072 信用の代償(その2)
まだ名前がなかった頃、その少女は、ある施設で育てられた。
物心付く前、もしかしたら生まれてすぐの時からその施設で過ごし、十五歳から成人の間に『出荷』されると聞いていた。まるで家畜のような扱いだが、育てられている間は終ぞ、理解することはなかった。
施設の中だけの狭い世界では、その必要がなかったからだ。
けれども、少女には歪ではあるものの、わずかに自我が芽生えていた。
『……よし、いいぞ』
ずっと、見ていたからだ。同じ立場の者の中でも、一番商品価値の高い少女のことを。
自分はいつも二番で……彼女は常に、一番だった。
それが当たり前の狭過ぎる世界では、商品価値の優劣こそが唯一の存在意義だった。
けれども、何故か彼女にだけは勝てずにいた。
射撃も、武術も、言語をはじめとした座学でも、商品価値はいつも彼女の方が上だった。
無論、彼女を超えようと、訓練以上の努力もした。
時には肉体をいじめ抜き、時には徹夜で勉強し、時には彼女を殺すつもりで挑んだこともある。
しかし、その悉くを……後に『久芳姫香』と呼ばれることになる少女は、歯牙にも掛けていなかった。
そしていつも、無表情を顔面に貼り付けるのだ。
その様子に……後の『鵜飼理沙』は、それが退屈そうな表情だと思えてならなかった。
『用事ができた。今日は仕事用の車で迎えに行く。時間までに終わらせるから、後で場所だけ教えてくれ』
「昔は殺してやりたい位にムカついていたはずが……今ではただのスマホ中毒とはな」
さらに数歩下がり、警戒を緩めないまま、姫香はスマホに来ていた連絡に目を通した。理沙の戯言は無視したまま、次の行動へと移す。
『私の家まで迎えに来ること。時間厳守で』
睦月は仕事用の車を、必要な時以外は絶対に使わない。直接依頼が来たのだと考えた姫香は、理沙の義兄である勇太を疑い、真っすぐに指を差した。
「……ああ、連絡が来たのか」
そこでようやく、理沙はゆっくりと手を降ろした。それ以外は、何かをする様子を見せないようにして。
「悪いが……帰っていいか? 今日は偶々見かけたから、仕事の話がしたかっただけだ。何も用意していない」
「…………」
それは、姫香も同様だ。
武装もなく、助けも呼べない現状。しかも戦う理由がない以上、その要求に応えることが、一番合理的だった。
「…………っ」
「だからいつも煽るなっ!」
舌打ちに中指を立てたりと、徹底的に挑発する姫香。そして軽く首を振り、理沙に『失せろ』と言外に告げた。
「昔の貴様なら興味すら持とうとしなかったくせに……」
先に背を向けて敵意がないことを示してから、理沙は立ち去っていく。
「…………今の貴様は感情がある分、余計に質が悪いな」
そう、吐き捨てた上で。
仕事を請ける基準は、利益や感情論だけに留まらない。
自らの能力に見合った仕事かどうかを判断するのもまた、仕事を成功させる為に必要な作業だった。
「……相手の実力は?」
「レースの動画ならある。スマホに送るか?」
「あ、ボクにも見せて」
全員がスマホを取り出し、それぞれが勇太の共有した動画に目を通していく。映像はレース前から始まっており、最初に相手の姿が露わになる。
たしかに……周囲の人間が言う通り、美人の類なのだろう。
短髪で高長身。肉付きはしっかりしている上に、顔立ちはかなり整っている。上着は羽織っているものの前開きになっており、丈の短いタンクトップで肌がかなり露出していた。しかし逆に、下半身はパンツスタイルでかっちりと固められていたが。
「なんか……格好だけでも、童貞が寄ってきそうだな」
「おまけに顔もいいしな……つっても、あいつ等程じゃないか?」
「知らねえよ。俺は別に整形してなけりゃ、顔や身体にそこまで拘りないぞ?」
ちょっとした独り言にも返してきた勇太に睦月はそう言い返し、動画に戻った。
あと少しでレースが始まるらしく、映像の女性は対戦相手と共に、それぞれの車へと乗り込んでいく。
「そういえば……この動画、どうしたんだ?」
「『偽造屋』の経営しているバーに入り浸ってる探偵がいるだろ? そいつにレースの前後を撮影するよう、依頼したんだ」
「あの引き籠りか? よく依頼請けたな、あいつ……」
「暇だったんじゃない?」
偽造の依頼をする際、『偽造屋』がオーナーをしているバーが窓口になっている。そこの常連の一人に、今回勇太は依頼したらしい。
