ある二人の話
遅くなりました。
町が朝日に包まれた。
「恋ちゃん恋ちゃん。今日、バレンタインですね!」
桜色の瞳を細め、真っすぐの茶色の二つ結びを揺らす少女が雲の上で言った。
「知古ちゃん知古ちゃん。そうですそうです! バレンタインなのです! 一年ぶりです!」
茶色の瞳を輝かせ、ふわふわとした桜色の髪を揺らす少女が駆けていく。
日本の空に住んでいる二人は、年に一度、日本中の人がチョコレートと恋を意識する日に会える。さながら七夕のようだが、単に二人が目覚めるのが年の中で今日一度だけというだけだ。二人を分かつものはいないし、そんな罰を受けることはしていない。そもそも二人の間に存在するのは友愛のみであり、恋愛ではない。
恋と呼ばれた少女は走っていき、知古と呼ばれた少女とハイタッチをかわす。
「雲の下見に行きますか? わたしわたし、とっても楽しみなのです!」
「いいですよ。行きましょう! わくわくしますね!」
「ですです! ではでは! せーっの!」
恋は知古の左手を取り、雲の上で跳ねる。やがて二人は重力に従ってゆっくりと落ちていく。
あいにくの曇り空。しかし二人は陽だまりのような笑顔を浮かべ、無事に着地した。
「わあ! 知古ちゃん知古ちゃん。見てください! ピンク色のチョコレートです! 美味しそうなのです!」
「恋ちゃん恋ちゃん。あっちも見てください! 幸せそうに笑う恋人さんがいます!」
互いに手を絡めたまま、コロコロと楽しそうに笑顔を浮かべる。
二人はきょとんと顔を見合わせたあと、弾けるように笑った。
「知古ちゃん知古ちゃん。わたしすーぱー行きたいのです!」
「恋ちゃん恋ちゃん。私も行きたいと思ってました! 行きましょう行きましょう!」
知古はおーと進路を指さし、恋の手を引いた。恋は視線をあちらこちらに移し、華やいだ空気や建物にはしゃぐ。知古は周りを見渡して、大勢の人が笑顔を見せていることを嬉しく思った。
スーパーに着き、恋は一目散にバレンタインコーナーに向かっていった。
知古はそれに合わせて走り、ちらりと恋を見た。
ドキドキとした表情で、憧れを前にするかのような目を向けていた。先ほどまで声をあげていたのが嘘のようにチョコレートを眺め、そっと触れた。
知古はそれを目を細めて、恋の右手の熱さに、心を温かくした。
「誰かの好きを伝えてくださいなのです!」
そうチョコレートに笑いかけた後、恋は知古を見た。
「知古ちゃん知古ちゃん。行きたいところありますか?」
「恋ちゃん恋ちゃん。私、がっこーに行きたいです!」
「行くのです行くのです! しゅっぱあーつ!」
恋は、スーパーに向かう時そうしてくれたように、知古の手を引いて学校へと向かった。
二人は絶え間なく笑顔を咲かせながら、通り過ぎる人々、視界に映る建物の数々をその綺麗な目で眺めた。
やがて、二人は登校中の生徒に混ざって学校に入っていった。
校門をくぐり、昇降口で靴を脱ぐふりをしてみたり。靴箱にチョコレートが入っていることに顔を合わせてにこりと笑ったり。階段を上る途中で、恋の手が知古の手を離れかけてしまったり。教室についてから生徒たちを見渡してみたり、机の中を覗いてみたり、チョコレートを机の中から見つけて固まっている男子生徒の顔を面白そうに見てみたり。
そうして校内の全クラスを周り、授業をたまに聞いて見たりしながら半日を過ごした。
放課後、相変わらずの曇り空だが、ある一人の少女が屋上で告白をする。
その恋と、手に握られたチョコレートの行方を見守ろうと、恋と知古も屋上へ歩いた。
「わくわくします!」
「ドキドキするのです……」
恋は祈るように両手を首元に引き寄せ、知古は目を細めて少女を眺めていた。
やがて屋上のドアが開き、少年が少女の手に握られたチョコレートを不思議そうに見つめた。
