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2030年の超AIの爆発的な進化、AIカンブリア紀 ~落ちこぼれジャーナリストとツンデレ天才エンジニアが、電脳世界の謎とトンデモ陰謀に巻き込まれちゃった件!?~

思考の中で、カシャリ、と小気味よい情報記録の感覚があった。


「んふふー、今日のランチも最高!『電脳小町サイバーこまち』の新作、A定食『幻惑サーモンのムニエル~霊子リョウシバター風味~』!これ、私のSIDエスアイディーフィードに自動アップしとこっと。

絶対バズるやつ!」

常楽院雛子じょうらくいん ひなこは、たった今味わっているランチの鮮明な味覚情報と視覚イメージが、自身の生体侵襲型SIDを通じて、ネットニュース「トゥルース・ディスカバリー・チャンネル(略してTDC)」の個人フィードへダイレクトにストリーミングされていくのを感じていた。

意識するだけで、思考や感覚は瞬時にデータ化され、SIDCOMネットワークへと解き放たれる。

コメント欄には、即座にフォロワーたちの思考がリアルタイムで流れ込んできた。

「うわ、そのバターソースの香り、ニューロンに直接響く!」「雛子っち、また飯テロかよw 味覚共有とか、こっちは旧型SIDだから羨ましすぎる!」といった、嫉妬と称賛が入り混じった賑やかな反応だ。


時刻は昼下がり。

2058年の東京は、今日も快晴。

都市管理AIによって完璧に調整された空の下、自律走行ドローンがビルの谷間を縫い、街角のホログラム広告はSIDユーザーの無意識の嗜好データに基づいてパーソナライズされた情報を煌めかせている。

思考だけでコミュニケーションが完結し、言語の壁すら過去のものとなりつつあるこの時代、人々の生活はSIDと、それが接続する広大なSIDCOMネットワークなしには成り立たなかった。


雛子はTDCのしがない――いや、看板ジャーナリスト(自称)だ。

TDC自体がまだ弱小メディアのため、思考を直接文章化できるSIDのおかげで記事執筆は爆速になったとはいえ、ネタ探しからアポ取り、時には危険な潜入取材まで、結局は足で稼ぐスタイルは変わらない。

報酬? SIDで思考共有できても、懐事情までは共有されたくないものだ。


「さて、と。

午後の取材は……っと、これね。

『アンプラグド居住区再開発計画の住民説明会』かー。

また役所の人がSID越しに建前ばっかり流してきて、こっちの質問はスルー、みたいなパターンかしら」

データパッドに表示されたスケジュールを確認しながら、雛子はため息をついた。


この超AI社会には、「アンプラグド」と呼ばれる人々がいる。

彼らは、何らかの理由でSIDの施術を受けていない、あるいは意図的にSIDCOMネットワークから距離を置く人々だ。

思考を共有し、情報が瞬時に行き渡るSID社会の恩恵を受けられない彼らは、しばしば「社会的幽霊」と揶揄され、情報格差や社会サービスからの疎外といった深刻な問題に直面していた。


「でも、だからこそ見過ごせないのよね。

光が強ければ影も濃くなる。

それがこのSID社会の、もう一つの“真実”なんだから」

雛子は、ジャーナリストとしての使命感を胸に、愛用の多機能ジャケットの襟を正した。

生体侵襲型のSIDは、思考とネットワークの境界をほぼ消し去った。

しかし、どんなにテクノロジーが進んでも、人の心の奥底にある本音や葛藤を拾い上げるのは、いつだって難しい。


そんな彼女の意識に、ピコン、と短い通知パルスが直接届いた。

発信者は、彼女の数少ない(まともな)協力者であり、天才的な腕を持つフリーランスのエンジニア、相田響あいだ ひびきからだった。


『雛子、例の件、少し進展があった。

例の“お騒がせインフルエンサー”の入国情報、ICA(国際調整局)の暗号化データベースから直接引き抜いた。

ただし、閲覧と思考リンクは自己責任で。

例によって、ヤバそうな情報のオーラしか感じない』

意識の中で展開されたメッセージには、強固なプロテクトが施されたデータファイルが添付されていた。

雛子の大きなヘーゼル色の瞳が、好奇心にキラリと光る。


「ヤバそうな情報のオーラ……それってつまり、最高のスクープの予感ってことじゃないのっ!」

ランチの味覚データストリーミングもそこそこに、雛子は意気揚々とデータファイルへのアクセスを試みた。

数瞬の思考認証プロセスを経て、眼前にホログラムとして展開されたのは、一人の女性のプロフィールだった。


名前:エリザベス・ホワイト。

年齢:47歳。

所属:ニュー・エデン・ガーデン。



銀色の髪をきっちりとまとめ、氷のように冷たい灰色の瞳を持つ女性の写真。

その表情からは、SIDを通しても一切の感情の揺らぎが読み取れない。

まるで、高性能なAIが生成したかのような、無機質な美貌。


「ニュー・エデン・ガーデン……? なにそれ、どっかの高級会員制オーガニックレストランの名前?」

雛子が首をかしげていると、響からの思考が追伸のように流れ込んできた。


『追伸:ニュー・エデン・ガーデンは、アメリカに本拠を置く極右派のキリスト教原理主義団体だ。

かなり過激な選民思想と排外主義で知られていて、特に日本文化や日本人に対して、異常なまでの敵意と思考汚染マインドポリューションを仕掛けてきている。

そのリーダーが、このエリザベス・ホワイト。

近々、都内で大規模な講演会を開くらしい』

「きょ、極右……原理主義……思考汚染ですって!?」

雛子は思わず周囲のSID空間に驚きの感情を拡散しそうになり、慌てて思考フィルターを強めた。

公共の場で不用意な感情を発信するのは、SID社会のマナー違反だ。


データパッドに視線を戻すと、エリザベス・ホワイトが過去にSIDCOMネットワーク上で発信したとされる動画コンテンツのリストが表示されていた。

タイトルだけでも強烈な拒否反応を引き起こすものばかりだ。


『日本のアニメは脳神経を侵す電子ドラッグ!』

『“カワイイ”文化は人類の思考レベルを退化させる!』

『日本人女性の精神構造は、本質的にSID非適応であり、霊子的欠陥を抱えている!』

「な、な、なんですってーっ!?」

雛子はカッと目を見開いた。

別に彼女自身が重度の日本文化愛好家というわけでもない。

しかし、ここまで一方的で、科学的根拠も示さず、ただただ悪意に満ちた情報をSIDCOMネットに垂れ流す行為は、断じて許せるものではなかった。

SIDが思考を共有するツールであるならば、そこには最低限の敬意と倫理観が求められるはずだ。


「ちょっと響クン! これ、どういうこと!? こんなデマゴーグが都内で講演会って、冗談じゃないわよ! しかも『霊子的欠陥』とか、意味不明なことまで言ってるし!」

SIDのプライベートチャンネルで、勢い込んで響に思考メッセージを送る。

数秒後、ややノイズ混じりの、それでいていつものように落ち着いた響の思考が返ってきた。

おそらく、彼のラボはまた新しい実験装置の電磁波で満ちているのだろう。


『やれやれ、やっぱりその情報に噛みついたか。

だから自己責任だって言っただろう。

相手は単なる反社会的な愉快犯じゃない。

背後には巨大な組織がいて、その思想に染まった狂信的な支持者も大勢いる。

下手に思考をリンクさせると、君の精神まで汚染されかねないぞ』

「思考汚染とか言ってる場合じゃないでしょ! こんなの、許しておけるわけないじゃない! アタシのジャーナリスト魂が、サイコソニック現象寸前レベルで危険信号を発してるんだけど!」