探偵を名乗っているくせに、大体の時間は家に引き籠っている変人だった。その男が依頼とはいえ、よくストリートレースを観戦しに行ったものだと、睦月は思わず感心してしまう。
『…………レディ、』
そんな中、レースの開始を告げる音声が、動画の中から飛び出してきた。
『……セット、』
歓声とエンジン音が高まっていく。しかしその喧噪を切り裂くようにして、
『――――ゴー!』
……スタートの合図が切られた。
「…………はぁ」
自宅に戻った姫香は、しばらく何もできずに、埃避けのカバーを外したベッドの上に寝転がっていた。睦月とのデートに備えて、色々と準備したくはなるものの……今は思考の方がごちゃついていて、何もする気が起きないでいる。
「……よっ、と」
それでも手はスマホに伸び、充電ケーブルや電源タップをセットしてから、画面に指を這わせていたが。
「睦月は…………は?」
何をしようかと考えて、ふと睦月の居場所が知りたくなる姫香。相手のスマホの位置情報を確認してみると、何故か地方都市の北側にある工場地帯を示していた。
一瞬、弥生の工房にでも行ってるのかとも思ったのだが、記憶にある住所からはかなりずれている。
「何でこんな所に……?」
今日会った理沙の話を思い出し、おそらくは彼女の義理の兄である『掃除屋』が指定したのがそこなのだろうと、姫香は考えた。
「また……あの『掃除屋』か」
たしか、彩未に出会う少し前のことだったと思う。
だが時期よりも、特に印象深かったのは……睦月を本気で怒らせてしまったことだった。
「…………」
充電状態のスマホを顔の近くに手放し、姫香は静かに、目を閉じていく……
――バンッ!
『ふざけてんのか、お前……』
死んだと思っていた相手が生きていた。本当は嬉しさで顔が綻びそうになる展開のはずだったが……当時の姫香の心中は、恐怖で占められていた。
『俺がいつ、『お前の生命が欲しい』なんて戯言をほざいたんだよっ!』
初めて見たからだ。睦月が、殺意をも上回る怒気を撒き散らす一面を。
車体に叩き付けられた姫香だが、自らの身体を抑え込む睦月の腕から逃れようと思えば、簡単にできた。けれども、たとえ技術があろうとも……心が委縮して、身動きが取れずにいた。
『ただでさえ、『自閉スペクトラム症』なんて面倒な発達障害抱えてるってのに……さらに自分以外の生命まで、背負わせようとすんじゃねえよっ!』
『…………っ』
演技の為、自在に涙を流す訓練は施されている。その逆の行動を重ねてどうにか、泣かないように自分を抑えるのが精一杯だった。
もしかしたら、すでに涙目だったのかもしれない。しかし、当時の睦月は気付いていたのかあえて無視していたのか、それを指摘されることはなかったが。
『勘弁してくれよ……ただでさえ、こっちは自分のことで手一杯なのに…………』
睦月の腕から、徐々に力が抜かれていく。それに合わせて姫香の足が崩れ、そのまま地面の上に、腰を降ろしてしまう。
腰が抜けてしまったのだ。睦月の怒気と……彼自身に圧し掛かっている精神的重圧から生まれたであろう、苦悶に満ちた表情を見て。
『……もういい』
目元を抑えながら、睦月は姫香に背を向けてくる。しゃがみ込んでしまう彼女を起こそうともせず、車から何かを取り出して、その場を去ろうとしていた。
『俺が欲しいのは『人間』だ。勝手に自分を使い捨てるような『道具』じゃないっ!』
『っ!?』
思わず伸ばそうとした手が、怒声に弾かれてしまう。
『もし、まだ俺に生命を捧げようなんて、馬鹿な考えが消えてないなら……失せろ』
明確な拒絶……
『二度と、その顔見せるなっ!』
それを理解した姫香は、誰にも見られない涙を、静かに流した。
唯一、傍にいた睦月はもういない。
――『掃除屋』達に対して、けじめをつけに行ったからだ。
姫香がベッドの上で寝転がっている頃、動画内では丁度、レースが始まっていた。
「随分改造しているみたいだが……この加速はAT車か?」
「多分な。直線での変速が滑らか過ぎる」
車は変速機の扱いにより、二種類に大別される。
手動のMT車と、自動のAT車の二種類だ。それぞれにメリット、デメリットはあるものの……現代の主流で言えば、後者の方が圧倒的に多い。
特に、AT車は自動で変速を行う為、手動操作でギアを上げていくMT車に比べて、加速しやすいのだ。
