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帝国直属霊媒師の心霊事件簿ー夜に泣く木のひみつー  作者: 水瀬カフカ
第2章 祈りの涙、届かぬ想い
12/42

7.

 夜気は冷たく、虫の声もない。ただ、遠くの木々が風に鳴る音だけが耳に届く。

 やがて役場の玄関前に立ち、御影は包みの中から香炉を取り出した。火を灯すと、白い煙が静かに立ち上る。どこか甘く、懐かしさを帯びた香り。続けて、御影は煙管を懐から取り出し、口に含む。紫煙がゆらりと夜気に溶けた。

「……来た」

 御影の呟きとほぼ同時に、煙の中から、ぼんやりとした人影が現れた。

 淡い紫の和装の女――どこか上品な、乳母らしい佇まい。目元に涙の跡が残っている。昼間に現れた女に間違いなかった。

「あの記憶はあなたが見せたものか」

 女は控えめに頷いた。

「……そうか。俺はてっきり、最期まで奥方の側に入れなかった後悔の念かと思ったが……」

 御影は女の目を見つめる。女の瞳には、深い悲しみの奥底に激しい憎悪が燃えている。

「……違うな。お前が見せたかったのは、あの男の執着か」

 女は、はっとしたように目を見開く。その顔には、言葉にしきれぬ思いが浮かんでいた。

「とすると、その男は近くにいるのか?」

 御影は目を閉じ、周囲に意識を巡らせる。だが、女以外に亡者の気配は感じとれない。女の不安気な視線に気づいた御影は、ほんの少し口角を上げてみせた。

「……心配しなくていい。俺は帝お抱えの霊媒師だ。ちょっとやそっとのことではやられない。だから……」

 そう言って、御影は一歩前に出た。霊の目前まで近づき、そっと目線を合わせる。

「あとのことは俺に任せていい。あなたが望むなら、上へ送ろう。どうする?」

 御影は静かに女に問いかけた。

 女は迷っているようだった。お香の香りが辺りを満たし、沈黙が落ちる。やがて、女は決意したように、小さく頷いた。御影は「……分かった」とわずかに微笑み、煙管から白煙をふっと吹きかける。

「この煙が、お前を導いてくれる」

 女は泣きながら、何度も深く頭を下げる。嗚咽まじりの声は届かないが、その想いの深さは肌で感じ取れた。御影は煙管をくゆらせたまま、もう一方の手で印を結ぶ。立てた二本の指が夜気の中に浮かび上がり、やがて低く経を唱え始めた。

「――願わくはこの功徳をもって、あまねく一切に及ぼし……」

 その声に、乳母の霊が微かに震え、唇を噛んで顔を伏せる。やがて、こらえきれなくなったように、静かに涙を流しながら、両手を胸の前に合わせた。


 甘い煙と、静かな祈りが夜に溶けていく。



 

 その光景を、久世は目を見張るように見つめていた。

(……美しい)

 凛とした声。儚く揺れる濃紺の髪。祈りに込める慈しみ――。

 久世は、目の前の御影にただ見入っていた。霊に向けられるその慈愛の心に、まるで自分の存在が許されるような気がした。御影の姿を見ていると、胸が締め付けられるように苦しい。

 いつも高慢で人を寄せつけない態度の御影だが、その心根は驚くほど純粋で、ひどく優しかった。本人にその自覚はなさそうだが、それもまた久世にはたまらなく愛おしく思えた。


 御影の優しさも気高さも、すべてが久世の心を震わせ、抗いがたい感情を呼び起こす。彼がどれほど他者を大切にしているか、どれほど多くのものを背負っているか、それを理解しているはずなのに――それでも、心の奥底から湧き上がるのは、ただひたすらに彼を求める想いだった。

 分をわきまえぬ、烏滸がましい想いだと頭ではわかっている。それでも、どうしても心は従わない。叶わぬ想いだと知っていても、切なさが胸を引き裂くように広がっていく。


 その心の一片でも、自分に向けてくれるなら……それだけでいい――そう思っていたはずなのに……傲慢な願いが心の奥で渦を巻き、静かに手が震えるのを感じながら、久世はただ御影の姿を見つめ続けた。

 祈りの音が夜気に溶け、二人の間を静かに満たしていく。久世の胸の奥では、抑えきれない感情が静かに、しかし確かに沸き立っていた。それは、尊敬と愛情と、どうしようもない欲望がないまぜになった、複雑で苦しい感情だった。高円宮御影を自分一人の世界に閉じ込めたい。そんな身勝手な衝動に気づき、馬鹿げている、と久瀬は自嘲する。


 

 それでも、どうしても、その気持ちは消えてくれなかった。





 

 やがて、御影が煙管をそっと伏せた。

「――あなたの想いは、確かに受け取った。安心して上へ昇るといい」

 その言葉に、女の亡霊は何度も深く頭を下げ、涙に濡れたまま霧のように淡くなっていく。煙に導かれるように、その姿が消えかけた、その時。

 霊はふと顔を上げ、静かに一方を指さした。

 

 その先には、例の――黒い木が立つ丘があった。


 御影は目を細める。

「……やはり、あそこに何かあるんだな」

 久世も頷いた。

「もしかすると、奥方様の霊がいるかもしれません」

「だな。行くか」

 そう呟いた瞬間、村の時計塔が小さく三つ、澄んだ音を鳴らした。


 

 丑三つ時――冥界への扉が、静かに開かれようとしていた。



 

 

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