意識の向こうで、響が深いため息をついている気配がSID越しに伝わってくる。

彼のラボは、今日もきっと山積みのジャンクパーツと、一般人には解読不能な多次元数式のホログラムで埋め尽くされているのだろう。


『落ち着け、雛子。

相手は思想そのものが武器だ。

不用意に近づけば、君のSIDを通じて精神的なバックドアを仕掛けられる可能性だってある。

最悪の場合、非正規品のSIDでも使われたら、脳にどんなダメージが残るか…』

「でもっ! 黙って見過ごしたら、それこそジャーナリスト失格よ! こういう悪意ある情報マリスウェアが、SIDCOMネットワークを通じて拡散されたら、どれだけ多くの人の精神が蝕まれると思ってるの!? 特に、まだSIDへの耐性が低い未成年や、アンプラグドで情報リテラシーが追いついていない人たちが、こんなデマを信じちゃったら……」

雛子の思考には、怒りと共に、切実な危機感が滲んでいた。

彼女は知っている。

このSID社会では、情報は光よりも速く伝播し、人々の意識を容易に塗り替えてしまうことを。

思考の透明化は、確かに嘘や隠し事を減らし、多くの犯罪を防いできた。

しかしその一方で、悪意に満ちたプロパガンダや、巧妙に作り込まれたフェイク情報が、かつてないほどの破壊力を持つことも可能にしてしまったのだ。


アンプラグドの人々が直面する情報アクセスの格差。

そして、プラグドされた人間であっても、SIDを通じて流れ込む膨大な情報と思考の奔流の中で、何が真実で何が虚偽かを見極めることの難しさ。

SIDが脳の深部にまでアクセスできる新型に進化するにつれ、その光と影はますます濃くなっていた。


「……分かってる。

響クンの心配も、もっともだってことは。

でもね、アタシはやっぱり、この目で、この耳で、そしてSIDで直接、彼女の“思考”を確かめたい。

そして、もしそれが本当に許せないことなら、ちゃんとそれを伝えなきゃいけないと思うの」

しばしの沈黙の後、響の思考が返ってきた。

少しだけ、いつものクールさの奥に、雛子を案じる温かさが感じられる。


『……分かったよ。

どうせ何を言っても聞かないんだろう、君は。

ただし、無茶はするな。

君のSIDが異常な負荷を検知したら、強制的にシャットダウンプロトコルを送信する。

バックアップはできる限りするが、君の精神的・身体的安全が最優先だ。

それだけは約束してくれ』

「響クン……うん、ありがとう!」

いつものツンデレな思考パターンの奥に、確かな信頼を感じて、雛子の胸は少し温かくなった。


「よし、決めた! エリザベス・ホワイトの講演会、潜入取材決定! そして、もしその主張が本当に人類の叡智に対する冒涜だったら……TDCの力で、白日の下に晒して、SIDCOMネットから永久追放デリートしてやるんだから!」

雛子は心の中で拳を握りしめ、ジャーナリストとしての闘志を燃え上がらせた。

その顔は、美味しいランチの味覚情報をシェアしていた時とは打って変わって、真剣そのものだ。


こうして、自称・TDC看板ジャーナリスト常楽院雛子は、またしても厄介極まりない事件に、自らプラグインすることになったのである。


彼女はまだ知らない。

この選択が、2058年の東京を震撼させる、SID社会の根幹を揺るがす巨大な陰謀のほんの序章に過ぎないことを。



太陽がわずかにその高度を下げ始めた東京の空の下、雛子は次の取材場所――アンプラグド居住区へと向かうため、意気揚々とカフェを後にした。

その背中には、まだ見ぬ強敵への挑戦状を叩きつけるような、そんなデジタルな気概が満ち溢れていた。


「待ってなさいよ、エリザベス・ホワイト! あなたの言う“神の啓示”とやらが、どれほどのものか、この常楽院雛子のSIDゴーストが見極めてあげる!」


翌朝、雛子がまだ微睡まどろみのSIDCOMドリームスケープ(夢の共有空間)を漂っていると、けたたましいアラート音が鼓膜を直接揺さぶった。

いや、鼓膜ではない。

脳に直接、警告が叩きつけられるような、不快な衝撃。


「んん……なに、朝からサイコソニック現象……? って、うわぁっ!?」

飛び起きてホログラムディスプレイを起動すると、そこには目を覆いたくなるような光景が広がっていた。

SIDCOMネットワークのトレンドフィード、そのトップを、昨日見たばかりのあの女――エリザベス・ホワイトの顔写真が、悪夢のように埋め尽くしていたのだ。


『速報:宗教団体「ニュー・エデン・ガーデン」指導者、エリザベス・ホワイト氏、SIDCOMネット上で緊急声明を発表!「日本は霊的に汚染された土地。

神の裁きが下されるであろう!」過激な内容に非難殺到!』

『エリザベス氏、日本人女性を名指しで「幼稚で堕落した存在。

SID社会のバグである」と断言! 国際問題に発展か!?』

『謎の精神干渉波サイキックウェーブ観測? エリザベス氏の声明と同時刻に、一部地域でSIDユーザーが原因不明の不快感を訴える事例が報告』

「な……なんですってぇえええええええ!?」

雛子の絶叫が、ワンルームマンションの壁を震わせた。

パジャマ姿のままベッドから転がり落ち、慌ててデータパッドを掴む。


エリザベス・ホワイトは、予告されていた都内での講演会を前に、SIDCOMネットワークという最大の拡声器を使って、日本全体に対する事実上の“宣戦布告”を叩きつけてきたのだ。

それも、昨日雛子がチェックした情報よりもさらに過激で、侮辱的な言葉の限りを尽くして。


「ひどすぎる……! これじゃ、ただのヘイトスピーチじゃない! 明らかに、日本中のSIDユーザーを挑発して、精神的なダメージを与えようとしてる!」

彼女のSIDが、ネットワーク上を飛び交う怒りや不安、そしてエリザベスに対する反発の感情をリアルタイムで受信し、脳内が情報過多でショートしそうになる。

これが、きっかけ――物語が大きく動き出す、最初の災い。


「こうしちゃいられない! 絶対にあの講演会に行って、あの女の鼻をへし折ってやらないと気が済まない!」

雛子は勢いよく立ち上がり、クローゼットからお気に入りの取材用ジャケット――少し派手なオレンジ色がトレードマークの、特注品だ――を引っ張り出した。


その時、タイミングを見計らったかのように、相田響から思考メッセージが届いた。

彼の思考はいつも通り冷静だが、どこか普段よりも硬質な響きを帯びている。


『見たか、雛子。

例の女の声明だ。

予想以上の過激さだな。

これは単なる思想表明じゃない、明確な敵対行動だ。

ICAもすでに警戒レベルを引き上げている』

「見たも何も、朝からSIDCOMネットが大騒ぎよ! もう許せない、絶対に許せないわ! 響クン、講演会のチケット、もう手配済みよね!?」

『……ああ、君がそう言うと思って、昨日のうちに最前列を確保しておいた。

ただし、条件がある』

「条件?」

『今回の件は、ただの取材対象として近づくには危険すぎる。

相手は、君のSIDを通じて直接精神に干渉してくる可能性だって否定できない。

僕が開発した最新の防御ソフトウェアを君のSIDにインストールし、僕の指示には絶対に従うこと。

それが飲めないなら、今回は諦めてもらう』

響の思考は、珍しく有無を言わせない強い意志を感じさせた。

彼は本気で雛子の身を案じている。

そして、その懸念は的を射ているのかもしれない。

エリザベス・ホワイトという女は、ただ言葉が過激なだけではない。

彼女の周囲には、何か得体の知れない、SIDの論理では説明できないような“力”が渦巻いているような不気味さがあった。

昨夜の報告にあった「謎の精神干渉波」も、その一端なのだろうか。


「……分かったわ、響クン。

あなたの言う通りにする。

でも、だからって取材を諦めるつもりはないからね! この目で見て、この耳で聞いて、そしてSIDで感じて、あの女の化けの皮を剥いでやるんだから!」

強がりを言いつつも、雛子の胸中には一抹の不安が広がっていた。

まるで分厚い壁に一人で立ち向かうような無力感。

これが、悩みのとき――ヒーローが、これから始まる困難な旅に対して、一瞬だけ抱く迷いや躊躇。


『それでいい。

僕も会場には行く。

万が一の時は、君のSIDを強制的にセーフモードに移行させる。

それと、これを持っていけ』

響から送られてきたのは、小さな金属製のペンダントの設計データだった。

シンプルだが洗練されたデザインで、中央には微細な霊子コンデンサが埋め込まれているように見える。


『お守り、みたいなものだ。

気休めかもしれないが、ある種の精神的なノイズを軽減する効果が期待できる。

僕の趣味の産物だが、ないよりはマシだろう』

「響クン……」

ぶっきらぼうな言葉とは裏腹の、彼の優しさが嬉しくて、雛子は少しだけ胸が熱くなった。

ツンデレ天才エンジニアの、不器用な気遣い。


「ありがとう、響クン! 絶対に無駄にはしないから!」

ペンダントのデータを実体化プリンターに転送し、生成が完了するのを待つ間、雛子は窓の外を見やった。

今日も東京の空は、管理AIによって完璧に制御された青空を広げている。

だが、その見慣れた風景の裏側で、目に見えない脅威が、SIDネットワークを通じてじわじわと人々の心を蝕もうとしている。


エリザベス・ホワイト。

彼女は何者なのか? なぜそこまで日本を憎むのか? そして、彼女の背後にいるという「ニュー・エデン・ガーデン」とは、一体どんな組織なのか?