「機体性能だけで言えば、市販車じゃまず勝てないな……もしかして、こいつもエンジン二基搭載車か?」
「悪いが……確実なことは言えない」
どこか申し訳なさが含まれている声音で、勇太は答えた。
「こっちでも調べてみたんだが……どうも専用の整備士やらを隠しているみたいでな。弥生の婆さんにも頼んでるんだが、最悪この動画以上の情報は手に入らないと考えといてくれ」
「……船、じゃないかな?」
何かに思い当たったのか、睦月と勇太の会話に、弥生が割り込んでくる。
「船内に整備工場一式を用意して、車ごと移動させられれば、山間部でない限り足取りは掴めなくなる、よね?」
「……その山間部も、輸送用のトラックを深夜帯に走らせれば、一般人はまず気付かないしな」
ここまで来れば、後は『運び屋』の独壇場だった。
「塗装やナンバープレートの偽造次第だが、車を運び込むこと自体難しくはない。おまけに日本は島国だ。普段は領海から出しておけば……弥生の言う通り、まず見つからないだろうな」
実際、似たような依頼も請けたことがある。中には秀吉の手伝いではあったが、改造したコンテナ船内で整備士の手伝いもしていた。手間暇は掛かるものの、技術的には十分可能だった。
「やっぱりAT車だな、これ……カーブ時の減速が遅すぎる」
これは睦月の私見だが……直線のコースなら自動で変速できるAT車が、曲線のコースであれば手動操作でギアを任意に上下できるMT車の方が、有利だと考えている。
無論、機体性能や運転手の技量にも依るだろうが……その二つどちらにも差がなければ、必然的に有利なのは、コースに適した車の方だ。
「でも結構上手いよ、この人。睦月に並ぶんじゃない?」
「どうだか……少なくとも、ドリフトは同じ位か?」
自動変速による減速の遅さをサイドブレーキとドリフト走行の加減で誤魔化し、強引にカーブを曲がっている。所謂横滑りだが、一歩間違えれば簡単に脱線する技法だ。
……逆に言えば、それを全て成功させている時点で、運転手の技量の高さが窺える。
「……でも睦月、今でも偶にエンスト起こすじゃん」
「そりゃお前の時みたいに強引に方向転換繰り返してたら、さすがにエンスト起こすわ」
春先の高校入学前に『ペスト』と衝突した時みたいに、状況によっては無茶な運転を強いられることもあるのだ。睦月自身が極力避けるようにしていても、臨機応変な行動を求められる場面は必ず訪れる。
だからこそ自らの技術を高め、不測の事態にも対応できるだけの経験を重ねなければならないのだ。
「…………ん?」
レースと共に、動画も終わりを告げた。
あの勧誘の女がレースの後にどうしたのか、そして対戦相手の運転手がどのような末路を辿ったのかは分からない。しかし、今の睦月には別の気掛かりがあった。
「どうかしたの? 睦月」
「いや……」
再生を停めた動画を操作して、気になる場面を何度も指先でループ再生させる睦月。
気が済むまで動画を確認しただろうタイミングで、勇太はスマホから目を離した睦月に尋ねた。
「で…………勝てそうか?」
あえて、『仕事を請けてくれるか?』とは聞かない。
いくら勇太に対して遺恨があろうとも、今の睦月は『運び屋』として、依頼内容を吟味している。そこに感情は差し込まれていない。たとえ一時的に忘れているだけだとしても、プロであるならば、『当事者間の問題』という私情を挟むことは許されなかった。
それ以前に、感情を抑えられないのであれば……睦月は最初から、勇太の依頼を聞こうともしなかっただろう。
だからこそ勇太は、睦月に勝算を問うたのだ。
「ちょっと待て……考える」
睦月は考えごとをする際、両手が空いていると、自らの眼前で掌を合わせる癖がある。しかし重ねる程ではなく、どちらかと言えば指同士を触れ合わせているだけだった。
その癖に至った理由は睦月自身も分かっていなかったが……それが一番集中できるからと、手に何も持っていない時は必ずする。
それが睦月の、『|何ものにも縛られない蝙蝠』の戦闘準備開始の合図だった。
「依頼の詳細も説明する。意見も挟むから、口に出してくれ」
そして、睦月の癖は勇太をはじめとした昔馴染み達、『最期の世代』は全員知っている。
慣れた調子でそう指示してくる勇太に従い……いつも脳内で考えている言葉を、睦月は発した。
「…………状況を整理しよう」




