5.
御影は静かに足を踏み出した。
桃原の「ちょっと……どちらへ行かれるんですか!?」という声が背後から聞こえたが、御影は応えなかった。そのまま村人たちの間を抜け、まるで誰かがそこにいるかのように、廊下の奥へと進んだ。
彼の視線の先には、まだ深く頭を下げ続ける“女”――
御影は女の前で立ち止まり、なおも伏せたままの彼女の顔を静かに覗き込んだ。
「お前が、私を呼んだのか?」
ふ、と空気の色が変わった。
視界が暗転し、次の瞬間――まるで洪水のように、全く異なる光景が御影の脳裏に流れ込んできた。
――燃える館。
――割れる窓、きしむ柱、押し寄せる兵の怒号。
その奥の一室で、薄桃色の着物を着た一人の若い女が泣いていた。
彼女の手を引こうとしているのは、今まさに目の前にいる霊の女と瓜二つ、50代ほどの淡い紫色の着物を着た乳母らしき女だった。息を荒げながら、必死に声を上げている。
「いけません……!! ここも、すぐに包囲されます!」
「嫌よ……! あなたを置いて行くなんて……!」
泣き縋る若い女に、彼女は毅然とした声で言い放った。
「領主様のためにも……あなたは、生き延びなければなりません。あなたに何かあっては、私は領主様に顔向けできませんから」
それでもなお、若い女性は彼女の腕にすがり、ただただ泣き続ける。その様子に女はクスッと笑い、若い女性の乱れた髪の毛を整え、次から次へと溢れ出る涙を指ですくった。
「泣き虫は卒業したはずですよ。あなたは、立派な領主様の奥方なのですから。きちんと立ちなさい! さあ、行って!」
声を震わせながらも、女は隠し扉を開け放ち、領主の奥方を押し込むように中へと逃がした。
その背に、名残惜しげな視線を残して。
――そして。
開け放たれた扉の向こうから、ひとりの男が姿を現す。血に濡れた軍服。歪んだ笑みを浮かべている。
「……奥方はどこにやった」
「さあ? ふふ……愛しの姫に逃げられて、お可哀想に」
「……そうか。すぐに追いつく。お前にもう用はない。死ね」
言葉と同時に、剣閃が走った。
女の腹を、鋭い刃が貫く。
何の容赦もない一太刀。
薄紫の着物が、瞬く間に紅に染まる。その紅の輪郭が女の命の終わりを告げていた。
床に崩れ落ちた彼女の唇が、最後に動いたのは――
『……どうか……』
その最後の祈りと共に、光景が音もなく崩れ落ちる。見えていたはずの炎も、血の匂いも、慟哭も――全てが霧の奥へと引き込まれていった。代わりに押し寄せてきたのは、強烈な頭痛と眩暈。頭の奥がぎしりと軋み、喉の奥から吐息が漏れる。
「……くっ……」
足元から感覚が抜け落ち、膝が崩れる。
「御影様!」
駆け寄った久世が、その華奢な身体を強く抱きとめた。
「……ご無理なさらず……もう、大丈夫です」
額に浮いた汗を指で払いながら、久世は優しく呼びかけた。御影は唇をかすかに動かすも、もはや言葉にはならない。まぶたが重たくなり、視界がじょじょに滲んでいく。意識の底に、まだ誰かの呼ぶ声がかすかに響いていた。だが、それすらも遠ざかり――
……ぽたり、と。
墨を垂らしたような闇が、静かに視界を染めていく。
そのまま、御影の意識はゆっくりと沈んでいった。
(――姫様……生き延びて)
誰かの祈りだけが、最後に残った。