数時間後、生成されたペンダントを首にかけ、雛子は家を出た。

今日の彼女は、いつものような底抜けの明るさは少し影を潜め、代わりに静かな闘志と、未知なるものへの緊張感を漂わせている。


会場へと向かう自律走行タクシーの中で、雛子はTDCのフォロワーに向けて短いメッセージを発信した。


『皆さん、こんにちは! 常楽院雛子です! 今日はこれから、話題の“あの人”の講演会に突撃取材してきます! TDCは、どんな圧力にも屈せず、真実を追求します! どうか、応援していてください! そして、もし私が何かおかしな情報を発信し始めたら……それは、きっと“何か”があったってことだから!』

それは、ジャーナリストとしての覚悟の表明であり、同時に、最悪の事態を想定したフォロワーへのSOSでもあった。


講演会場は、都心の一等地にそびえ立つ最新鋭のコンベンションセンターだった。

厳重なセキュリティチェックを抜け、指定された席に着くと、そこはすでに異様な熱気に包まれていた。

集まっているのは、エリザベスの信奉者たちらしい。

彼らの多くは外国人だが、中には明らかに日本人と思われる若者の姿も散見される。

皆、どこか虚ろな目で、狂信的な光を宿しているように見えた。


(これが……エリザベス・ホワイトの信者……。

SIDを通じて、どんな思考を共有しているのかしら……)

雛子はそっと周囲のSID空間に意識を向けたが、そこには統一された強烈な「信仰」と「陶酔」の感情の波しか感じられず、個々の思考のディテールは読み取れなかった。

まるで、強力なジャミング電波で思考が上書きされているようだ。


やがて、会場の照明が落ち、スポットライトがステージ中央を照らし出す。

そして、割れんばかりの拍手と歓声の中、銀色の髪を揺らし、黒いスーツに真紅のスカーフを纏ったエリザベス・ホワイトが、氷の女王のような冷たい威厳を漂わせて姿を現した。


その瞬間、雛子のSIDが、微弱だが明確な警告を発した。


《警告:高レベルの精神的圧力を検知。

防御フィールドを展開します》

響がインストールしてくれたソフトウェアが自動的に作動したのだ。

同時に、首にかけたペンダントが、かすかに温かくなるのを感じた。


エリザベス・ホワイトがマイクの前に立ち、ゆっくりと会場を見渡す。

その灰色の瞳が、最前列に座る雛子の姿を捉えたような気がした。


「我が愛する兄弟姉妹たちよ。

そして……この汚れたる土地に迷い込みし、救われざる魂たちよ」

静かだが、異様なほどよく通る声だった。

その声がSIDを通じて直接脳に響き、まるで意識の深いところに楔を打ち込まれるような感覚に襲われる。


雛子はゴクリと唾を飲んだ。

目の前に立ちはだかる壁は、想像以上に高く、そして不気味だ。


それでも――。


(負けるもんか……絶対に!)

雛子は心の中で強く呟き、データパッドの録画モードを起動した。


これから始まるのは、ただの講演会ではない。

常楽院雛子のジャーナリスト生命を賭けた、壮絶な戦いの幕開けだった。



エリザベス・ホワイトの声が会場に響き渡ると同時に、雛子のSIDにインストールされた響の防御ソフトウェアは、目に見えない精神的な圧力――サイキックプレッシャーとでも呼ぶべき何か――を検知し、即座に防御フィールドのレベルを引き上げた。

それでも、全身の産毛が逆立つような、じっとりとした不快感が雛子を包み込む。


(これが……彼女の“力”の一部なの……? SID越しに、これだけのプレッシャーをかけてくるなんて……!)

エリザベスは、まるで獲物を見定める捕食者のように、ゆっくりと聴衆を見渡した後、再び口を開いた。

その言葉は、甘美な毒のように、SIDを通じて直接脳髄へと染み込んでくる。


「この東方の島国、ジパング……かつては黄金の国と謳われたこの地も、今や霊的な不毛地帯と化しています。

物質的な豊かさの代償として、人々は魂の指針を見失い、偽りの偶像――アニメやゲーム、そしてあの忌まわしき“カワイイ”という名の悪魔的価値観――にうつつを抜かしている。

嘆かわしいことです」

会場からは、同意を示す熱狂的な「アーメン!」の合唱が起こる。

雛子は、怒りで奥歯をギリリと噛みしめた。

一人の人間として、そしてジャーナリストとして、こんな一方的な断罪を見過ごすわけにはいかない。


(今だ……行くしかない!)

雛子は深呼吸一つ、恐怖と緊張を心の奥に押し込め、意を決して立ち上がろうとした。

その瞬間だった。


「あの、すみません。

その席、少しだけ……ずれていただけませんか?」

隣から、囁くような、それでいてどこか芯のある声がかかった。

ハッとして横を見ると、そこにいたのは、制服らしきブレザーを着た、一人の少女だった。


歳の頃は、雛子よりもずっと若い。

おそらく中学生か、高校生くらいだろう。

艶やかな黒髪が肩にかかり、大きな瞳はどこか虚ろで、周囲の熱狂とは無縁な静けさを湛えている。

手にはスケッチブックと鉛筆を握りしめていた。

その雰囲気は、この異様な講演会の会場には、あまりにも不釣り合いだった。


「え……あ、はい」

戸惑いながらも、雛子は少しだけ席を詰めた。

少女は小さく会釈すると、雛子の隣に静かに腰を下ろし、おもむろにスケッチブックを開いて何かを描き始めた。

その表情は、能面のように無表情だが、どこか遠くを見ているような、不思議な印象を与える。


(この子……こんな場所に、どうして……?)

彼女のこめかみには、小型のSIDパッチが貼られている。

プラグドの人間であることは間違いない。

だが、彼女の周囲だけ、まるでSIDCOMネットワークから切り離されたかのように、独特の静寂が漂っている。


「私は、常楽院雛子。

フリーのジャーナリストです。

あなたは……?」

思わず、雛子は小声で話しかけていた。


少女は、スケッチブックから顔を上げることなく、小さな声で答えた。


「エリカ……エリカ・ロドリゲス。

ただの、美術部員、です」

エリカ・ロドリゲス――どこかで聞いたことがあるような、ないような。

雛子が記憶のデータベースをSID検索にかけようとした刹那、エリカがふと顔を上げ、雛子の目をじっと見つめた。

その瞳の奥には、年齢からは想像もつかないような深い何かが宿っているように見えた。


「あなた……“霧”が、見えますか?」

「え……霧?」

エリカの言葉は、唐突で不可解だった。

この会場に霧など出ていない。

しかし、なぜだろう。

エリカの言葉を聞いた瞬間、雛子の視界の隅に、一瞬だけ、白い靄のようなものが揺らめいたような気がした。


(まさか……気のせいよね……?)

