ねた。
「どうか……道を開けていただけませんか」
互いに見つめ合ったまま、長い沈黙が続く。やがて、まるで何かを見定めるように黙考していた先頭の亡霊が、わずかに身体をずらした。刀を構えたまま、油断のない目を久世に向けたままで。それに伴い、後ろにいた兵たちも次々に道を開けていく。
久世は小さく一礼をした。
「ありがとうございます。約束は、必ず守ります。……一つ、尋ねたいのですが、薄桃色の着物を着た女の霊を見ませんでしたか?」
大柄な兵士は久世から視線を逸らすことなく、無言のままゆっくりと右腕を持ち上げた。その指先が示したのは、闇の向こう、黒い木が静かに佇む丘の方角だった。
久世が再び一礼し、足を進める。御影もその背を追うように歩を踏み出した。ふと後ろを振り返ると、兵士たちは再び道を塞ぐように整然と立ち戻っていた。まるで今もなお、その奥にある“何か”を守り続けているかのように、静かに、そして誇り高く──。
「やはり、あの木に何かあるんだな」
御影はぽつりと呟く。久世はそれに頷き、御影に続くように歩を進めた。提灯の灯がかすかに揺れる闇の中、先ほどの兵士たちと同じような姿の亡霊たちが、道沿いにぽつぽつと立っているのが見えてくる。
いずれも、血の気のない顔に朽ちた鎧をまとい、泥と古い土埃を纏ったままそこに佇んでいた。こちらを警戒して鋭く見据える者もいれば、遠くを眺めるように虚ろな目をしている者、半ば木陰に身を隠すように立つ者もいた。だが、彼らからは先ほどのような敵意や殺気は感じられない。そのまま通り過ぎても、とくに何も起こらなかった。
「村民が、この地を戦場だったと言っていましたが……村外れの丘までもが戦地だったとは」
久世の言葉に御影は返事をせず、ただ前方に視線を向けたまま、黙って歩き続けた。
* * *
木は、昼間見たときよりも、はるかに禍々しい姿をしていた。
幹はまるで煤を塗したように黒く、葉の一枚一枚が夜の風にざわめき、うねるように揺れている。その根元、うろの奥には、見てはいけない闇が揺らいでいた。
まるで、空間そのものが、そこだけゆっくりと歪んでいる。
「冥界と繋がっている……先程の亡者たちもここから来たみたいだな」
御影の言葉に、久世がうなずく。彼もまた、何かを感じ取ったのだろう。鋭い視線を木にやり、警戒するように提灯を掲げ直した。
風の音に混じって、女のようなすすり泣く声が聞こえた。
御影と久瀬は思わず互いの顔を合わせ、そしてもう一度耳をすます。
木がないてる?
いや違う。これは人の声だ。
二人は注意深く辺りの気配を探る。木の根元、うろの傍らに、小さくしゃがみこむ影。
そこには一人の女が座っていた。
薄桃色の着物に、夜気に透けるような肌。美しかったであろう髪の毛は乱れ、顔を伏せ肩を震わせて泣く姿は、どこか儚げだった。御影は、煙管をくゆらせながら目を細めた。
乳母の記憶に出てきた若い女に違いない。