汗が滲んだ両手で、振り絞るように口を開き、たどたどしくチョコレートを少年に渡した。
少年は受け取ったチョコレートを、やはり不思議そうにじっと見つめ、それから少女に視線を移した。
「これ、なあに? あ、えっと、ごめんけど、みんなチョコレート渡してるけど、なんか、えっと、よくわからんくて、変な顔してるのも、分からんくて、あの、好きって、ゆってくれんのは嬉しいけど、よくわからんくて、コイ? って、なにが友達と違うのか分からんくて、えっと、だから、これ、なんで、っておもって、わからんくて」
それを聞いた少女は、緊張が和らいだように笑った。
「貴方が分からないのは私、きちんと知ってるの。でも、どうしても伝えたくて。きっといつか……、ああでも、未来のことなんて私も分からないね。えっと、ね。分からなくても、そういうものだと知っていてほしいの。私が、貴方を、恋愛的に好きだって。ごめんね。変なこと言っちゃった。あはは。今日はバレンタインって言ってね、大切な人にチョコレートとか、贈り物をする日なの。女の子が多いかな。女の子が、好きな人とか友達にチョコを渡す日? とにかく、そういうことだから。それじゃ、また明日ね!」
言い残して、少女はぐちゃ、と笑みを浮かべ、屋上を去った。
二人は顔を見合わせ、笑った。
「悲しいのです!」
「気持ちを伝えられたから、この日に意味はありました」
むむ、と恋は不満げに知古を見る。
「知古ちゃん知古ちゃん。知古ちゃんは大人なのです! わたしにはわからないのです!」
「恋ちゃん恋ちゃん。私も大人じゃないです!」
「……? 晴香ちゃん、変な顔、してた? と、と、とりあえず、これ、お家に帰って、食べよ」
少年の独り言に、恋と知古は少年の方を向いた。
少年は入ってきたときと同じように、ごくごく普通に屋上を出ていった。
しばらく二人は互いの瞳を眺め、同じ瞬間に笑い出した。
「そろそろ帰るのです! あ! 見てください見てください! あそこのお家、しょんぼりしている人が居るのです!」
「恋ちゃん恋ちゃん。時間がありません!」
「チョコっとなら多分平気なのです!」
にこにこと笑って、恋はかけていく。
知古はどんどん引かれていく手を見て、それから大きく飛び降りた。屋上から飛び降りても、二人は大丈夫だ。
そして走り出し、大急ぎでその家に向かっていく。
電灯が灯る。二月の風が二人の髪を揺らし吹き抜けていった。
やっと家に着き、知古と恋は少年を見た。
「あーあ。リア充はいいよなあくそったれ。チョコがもらえんのなんて二次元だけだよバーカ」
ぶつぶつと言いながらスマホに視線を注ぐ彼に知古は恋をちらりと見た。
「恋ちゃん恋ちゃん。これが見たかったんですか?」
「知古ちゃん知古ちゃん。お祈りするのです! 来年はこの子がチョコレートを貰えますように!って!」
「お祈り? 私も、ではでは」
二人が両手を合わせて、そっと目を閉じる。
恋と知古は、制限ギリギリまでそうしていた。
はっとして知古が目を開けると、あと数分で雲が閉じられるらしいと分かった。
それは恋も同じで、だがどこか楽しそうな表情を知古に向け、家を出た。
当然手を繋いでいる知古もともに、だ。
大慌てで来た道を引き返す。
濃い夕日が人々を照らしあげる。
「行きます! せーっの!」
知古が叫ぶと、恋と知古の体が浮き始める。
よかった。間に合った。
知古はふわりと広がる安堵感に、緊張の糸を切った。
「知古ちゃん知古ちゃん。楽しかったのです!」
「恋ちゃん恋ちゃん。私も楽しかったです」
「それではそれでは!」
「「また、来年!」」
二人の声が重なった途端、二人は一年の眠りについた。
町は薄明かりを帯び、静けさを纏い始めた。