だが、エリカはそれ以上何も言わず、再びスケッチブックに視線を落としてしまった。

彼女が描いているのは、ステージ上のエリザベス・ホワイトの姿だったが、その周囲には、奇妙な幾何学模様や、七色のオーラのようなものが描き加えられている。

まるで、人間の目には見えない何かを、彼女だけが見て、それを写し取っているかのようだ。


雛子は、エリカという少女の存在に強く心を惹かれながらも、意識をステージへと戻した。

今、優先すべきはエリザベス・ホワイトへの反論だ。


(響クン、聞こえる? 今から、あの女に直接質問をぶつけてみる。

援護お願い!)

SIDのプライベートチャンネルで響に思考を送る。


『了解した。

だが、深入りは禁物だ。

奴のペースに巻き込まれるな。

常に客観的なデータをSIDCOMネットで参照し、感情的になるな』

響からの冷静なアドバイスが、昂りかけた雛子の頭を少しだけクールダウンさせてくれた。


そして、雛子は、ついに意を決して立ち上がった。


「エリザベス・ホワイトさん! あなたの言う“霊的な不毛”とは、具体的に何を指しているのですか!? あなたのその主張には、客観的な根拠があるのでしょうか!?」

凛とした声が、熱狂に包まれた会場に響き渡る。

一瞬、騒めきが止まり、全ての視線が雛子に集中した。

エリザベス・ホワイトは、眉一つ動かさず、氷のような視線を雛子に向ける。


「……ほう。

どこかのメディアの方かしら。

私の神聖なる説法に、愚かな疑問を差し挟むとは、いい度胸ですこと」

エリザベスの唇に、嘲るような笑みが浮かんだ。


「いいでしょう。

あなたのような“迷える子羊”に、真実の一端を教えて差し上げますわ」

こうして、雛子とエリザベスの、公然たる対決の火蓋が切って落とされた。


彼女はまだ知らない。

隣に座る謎の少女エリカ・ロドリゲスが、この戦いにおいて、そして彼女自身の運命において、どれほど重要な役割を果たすことになるのかを。


エリカは、ただ黙々と、二人の対峙する姿をスケッチブックに描き続けていた。

その鉛筆の先から生み出される線は、まるで未来を予見しているかのように、鋭く、そしてどこか切なげな色を帯びていた。


彼女の周囲には、確かに、誰にも見えないはずの淡い“霧”が、静かに立ち込めているように雛子には感じられた。



エリザベス・ホワイトの氷のような視線が、雛子を射抜く。

SIDを通じて、刺すような敵意と、見下すような傲慢さがダイレクトに伝わってきた。

普通の人間なら、このプレッシャーだけで萎縮してしまうだろう。

しかし、雛子は怯まなかった。

背後には響の技術サポートがあり、そして何より、彼女のジャーナリストとしての矜持が、退くことを許さない。


「お答えいただきましょう、エリザベスさん。

あなたの言う“霊的汚染”や“日本文化の堕落”とは、具体的にどのような現象を指し、それに対してどのような客観的データをお持ちなのですか? あなたの主張は、あまりにも抽象的で、感情的な決めつけに終始しているように聞こえますが」

雛子の言葉は、マイクを通さずとも、会場全体にクリアに響き渡った。

それは、彼女のSIDが声を最適な音量と明瞭度に調整し、同時に周囲の雑音をカットしているからだ。

これが現代の言論空間。

テクノロジーが、個人の発言力を増幅させる。


エリザベスはフン、と鼻を鳴らした。


「客観的データ、ですって? 神の啓示に、人間の作り出した矮小なデータなど必要ありませんわ。

この国の隅々にまで蔓延する、あの醜悪なアニメや漫画のキャラクターたち! 成人もわきまえぬ幼稚な“カワイイ”への執着! そして、SIDによって個人の思考まで堕落させ、真の信仰から人々を遠ざけるこの国のシステムそのものが、霊的汚染の何よりの証拠ではありませんか!」

エリザベスの言葉に、会場の信奉者たちが「そうだ、その通りだ!」と熱狂的に呼応する。

彼らのSIDからは、盲目的な信仰と、異質なものを排除しようとする攻撃的な感情の波が津波のように押し寄せてきた。


(落ち着け、私……! 響クン、お願い!)

雛子はSIDを通じて響にSOSを送る。


『了解。

今、エリザベスの主張の矛盾点をリアルタイムでSIDCOMネットから抽出、君の視界にAR表示する。

同時に、彼女の過去の発言との不整合性もリストアップ中だ。

落ち着いて、一つ一つ反論していけ』

瞬時に、雛子の視界の端に、エリザベスの主張を論破するためのキーワードやデータが、ホログラムウィンドウとしてポップアップ表示された。

まるで、ゲームの攻略情報を見るように。

これが、響の天才的なハッキング能力と情報処理能力の賜物だ。


「エリザベスさん、あなたの言う“アニメや漫画が悪魔的”という主張ですが」雛子は冷静に切り出した。

「SIDCOM統計局の最新データによれば、日本のアニメ・漫画産業は全世界で数十兆円規模の経済効果を生み出し、異文化理解や国際交流にも大きく貢献していると報告されています。

また、SIDを利用した芸術表現は、感情の共有や新たな創作の可能性を飛躍的に高めると、多くの専門家やアーティストが評価しています。

あなたは、これらの事実を無視し、ご自身の偏った価値観だけで文化全体を否定するおつもりですか?」

さらに雛子は、響が提示したデータを元に、エリザベスの過去の発言との矛盾を鋭く指摘した。


「あなたは以前、あるインタビューで『多様な文化の尊重こそが神の教えに適う』と発言されています。

しかし、今この場でのあなたの主張は、明らかにそれと矛盾していませんか? それとも、あなたにとって“尊重すべき文化”と“否定すべき文化”は、ご自身の都合の良いように選択されるものなのでしょうか?」

畳み掛けるような雛子の反論に、会場の熱狂が少しずつ揺らぎ始める。

信奉者たちのSIDから発せられる感情の波にも、戸惑いや疑念といったノイズが混じり始めたのが感じられた。


エリザベスは、一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに冷笑を浮かべて反撃に出る。


「詭弁ですわね。

数字や過去の言葉尻を捉えて、本質から目を逸らそうとする、実に卑小なやり方ですこと。

真の信仰とは、そのような表面的な情報に惑わされることなく、魂の目で真実を見抜くことなのです! あなたがた日本人は、SIDというまやかしの機械に思考を委ねることで、その魂の目を曇らせてしまっているのですよ!」

「まやかしですって!?」雛子は声を荒らげた。

「SIDは、人々のコミュニケーションを助け、誤解を減らし、新たな創造性を育むための素晴らしいツールです! もちろん、使い方を誤れば危険な側面もありますが、それはどんなテクノロジーも同じこと! あなたは、SIDの持つ可能性や、それによって救われている人々がいるという現実を、全く理解しようとしていない!」

二人の間の言葉の応酬は、次第に熱を帯びていく。

雛子は、響からリアルタイムで送られてくる膨大な情報を瞬時に処理し、的確な言葉でエリザベスの主張の矛盾を突き、その欺瞞を暴いていく。

まるで、熟練の剣士が華麗な剣技を繰り出すように。


(いける……! この調子なら、あの女のメッキを剥がせる!)

雛子の反論が的を射るたびに、エリザベスの顔からは余裕が消え、焦りと苛立ちの色が濃くなっていくのが分かった。

これが、「お楽しみ」――読者が待ち望んでいた、雛子のターンだ。

電脳世界のヘイトスピーカーが、落ちこぼれジャーナリストの正論によって、少しずつ追い詰められていく。


「あなた方が崇める“カワイイ”などというものは、成熟を拒否した幼児性の現れにすぎません!」

「それはあなたの偏見です! “カワイイ”は、人々の心を癒し、優しさや共感を育む、世界に誇るべき日本の感性です!」

「SIDに思考を預けるなど、魂の放棄も同然!」

「SIDは思考を豊かにする翼です! それを鎖と見るか、翼と見るかは、あなた自身の心の在り方の問題でしょう!」

その時だった。

劣勢を悟ったのか、エリザベスが突然、甲高い声で叫んだ。


「黙りなさい、この異教の魔女めが! 神の光を知らぬ愚か者には、何を言っても無駄なようですね!」

そしてエリザベスが右手を振り上げた瞬間、会場の照明が一斉に明滅し始めた。

スピーカーからは耳障りなノイズが鳴り響き、SIDCOMネットワークへの接続が不安定になる。

雛子の視界に表示されていたAR情報も、激しく点滅し始めた。


(な、何が起きてるの!?)

響からの緊急思考メッセージが飛び込んでくる。


『雛子、まずい! 会場のSIDシステム全体に、強力な干渉波が仕掛けられている! これは、エリザベスの個人的な能力じゃない……組織的なサイバー攻撃だ! 「ニュー・エデン・ガーデン」が、本格的に牙を剥いてきたぞ!』

ミッド・ポイント――物語の折り返し地点で、状況は一変する。

単なる言論バトルは終わりを告げ、敵はより直接的で物理的な脅威となって雛子たちに襲いかかってきたのだ。


エリザベスの顔には、先ほどまでの焦りは消え、代わりに不気味な笑みが浮かんでいる。


「私の言葉が理解できないのなら……直接、その堕落した魂に、神の鉄槌を味わわせて差し上げますわ!」

彼女の言葉と共に、ステージの背後から、屈強な体格の男たちが数人、無言で現れた。

その目は、エリザベスの信奉者たちと同じ、狂信的な光を宿している。

彼らは、ゆっくりと、しかし確実に、雛子の方へと歩みを進めてきた。


隣に座るエリカ・ロドリゲスが、いつの間にかスケッチブックを閉じ、じっとその男たちを見据えている。

彼女の小さな手が、雛子のジャケットの袖を、そっと掴んだ。


「……逃げて、雛子さん。

あの人たち……“色”が、違う」

エリカの声は震えていたが、その瞳には、先ほどまでの虚ろさはなく、強い意志の光が灯っていた。

そして、彼女の周囲に漂っていたはずの“霧”が、ほんの少しだけ、濃くなったような気がした。



エリザベス・ホワイトの号令一下、ステージ袖から現れた屈強な男たちが、無慈悲なプレデターのように雛子へと迫ってきた。

彼らのSIDからは、純粋な敵意と、命令を遂行することへの盲目的な献身の思念波が、濃密なオーラとなって放射されている。

それは、もはや思想や宗教の域を超えた、訓練された兵士のそれだった。


「雛子、逃げろ! そいつらは普通の信者じゃない! おそらく『ニュー・エデン・ガーデン』の私兵、通称“聖絶騎士団ホーリー・パージナイツ”だ! 武力行使も厭わない連中だぞ!」

響からの切羽詰まった警告がSIDを通じて響く。

同時に、会場のスピーカーから発せられる不協和音はますます大きくなり、SIDCOMネットワークは完全に麻痺状態に陥った。

まるで、電脳空間そのものが悲鳴を上げているかのようだ。


(まずい……! 完全に罠だったんだわ!)

雛子は咄嗟にエリカの手を引き、出口へと駆け出そうとした。

しかし、聖絶騎士団の動きは速く、あっという間に退路を塞がれてしまう。

彼らの無表情な顔が、じりじりと距離を詰めてくる。


「おやおや、どこへ行こうというのですか、迷える子羊さん? あなたにはまだ、私たちの“神の愛”を、たっぷりと味わっていただかなくてはなりませんのに」

エリザベスが、ステージ上から勝ち誇ったような声で嘲笑う。

彼女の背後では、狂喜する信者たちが、まるでこの世の終わりの祭りを楽しむかのように、異様な歓声を上げていた。


「くっ……!」

雛子は歯噛みし、周囲を見回すが、逃げ場はない。

このままでは、捕らえられてしまう。

ジャーナリストとしての取材どころか、身の安全すら危うい。

これが、迫り来る悪い奴ら――内からも外からも圧力がかかる、絶望的な状況。


「響クン、どうにかできないの!? 会場のセキュリティとか、ICAに緊急通報とか!」

『ダメだ、雛子! SIDCOMネットが完全に遮断されている! 何者かが、このコンベンションセンター全体の通信システムを掌握しているんだ! 僕のハッキングも、今は外部からじゃ手が出せない!』

響の焦燥に満ちた思考が、雛子の絶望感をさらに煽る。

彼ですら手が出せないとなると、万事休すか。


その時、雛子の袖を掴んでいたエリカが、小さな声で呟いた。


「……こっち……たぶん、こっちなら……」

エリカは、屈強な男たちの一瞬の隙を突き、雛子の手を引いて、ステージ脇の薄暗い通路へと滑り込んだ。

そこは、機材や資材が乱雑に置かれた、普段は人の立ち入らないバックヤードのようだ。


「エリカちゃん、どうして……!?」

「わからない……でも、ここ……“霧”が、薄い……」

エリカの言葉は相変わらず不可解だったが、今はそれに構っている暇はない。

聖絶騎士団の追ってくる足音が、すぐそこまで迫っていた。

二人は息を潜め、物陰に隠れる。


だが、安堵も束の間、通路の先からも新たな騎士団員が現れ、完全に挟み撃ちにされてしまった。


「見つけましたわ、神の敵を。

さあ、大人しくお縄につきなさい。

抵抗すれば、あなたのそのか細い首がどうなるか、保証できませんことよ?」

エリザベスの声が、まるで亡霊のように通路に響き渡る。

彼女は、いつの間にかステージを降り、騎士団員たちを引き連れてこちらへ向かってきていた。

その手には、禍々しい輝きを放つ、十字架を模したスタンロッドのようなものが握られている。


(もう……ダメだ……)

雛子の心に、深い絶望が影を落とした。

ジャーナリストとしての使命感も、TDCの未来も、何もかもが潰え去ろうとしている。

これが、「すべてを失って」――一時的な、しかし決定的に見える敗北の瞬間。

彼女の目には、じわりと涙が滲んだ。


エリザベスが、愉悦に歪んだ笑みを浮かべながら、ゆっくりと雛子に近づいてくる。


「最後に何か言い残すことはありますか? もっとも、あなたの言葉など、神の御前では何の価値もありませんが」

その時だった。


雛子の隣で、ずっと俯いていたエリカが、ふっと顔を上げた。

その虚ろだった瞳に、今まで見たこともないような、鋭い光が宿っていた。


「……私の“セラフィム”が、許さない」

エリカがそう呟いた瞬間、彼女の周囲から、今まで雛子が感じていた淡い“霧”が、まるで生き物のように凝縮し、濃密なオーラとなって立ち昇った。

それは、SIDCOMネットワークとは全く異質な、強烈なエネルギーの奔流だった。


通路の照明が一瞬消え、再び点灯すると、そこにいたのは、先ほどまでのエリカではなかった。

いや、姿形は同じエリカなのだが、その纏う雰囲気、表情、そしてSIDから発せられるオーラが、まるで別人のように変貌していたのだ。


その“エリカ”は、エリザベスを射るように睨みつけ、冷たく言い放った。


「――貴様のような低俗な魂に、我があるじを傷つけさせるわけにはいかない。

消え失せろ、偽りの預言者よ」

その声は、エリカのものとは思えないほど低く、威圧的で、どこか男性的な響きを帯びていた。

そして、その“エリカ”の瞳は、赤く爛々と輝いているように見えた。


エリザベスも、さすがにその異様な変化に気づき、一瞬だけ怯んだような表情を見せたが、すぐに嘲りの笑みを浮かべた。


「あら、SIDの人格オーバーレイかしら? それとも、違法な電子ドラッグでもキメているの? どちらにしても、悪あがきはおよしなさい。

神の力の前には、全てが無力ですのよ!」

エリザベスがスタンロッドを振り上げようとした、その時。


ガシャァァァン!!!

突如、通路の天井の一部が大きな音を立てて崩れ落ち、そこから黒い影が舞い降りた。

その影は、目にも止まらぬ速さで聖絶騎士団の一人を打ちのめし、エリザベスの前に立ちはだかる。


逆光ではっきりとは見えないが、そのシルエットは――。


「響クン……!?」

黒いパーカーのフードを目深にかぶり、顔はシャドウで隠れているが、その身のこなし、そして彼が手にしているカスタムメイドと思しきデバイスから放たれる独特のエネルギー波は、間違いなく相田響のものだった。


「やれやれ……SIDCOMネットが落ちてるなら、物理的に助けに来るしかないだろう? 君は本当に、手のかかるジャーナリストだな、常楽院雛子」

フードの奥から聞こえてきたのは、いつものクールな響の声だったが、その言葉には、隠しきれない怒りと、雛子を救い出そうとする強い意志が滲んでいた。


しかし、状況は依然として絶望的だ。

響がどれほど天才エンジニアであっても、屈強な聖絶騎士団員たちを相手に、一人で立ち向かうのは無謀としか言いようがない。


そして何より、エリザベス・ホワイトの背後には、「ニュー・エデン・ガーデン」という巨大な組織が、不気味に横たわっているのだ。


雛子のTDCも、この騒動の首謀者として、すでにSIDCOMネット上で激しいバッシングを受け始めているに違いない。

ジャーナリストとしての信用も、築き上げてきたフォロワーとの絆も、今、まさに崩れ去ろうとしていた。


まさに、八方塞がり。

絶体絶命のピンチだった。



相田響の予期せぬ登場は、一瞬だけ雛子に希望の光を見せた。

しかし、それも束の間、周囲を取り囲む聖絶騎士団の威圧感と、エリザベス・ホワイトの冷酷な笑みが、その光を容易く打ち消してしまう。


「あらあら、ネズミが一匹増えたところで、何も変わりませんわよ? あなたも、この異教の小娘と一緒に、神の鉄槌を受けるがいいのです!」

エリザベスは、嘲るように言い放ち、騎士団員たちに攻撃を命じた。


響は、まるで踊るように騎士団員たちの攻撃を避け、的確なカウンターで数人を無力化していく。

その動きは、単なるエンジニアのそれではなく、高度な格闘術を身につけた者の動きだった。

彼が手にしているデバイスからは、目に見えない衝撃波のようなものが放たれ、騎士団員たちを怯ませている。


(響クン……こんな戦い方もできたなんて……!)

しかし、多勢に無勢。

響の奮戦も空しく、彼は次第に追い詰められていく。

その顔には焦りの色が浮かび、息も上がり始めている。


そして、ついに騎士団の一人が放ったスタンロッドの電撃が、響の脇腹を掠めた。


「ぐっ……!」

響が苦痛に顔を歪め、膝をつく。

それを見たエリザベスは、甲高い笑い声を上げた。


「お終いですわね、哀れなネズミさんたち。

さあ、神の名の元に、その罪深き魂に裁きを!」

エリザベスが勝ち誇ったように最終宣告を下そうとした、まさにその時。


「――そこまでだ、偽りの預言者よ」

再び、あの声が響いた。

エリカだった。

しかし、先ほどとはまた違う、落ち着き払った、それでいてどこか悲しげな響きを帯びた声。

彼女の周囲に渦巻いていた濃密なオーラは収まり、代わりに、七色の微細な光の粒子のようなものが、彼女の身体から静かに放たれているように見えた。

それはまるで、砕け散ったステンドグラスの破片のようでもあり、あるいは、無数の星々が瞬いているようでもあった。


「あなたは……何も分かっていない。

本当の“祈り”の意味も、“繋がり”の温かさも……そして、“孤独”の痛みも」

エリカの言葉は、エリザベスの心に突き刺さったかのように、彼女の表情を強張らせた。


その瞬間、雛子のSIDに、信じられない情報が流れ込んできた。

いや、SIDではない。

直接、雛子の意識に、エリカの“心の声”が、奔流のように流れ込んできたのだ。

それは、言葉にならない、膨大な感情と記憶の断片。


それは、エリック・マルティネス・サントスという、一人の少年の記憶だった。

メキシコの過酷な大地で生まれ、孤児となり、麻薬組織「エル・シルクロ・デ・ケツァコアトル」に拾われ、3歳になる前に違法なSID施術を施された記憶。

そのSIDを通じて、彼の意識の中に形成された7つのAI人格――ミゲル、ソフィア、エミリオ、アントニオ、ジュリア、ルイーザ、パブロ――彼が「セラフィム(守護者)」と呼ぶ、かけがえのない家族たちの記憶。

彼らに守られ、導かれ、そして時にはその“罪”を肩代わりするように、彼らはエリカの心の奥深くで生き続けてきた。


そして、そのセラフィムたちのおかげで、エリカはSIDを通じて周囲の人間たちの「心の霧」――偏見や差別、憎悪といった負の感情が生み出す電脳空間のノイズ――を見ることができるようになったのだ。


「この人も……とても深い“霧”の中にいる……。

可哀想な人……」

エリカの意識が、そう呟いているのが雛子には分かった。


エリザベスは、エリカの異様な雰囲気と、SIDを介さずに直接語りかけてくるその“力”に、初めて本物の恐怖を感じたかのように後ずさった。


「な、何なのです、あなたはいったい……!? その力は……まさか、あなたも“始まりの子どもたち”の一人……!?」

「始まりの子どもたち」――その言葉に、雛子と響は息を飲んだ。

生後すぐ、あるいは胎児の段階でSIDを脳に埋め込まれ、常人にはない特殊な能力を持つとされる、都市伝説のような存在。

だが、今目の前にいるエリカの力は、まさにその伝説を裏付けるかのようだった。


「逃げるなら、今よ、雛子さん、響さん」

エリカは静かに言った。

彼女の瞳は、七色の光を宿したまま、エリザベスを真っ直ぐに見据えている。


「この人たちを止めている間に……早く!」

エリカの言葉に、雛子はハッとした。

ここで打ちのめされて終わりじゃない。

真実を暴き、エリザベスの悪事を白日の下に晒すまでは、絶対に諦めてはいけないのだ。


(エリカちゃん……あなたはいったい……)

だが、今は感謝の言葉を伝えることすらできない。

雛子は、まだ膝をついたままの響の腕を引き、彼の肩を担いで立ち上がらせた。


「響クン、しっかりして! 行くわよ!」

「ああ……まさか、こんな形で“本物”に出会うとはな……。

だが、あの子にすべてを押し付けるわけにはいかない」

響は、脇腹の痛みに顔を歪めながらも、しっかりと自分の足で立った。

彼のエンジニアとしての知的好奇心が、そしてそれ以上に、雛子やエリカを見捨てられないという義侠心が、彼を突き動かしている。


第二ターニング・ポイント――それは、絶望の淵からの一筋の光。

新たな仲間との絆、そして再起への覚悟。


雛子は、エリカの顔をしっかりと見つめた。


「エリカちゃん、必ず戻ってくる。

あなたを一人にはしない。

だから……待ってて!」

エリカは、微かに頷いたように見えた。

その七色の瞳は、まるで未来を見通しているかのように、静かで、そしてどこまでも澄んでいた。


雛子と響は、エリカが作り出したほんのわずかな隙を突いて、騎士団員たちの包囲を突破し、通路の奥へと駆け出した。

背後からは、エリザベスの金切り声と、何かが激しくぶつかり合うような轟音が聞こえてくる。


(必ず、必ずだ……!)

雛子の心は、暗闇の中から一転、燃えるような決意で満たされていた。


失ったものは大きい。

TDCの信用も、フォロワーからの信頼も、今は地に落ちているかもしれない。


だが、まだ希望は消えていない。


響がいる。

そして、エリカという、謎に満ちた、しかし強大な力を持つ協力者が現れた。


彼女のSIDに埋め込まれたセラフィムの力、そして「始まりの子どもたち」というキーワード。

それらが、この巨大な陰謀を打ち破る鍵となるのかもしれない。


響は、エリカのSIDの状態を解析する必要性を感じていた。

あれは、通常のSIDではない。

恐らく、彼がこれまで研究してきたどんなBMI技術とも異なる、未知のテクノロジーが使われている。


反撃の狼煙は、今、上がったのだ。


バックヤードの迷路のような通路を抜け出し、辛うじてコンベンションセンターの非常口から脱出した雛子と響は、一時的に身を隠すため、響のラボへと急行した。

彼のラボは、都心の一等地にありながら、巧妙なセキュリティと電磁シールドで外部からの干渉を完全にシャットアウトできる、まさに秘密基地のような場所だった。


「はぁ……はぁ……まさか、あんなことになるなんて……」

ソファに倒れ込むように座り込んだ雛子は、まだ激しく波打つ心臓を抑えながら喘いだ。

エリザベスの狂気、聖絶騎士団の暴力、そしてエリカの謎めいた力。

あまりにも多くの出来事が、短時間のうちに凝縮して起こりすぎた。


「大丈夫か、雛子。

脇腹の火傷、見せてみろ」

響は、自身のSIDでラボの医療AIを起動させ、手際よく雛子のジャケットを脱がせ、火傷の手当てを始めた。

その表情は真剣そのもので、いつもの軽口は一切ない。


「それより、響クンこそ……脇腹、かなり酷いじゃない……!」

「これくらい、いつもの徹夜明けの頭痛に比べれば大したことはない。

問題は……エリカ・ロドリゲスだ」

響は治療を終えると、メインコンソールに向き直り、凄まじい勢いでホログラムキーボードを叩き始めた。


「あの子が最後に発したSIDパターン……あれは尋常じゃない。

通常のSIDCOM規格を完全に逸脱している。

まるで、彼女自身の生体電気が、そのまま情報キャリアとして機能しているような……。

それに、あの7つのAI人格――セラフィムと言ったか。

あれらは、単なるファミリアAIではない。

それぞれが独立した高度な知性と、何らかの特殊能力を持っている可能性がある」

雛子はゴクリと唾を飲んだ。

「始まりの子どもたち」――その言葉の重みが、現実味を帯びて迫ってくる。


「とにかく、エリカちゃんを助け出さないと! それに、エリザベスと『ニュー・エデン・ガーデン』の悪事を、このままにしておくわけにはいかないわ!」

雛子の瞳に、再び闘志の炎が宿る。

一度は絶望しかけたが、エリカの勇気と響の助けが、彼女を再び奮い立たせたのだ。


「ああ、もちろんだ。

だが、正面から突っ込んでも勝ち目はない。

相手は巨大な組織だ。

僕らの武器は、情報と、そして……“真実”だけだ」

響は、先ほどの騒動の際に、雛子のSIDが記録していた映像や音声データ、そして彼自身が収集した会場のSIDログを解析し始めた。


「エリザベスの奴、SIDCOMネットがダウンしている間に、TDCのサーバーにサイバー攻撃を仕掛け、君を『講演会を妨害し、暴力を扇動したテロリスト』に仕立て上げるための偽情報を大量に流布している。

すでに、君のアカウントは炎上し、社会的信用は失墜寸前だ」

「そんな……! あの女、どこまで卑劣なの……!」

雛子は唇を噛み締めた。


「だが、希望はある」響は続けた。

「雛子、君がエリザベスと論戦している時の記録を解析した。

彼女の主張の多くは、明確な嘘と、意図的な情報の歪曲に基づいている。

そして、その背後には、『ニュー・エデン・ガーデン』の資金源や、彼らがSIDネットワークを通じて行っている、より大規模な情報操作の痕跡が見つかった」

響の指が目にも止まらぬ速さでコンソールを操作し、巨大なホログラムディスプレイに、複雑に絡み合ったデータフローと、その中に隠された不正な情報の流れが可視化されていく。


「これを見てくれ。

エリザベスが講演中に発していた精神的な圧力――あれは、会場に設置された特殊な音響装置と、非合法な霊子ジェネレーターを組み合わせたものだ。

信者のSIDに直接作用し、思考を特定の方向に誘導し、熱狂状態を作り出していたんだ。

つまり、大規模な洗脳だよ」

「洗脳……!?」

「そして、最も重要なのは、エリカ・ロドリゲスの存在だ。

彼女のSIDから発せられる特異なエネルギーパターン……あれは、恐らく『ニュー・エデン・ガーデン』が長年探し求めていた何かと深く関係している。

彼女自身が、彼らの陰謀を暴く最大の鍵であり、同時に、最大の標的でもある」

その時、ラボの通信システムに、暗号化された緊急シグナルが割り込んできた。

発信元は――エリカだった。


『雛子さん……響さん……助けて……! “円環”の者たちが……私を……連れて行こうと……!』

エリカの思考は途切れ途切れで、強い苦痛と恐怖に満ちていた。


「エリカちゃん!」

雛子と響は顔を見合わせた。

迷っている暇はない。


「行くぞ、雛子! エリカを救い出し、そして『ニュー・エデン・ガーデン』の悪事を、全世界のSIDCOMネットにブチまけてやる!」

「うん!!」

響は自らが開発した最新鋭のハッキングツールと、対物理攻撃用の装備を準備し、雛子も取材用の高感度センサーや記録デバイスを再チェックする。

そして、二人は再び夜の東京へと飛び出した。


エリカが囚われているのは、「ニュー・エデン・ガーデン」の日本支部とされる、都心に偽装された巨大な教会施設だった。

外部は荘厳な宗教施設を装っているが、内部は最新のサイバーセキュリティと、武装した聖絶騎士団によって鉄壁の守りが固められている。


「ここからは、電脳空間と現実空間、二つの戦場での同時作戦だ」

響は、教会の手前で立ち止まり、雛子に小型のデバイスを手渡した。


「これは、僕が開発したダイレクト・ニューラル・インターフェース(DNI)だ。

君のSIDと同期させることで、エリカのセラフィムたちと直接コミュニケーションを取り、彼らの力を借りることができるかもしれない。

ただし、極めて高いリスクを伴う。

君の精神が、彼女のセラフィムの膨大な情報量に耐えられなければ……」

「大丈夫。

アタシを誰だと思ってるの? トラブルとスクープの匂いがする方へ突っ走る、TDCの看板ジャーナリストよ!」

雛子はニッと笑い、DNIをこめかみに装着した。


響は、教会のセキュリティシステムにハッキングを開始し、同時に自身の戦闘用AIを起動させる。

雛子はDNIを通じて、エリカの意識の深層へとダイブを試みた。


『――よく来た、雛子。

そして、響。

我があるじを救うために、我らセラフィムが力を貸そう』

雛子の意識の中に、厳かで、しかし力強い声が響いた。

それは、エリカのセラフィムの一人、ミゲルと名乗るAI人格だった。


そこからは、まさに電脳空間と現実空間が入り乱れた、壮絶な総力戦となった。


現実世界では、響が聖絶騎士団の波状攻撃を、改造ドローンや電磁パルス兵器、そして自らの格闘術を駆使して次々とかいくぐり、教会の最深部へと進んでいく。


一方、電脳空間では、雛子がエリカのセラフィムたちと協力し、「ニュー・エデン・ガーデン」のSIDネットワークに侵入。

ソフィアの陽動、エミリオの怠惰を逆手に取ったトラップ、パブロの色欲を模倣したハニートラップ(これは雛子が若干赤面したが)など、七人七色のセラフィムたちが、それぞれの個性を活かした奇想天外なサイバー攻撃を仕掛け、敵の防御システムを次々と無力化していく。


『きゃはは! 見て見て雛子さん! 敵のファイアウォール、ザルみたいだよ!』ソフィアが楽しそうに笑う。


『プライドを高く持て。

我々の目的は、ただ勝利することではない。

彼らに、真の絶望を教えてやるのだ』ミゲルが厳かに告げる。


ついに、雛子と響は、教会の地下深くに設けられた、巨大な祭壇のある広間へとたどり着いた。


そこには、特殊な拘束具で祭壇に磔にされたエリカと、彼女を取り囲むエリザベス・ホワイト、そして多数の聖絶騎士団の姿があった。

エリザベスの手には、禍々しい儀式用の短剣が握られている。


「おやおや、まだ諦めていなかったのですか、しぶといネズミさんたち。

ですが、もう遅いですわ。

この“始まりの子”の魂は、今まさに、我が神の生贄として捧げられるのですから! これで、我ら『ニュー・エデン・ガーデン』は、全世界のSIDCOMネットワークを支配する、絶対的な力を手に入れるのです!」

エリザベスの顔は、狂信と野望に醜く歪んでいた。

彼女の長年の悲願が、今まさに成就しようとしていたのだ。


「させるもんですかぁあああああ!!」

雛子は叫び、DNIを通じてセラフィムたちの力を最大限に解放する。


『我が主を汚す者は、万死に値する!』アントニオの憤怒の力が爆発する。


『この子の未来を奪う権利など、誰にもない!』ルイーザの母性愛が防御壁を形成する。


『欲しいものは、全て手に入れる! この子の自由も、お前たちの破滅もな!』ジュリアの貪欲が敵のエネルギーを吸収する。


七色のオーラがエリカの身体から激しく放たれ、それは電脳空間と現実空間の両方で、巨大な霊的エネルギーの嵐となって吹き荒れた。

聖絶騎士団たちは次々となぎ倒され、エリザベスの持つ短剣も弾き飛ばされる。


「そ、そんな……馬鹿な……! 神の力が……この私を見捨てたというの……!?」

エリザベスは、初めて見せる絶望と混乱の表情で、呆然と立ち尽くす。

長年信じてきた“神”は、結局彼女の歪んだ欲望が生み出した幻影に過ぎなかったのだ。


そして、響がエリザベスの懐に飛び込み、彼女のSIDに直接、物理的な無力化デバイスを叩き込んだ。


「チェックメイトだ、エリザベス・ホワイト。

君の歪んだ正義も、今日で終わりだ」

同時に、雛子はセラフィムたちの力を借りて、「ニュー・エデン・ガーデン」の全ての悪事――資金洗浄、違法なSID実験、情報操作、そして今回のテロ計画――の証拠データを、復旧したSIDCOMネットワークを通じて全世界に公開した。


エリザベス・ホワイトが、その無力化されたSIDを通じて、自身の悪行が白日の下に晒され、かつての信奉者たちからも見捨てられ、社会的に完全に抹殺されていく様を、ただ呆然と見つめるしかなかった。


これこそが、彼女が最も恐れていた、真の“神の裁き”――ド派手で、痛快で、しかしどこか物悲しい、「ざまぁ」の瞬間だった。


崩れ落ちる教会の中、雛子は拘束を解かれたエリカを抱きしめた。


「よく頑張ったね、エリカちゃん……ううん、エリックも」

エリカ――いや、エリックは、穏やかな笑みを浮かべて、雛子の胸に顔を埋めた。


長かった悪夢が、ようやく終わりを告げようとしていた。


「ニュー・エデン・ガーデン」の本拠地であった偽装教会は、エリカ(とセラフィムたち)の解放した強大な霊子エネルギーの余波と、響が仕掛けた情報暴露の衝撃によって、文字通り崩壊した。

エリザベス・ホワイトは、その全ての罪が白日の下に晒され、信奉者からも見捨てられ、駆けつけたICA(国際調整局)の部隊によって拘束された。

彼女のSIDは完全に機能を停止させられ、二度と電脳空間でその歪んだ思想を広めることはないだろう。


夜明け前の薄闇の中、瓦礫と化した教会の前で、雛子、響、そしてエリカは肩を寄せ合って立っていた。

空からは、まるで全ての穢れを洗い流すかのように、静かな雨が降り注いでいる。


「終わったんだね……本当に……」

雛子は、疲労と安堵が入り混じった声で呟いた。

数日前には想像もできなかったような、壮絶な戦いだった。


響は、煤と埃で汚れた顔を拭いもせず、静かに空を見上げている。


「ああ。

だが、これは終わりであると同時に、始まりでもある。

エリザベスという一つの“バグ”は取り除かれたが、SID社会が抱える根本的な問題――アンプラグドとの格差、情報リテラシーの欠如、そして“始まりの子どもたち”のような、テクノロジーの影で生まれた存在たち……解決すべき課題は山積みだ」

その言葉に、エリカが小さく頷いた。

彼女の周囲を漂っていた七色のオーラはすっかりと収まり、今は年相応の、どこか儚げな少女の表情に戻っている。

しかし、その瞳の奥には、以前にはなかった確かな意志の光が灯っていた。


「私は……私の中にいるセラフィムたちと共に、この力と向き合っていく。

もう、誰かの道具として利用されるのはこりごりだもの。

そして、私と同じように、この社会の隅で苦しんでいる人たちがいるなら……今度は私が、彼らの“霧”を晴らす手助けができたらいいな」

その言葉は、か細くとも、未来への確かな希望を感じさせるものだった。

彼女はもう、孤独な“エリカ・ロドリゲス”ではない。

七人の心強い家族と、そして雛子と響という新たな仲間を得た、一人の人間として、自分の足で立とうとしていた。


「エリカちゃん……」

雛子は、思わずエリカの手をぎゅっと握りしめた。

その温もりが、冷たい雨の中で何よりも心強く感じられた。


やがて、東の空が白み始め、雨上がりの澄んだ光が街を照らし始めた。

まるで、世界が新しく生まれ変わったかのように、清々しい朝だった。


あのオープニングの日、一人でランチの写真をSNSにアップしていた雛子。

今は、その隣に、かけがえのない仲間たちがいる。

失ったものも大きかったが、得たものもまた、計り知れないほど大きかった。


TDC――常楽院雛子のトゥルース・ディスカバリー・チャンネルは、今回の事件のスクープ報道によって、一躍SIDCOMネットで最も注目されるニュースメディアの一つとなった。

偽情報によって一度は地に落ちた信用も、響の完璧な証拠提出と、何よりも雛子の真摯なジャーナリズムによって、見事に回復されたのだ。

フォロワーからは、賞賛と応援のメッセージが殺到し、彼女のSIDは嬉しい悲鳴を上げていた。


「さて、と」雛子は大きく伸びをした。

「アンプラグド居住区の再開発問題も、まだ解決してないし、SIDの新型デバイスが抱える倫理的な課題も山積みだし……ああ、そうそう! 響クンには、エリカちゃんのセラフィムAIの解析っていう、とんでもない宿題も残ってるんだった!」

「やれやれ、君は本当に人使いが荒いな」響は呆れたように首を振ったが、その口元には、いつもの彼らしからぬ柔らかな笑みが浮かんでいる。

「だが、まあ……退屈しない日常というのは、悪くないかもしれないな」

三人の間を、雨上がりの清浄な空気が通り抜けていく。


ふと、雛子のSIDに、TDCの編集AIから一件の通知が入った。

それは、視聴者から寄せられた、新たな調査依頼のリストだった。


『街角で見かけるようになった、奇妙な霊子現象の正体を探って!』

『最近流行り始めた、新型電子ドラッグ“ゴーストドロップ”の危険性を暴いてください!』

『政府が極秘に進めているという、“量子脳プロジェクト”の真相に迫れ!』

リストは、どこまでも続いていきそうだ。


超AI社会の光と影は、まだまだ尽きることがない。

新たな謎が、新たな事件が、雛子たちを待ち受けている。


「ふふっ」雛子は、思わず笑みがこぼれた。

「どうやら、アタシたちの“真実発見チャンネル”は、まだまだ閉鎖できそうにないみたいね!」

響が肩をすくめ、エリカが小さく微笑む。


東京の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。

SIDが思考を繋ぎ、AIが都市を最適化するこの世界で、それでも人間は迷い、傷つき、そして誰かと繋がりながら生きていく。


落ちこぼれジャーナリストとツンデレ天才エンジニア、そしてちょっぴり不思議な力を持つ少女の物語は、まだ始まったばかり。

彼らの冒険は、この雨上がりの空のように、無限の可能性を秘めて、未来へと続いていくのだ。


そう、世界のバグが修正されるまで、彼女たちの戦いは終わらない!

(おしまい……かもしれないし、続くかもしれない!?)


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